プロローグ
空を見上げると、澄み渡るようだった青色が紅色に焼け始めていた。
ざぁっ、とガードレール越しに隣を過ぎ去っていく自動車の音を聞きながら、アスファルトでできた緩やかな坂道を下っていく。
皆ここから帰っているから、という理由で選んだこの下校路には、今日は珍しく人気がなかった。歩いているのは僕だけで、他にいるのはカナカナカナと鳴くセミくらい。
夏真っ盛りといえどもこの時間帯になれば少しは涼しくなるもので、それが一日の終わりを感じさせる。
そう、今日もまた終わる。僕は学校に行き帰り、日はただ空を過ぎるだけ。息を吐くように当たり前な、平凡な日々の模様。
いつものように駅前に通じる横断歩道を遠目に捉え、ふと考える。
明日は僕の誕生日だ。そして、法的に成人としての責任が課される日。一生に一度しかない、記念すべき日……である。
もう僕もこんな歳か――と考えると、内から二つの感情がわきあがる。一つは小さい頃憧れていた〝大人〟の仲間入りをやっと果たせるぞという思いと、もう一つは二十年にわたる〝子ども〟ももうこれでおしまいか、という思い。
どちらかといえば達成感が多い。周りのみんなもそう喜んでいる。だから僕もそう喜ぶ。
しかし――今の僕は、大人と呼ぶに足る人間になれているんだろうか?
……別に、年齢はゲームのような〝レベル〟じゃない。二十歳になったからといってすぐに心に変化が現れるはずがない。
だが、考えてしまう。この世に生まれてから僕は、ずっと流されるまま、言われるがままに生きてきた。小学校も中学校も高校も今在籍してる大学も、全部そうだ。
何となく物事を考え、何となく物事を決めてなすがままに日々を過ごしている。
……今度行われる成人式には行くつもりだ。そこで僕は、大学以前に付き合いがあった友人たちと再会するだろう。その時僕は、昔のままではない旧友を前にして、今の自分と比べずにいられるだろうか?
「……凡人だ」
ぽつり、と思わず自分の口からそんな言葉がこぼれ出た。
……違いない。この言葉は、今の僕をこれ以上ないというほど正確に表している。
容姿も普通。
体格も普通。
頭のできも。
運動神経も。
性格も、思想も学歴も名前も血筋も家庭環境も何もかもが普通だ。
特技も無ェ、趣味も無ェ、ついでに言うならやる気も無ェ。金も無ェ、彼女も無ェ、学校毎日ぐーるぐる。
「……はぁ」
嘆息を一つ。
「……個性が欲しい」
どんなことでもいい、些細なことでいい。一つでいいから僕だけの個性――アイデンティティが欲しい。
これからもずっと、僕はこのままなんだろうか。かといって無理に個性を作って周囲に白い目で見られるのもどうなんだ。
……そもそもこんなことで悩んでる時点で凡人丸出しだって話だよな。
それでも何か――いまだ自分でも気付けていないような、そんな個性を発見できればこんなに悩まなくてすむのに。
「あー、もやもやする」
叫んでしまおうか。
人気のない今なら誰にも見咎められずにすむ。車は通ってるが、高速で過ぎ去るだけだ。
それに、いきなり外で何かを叫ぶというはたから見れば奇行ともとれる行為は――〝普通〟じゃないだろう。
「よし」
立ち止まる。
そして思い切り空気を吸い込んで――地に溶け込んでいく太陽に向かって、僕はもやもやを全力で吐き出した。
「あ、ああ、ああああああああああ!」
『――おお、これで繋がっただろうか。……うむ。どの人間を呼ぶかは指定できん。最悪、意思疎通もできないような人間を呼んでしまうかもしれん』
「ああああ……あぁッ⁉」
そんな中、突然老人のようなしわがれた声が僕の頭の中に響いた。
びくんっ、と心臓と一緒に身体が跳ね上がり、僕は慌てて辺りを見回す。
「あ、あぁぁ、あぁ……」
終わった――一瞬そう考えたが、何度見回しても辺りに人の姿は確認できない。
とりあえず人に見られていないことに胸を撫で下ろす。
……しかし、となると今の声はなんだったんだ? 慣れないマネをしたストレスと、誰かに見られるかもしれないという恐怖感から、一時的に幻聴を体験してしまったんだろうか?
『よし、それでは召喚の儀を執り行う。一度きりしか行使できない魔術だ、失敗は許されんぞ。願わくば、我々に有益な人間が召喚されんことを。さぁ、皆儂に魔力を集めよ』
いや、やっぱり聞こえるんだが?
なんだよ召喚の儀とか魔力って。どこの宗教の人ですか?
……いや、これも考え方を変えれば個性か? 「魔術師っぽいおじいさんの声が聞こえる」ってキャラで売り出せるだろうか。
厨二病キャラかな?
疲れてるんだろう。僕は幻聴を気にしないものとして、その場から再び歩き出した。
駅前の横断歩道までたどり着く。もう少しで駅だ。駅は道路を挟んで、反対側の歩道脇にある。
『おおおおおおッ、我らに英知を与えたまえ、救いたまえ……ッ、……、召喚ッ!』
幻聴ってすごいな。こんなバリエーションもあるんだ。
やけに気合の入ったおじいさんの声を聞きながら、僕は横断歩道を渡り始めた。
今日は帰ったら早く休もう。成人を明日に控え、無意識のうちに緊張してたんだろう。
『……ッ! よし! 成功だッ‼ 来るぞッ!』
おー、よく分からんが成功してよかったなぁ。
……なんて呑気に考えていると、突如謎の浮遊感が僕の体を包み込んだ。地に足が着いていないような、どこかに体を丸ごと強く引っ張られているような、不思議な感覚――
――同時に、真横からパパ―ッという耳をつんざくようなクラクションが鳴った。
ぞくり、と悪寒が体中を駆け抜け、血の気が一気に引いていく。
意識がぎゅっと圧縮され、何もかもがスローモーションに見える。そんな中で僕は、今わたっている横断歩道の信号を確認した。
信号が示している色は、さっき見た空の色と同じ、夕焼けの紅色。一日の終わりを告げる、今までに何度も何度も見た色。
一瞬で理解する。幻聴に意識をとられたのか、僕は信号の確認を怠ったのだ。
スローモーションの中で横に目を向けてみると、目と鼻の先にメルセデス・ベンシの洗練されたマークが。その先には陽光を受け反射する白銀のボンネット。さらに先にはフロントガラス越しに見える、ぽっかりと口を開けたよく肉の付いた裕福そうな男性の顔が。
目まぐるしくまた次のことが頭に浮かんでいく。
ああこの、時間が無限に引き延ばされたかのような感覚。あらゆる記憶が次から次へと思い起こされていく感覚。走馬灯だ。
普通じゃできない体験だ。この期に及んで、僕はかけがえのない個性を手に入れたわけだ。
ありがたい。どこまでも平凡だった僕の人生に、彩りが。
どうも、走馬灯経験の実績がある伊木田怜です――よろしくお願いします。
次の瞬間、急に時間の流れが戻ったかのように、白銀のボンネットがすさまじい速さで僕の体にめり込んだ。
痛みを感じる間もなく、ぐしゃり、と色々なものがひしゃげる音を聞いたのを最後に――僕の意識はそこでフェードアウトした。