プロローグ
人類が21世紀を迎えたのは、なんともあっけない夜だった。
幼い私は、その時初めて知った。
この世界において、私たち人間は決して特別な存在ではないのだと。
西暦2000年12月31日深夜23時59分から西暦2000年1月1日深夜0時へと移るその瞬間には、我々人類を除いた何物も祝いのクラッカーを鳴らさなかったし、どこかのイギリス人が予言した恐怖の大王によって世界が滅んだり、全知全能の神が自分の王国を引っ提げて地上に戻ってくるようなこともなかった。
こんなにもキリの良い特別な日には、絶対何か、そう何かが起きるに違いないと、子供ながらに思っていた。
インターネットのホームページですら、キリの良い時は、例えばあなたは9,999番目の訪問者ですなどと祝ってくれるし、自分がその番号を踏んだと掲示板で報告したら、ホームページの主は喜んでくれたものだ。——無論、そうしなかったらさんざん文句をぶー垂れられるのだが。
しかし、キリの良い特別な日には何かが起こるなど、そう思っているのは私、よく言っても我々人類だけだった。
今が西暦何年だかなんて、暦を持たない者(例えば宇宙の法則とか?)には何ら関係はなかった。
ただ人間のみが、自分たちの頭の中だけで時間の流れに勝手に数字をつけ、暦の始まりとしては何の自然的科学的根拠もない年を第1年目として数え始めただけだ。
こういった誰かの思い付き——もしかしたら掃除の時間の雑巾以上に頭を絞って出した考えかもしれないけど——を、私たち人類はみんなして、大事に信じているのだ。
年を越えたその瞬間に、何かを期待して空を見上げても、ただ前の日と同じように、そして、次の日もおそらくはそうだったように、星辰が移ろいでいるだけだった。
期待ほどは豪快に始まらなかった21世紀ももう20年以上は経過したことだし、星を見上げていた子供も、いつの間にやらいい年になった。
新聞のうちテレビ欄を一番の楽しみにすることもなくなったし、ガラケーのメールを必死にうち、新着メール問い合わせに心躍らせるのももう必要ない。
窓を叩く音がする。カーテンの隙間から漏れ込んだ日差しが眩しい。
大人とはつらいもので、朝、目が覚めると仕事には行かなければならない。
窓を開け、到着の知らせを続けていた宅配ドローンが運んで来てくれた朝食セットを机に置く。コーヒーショップの小粋なイラストが躍る箱を開けると、程よく焼けたクロワッサンと、香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐった。アメリカンコーヒーを無糖で嗜むなんて、昔の自分じゃ考えられなかったけど。
スマホ型≪デバイス≫を起動して、音楽のAPPを立ち上げる。
スピーカーへはBluetooth接続だ。
音楽を流しながら≪マナ≫を送り込めるよう、デバイスを太ももで挟む。
基本、素肌じゃないと作動しないのは微妙だな。そういえば、服越しの≪マナ≫充電可のお洋服もあったかもしれない。次はそういう服を買おうかと、脳内の買い物かごのリストを書き加える。
——ま、そもそも今まで通り電気を使えばいいんだけどね。
新技術は使いたくなるサガなのだった。
人類が根源的に持つとされる≪マナ≫(つい10年ほど前に「発見」された)と呼ばれているエネルギーのみで起動・充電できる≪デバイス≫が発売されたのは、ついここ数年の事だった。
千種あかね(チクサ アカネ)にとって、今日は少し特別な朝だ。
「入学式、かぁ」
新年度というのは、何回迎えてもわくわくするものだ。
それが初めての物だとなおさら。
生徒や学生としても、教師としても。
取り急ぎの本文です。プロ・プロローグとして。