さよならファントム
僕の家にはファントムという名前の雄猫がいる。もう15年くらい生きているご老体で、僕が母さんのお腹の中にいたときにおじいちゃんの家で生まれたのをもらったのだそうだ。
ファントムという名前は父さんが飛行機好きでF-4ファントムIIから取ったという。猫なんだからそこはトムキャットだろと友達から突っ込まれたけど、ファントムは日本の空を守ってきた偉大な飛行機だと言われて育った僕はトムキャットよりファントムの方がずっと好きだった。
小さなころからいつも一緒で、ご飯を食べるときや、眠るとき、出掛けるときも僕たちは一緒だった。ファントムが2人乗りなのと同じように僕たちも一人と一匹でひとつだった。
小学校に上がってからは学校に行ってもファントムのことを考えていて、放課後が待ちきれなかった。
いつまでもこいつと一緒にいよう、そんなかけがえのない相棒が2日前、いきなり姿を消してしまった。
今日は隣町にある空自基地の最後のF-4が退役する日で、ラストフライトが一般公開される日だ。最後の勇姿を見にファントムも連れていこうと思っているのだがいっこうに姿を現さない。姿を消す前の夜は僕の布団の中で丸くなって寝息をたてていたのに起きたときにはいなくなっていた。
ファントムが姿を消したのは今回が初めてではない。
夕焼けの中、基地へ帰っていくF-4を追いかけていなくなったことがあった。猫のくせに戦闘機が好きらしく、僕が作ったF-4のプラモデルをねずみのおもちゃなんてそっちのけで壊れるまでしがみついて、僕が取り上げると拗ねてどこかへ引っ込んでしまったこともあった。どちらも1日たてばすぐに帰ってきていたけれど、今回はなかなか帰って来ない。
「お~い、ファントムじいさんや出てきておくれ。僕と一緒にF-4を見に行こう。僕が寝ているときに君が嫌がることをしたのかな?もしそうなら謝るから出てきておくれ!」
人間の言葉が通じるかわからないけど、僕は外に出てファントムを必死に呼んだ。
「なんだい、ご老体がまたいなくなったのかい」
隣の家のおじさんが僕に話しかけてきた。
「こんにちは、そうなんです。ファントムがまたいなくなってしまって。今日はF-4を見に連れて行こうと思ったんですけど、全然見つからないんです。いなくなって2日経つのにどこへ行ったのかな?」
「2日前?そりゃあのご老体にしちゃ、ちょっと長いな。最後に見たとき、どこか変わったことはなかったかい?」
「いいえ、特には…」
僕がそう返すと、おじさんは腕を組んで少し考え込んでから話し始めた。
「あのさ、昔、通りの酒屋さんのおばあちゃんが可愛がってた猫がいなくなったの覚えてる?」
「キヨシの事ですか?結局見つからなくておばあちゃんもその後すぐに亡くなって、迷宮入りしたんですよね」
「そう。あの時は君のお父さんやおじさん、町内会の大人たちが一生懸命探したんだけど見つからなかった。でもおじさんはね、しばらく経ってからキヨシを見つけたんだ」
「無事だったんですかキヨシは」
「いや、正確にはキヨシと名前が書かれた首輪をつけた猫の骨をね。おじさん家の縁側の下で横たわっていたんだ。臭いもしなかったのに全く不思議だった。だから、別にそうと決まった訳じゃないけどファントムももう歳だし、もしかしたらその可能性が……」
「そういえば猫って自分が死ぬときは姿を隠すっていいますよね。でもファントムは僕の布団の中で消えたんです。蒸発したみたいに」
「キヨシもそうだった。おばあちゃんが家の中で膝に乗せて昼寝している時にいなくなったからね。猫というのは全く不思議な生き物なんだ。だからファントムもどこかで…。ああ、ごめん。大事なファントムをそんなふうに考えてしまってすまない」
おじさんは僕を気遣って話すのを止めた。
「気にしないでください。年齢的に普通の事ですし、もしかしたらキヨシみたいにどこかのおうちで冷たくなっているのかも」
僕はおじさんが心配しないように平気なふりをした。本当はファントムがキヨシのようになっていたらと思うといてもたってもいられないけど、悲しい顔をしたらおじさんにも悪い。
僕はおじさんにありがとうございましたと言って家へ入った。
今日はもうF-4を見に行くのは諦めよう。出張で見に行けない父さんに謝るために僕は電話をかけた。
「なんだ、どうした。ファントムの最後は見れたか?かっこよかっただろ?」
「ごめん父さん、ファントムじいさんがいなくなってしまって、それどころじゃなくなったんだ」
「なんだって、ファントムが?あいつは自分の庭が狭いし、そんなに遠くへは行かないだろう。いつか夕方に飛んでるファントムを追いかけていったこともあったな。またそれじゃないのか?」
「いや、今度は2日も帰って来ないんだ。ずっと探しているのに見つからなくて。F-4、見に行けなくてごめんなさい」
「そんなのは気にするな。我が家のファントムの方がずっと大事だ。なにせ、お前とファントムは兄弟みたいなものなんだから」
「父さん、ありがとう。でも今回ばかりはファントムのやつ、もう帰ってこないかもしれない。ねぇ、ファントムは長生きだよね。僕が生まれる前から生きているんだもの。あいつ、僕のことを弟だと思っていたのかもしれない。僕が泣き出すとミニカーを咥えてきてあやそうとしたりしてさ。俺がお前の兄貴だぞって感じでくっついてたのかもね。きっとあいつさ、自分がへばっているのを僕に見られたくなくてどこかへ行っちゃったんだろうね。だからもう、どこかでさ」
僕は段々、声が小さくなっていった。
「変な事は考えるな。大丈夫、ファントムはきっと帰って来るよ。父さんも来週には帰れそうだから、そうしたら一緒に探してやる。いいな、諦めるなよ」
父さんはそう言って電話を切った。謝るつもりで電話したのに逆に励まされてしまった。
僕はファントムがどうなったのか、おおよその見当がついていた。ファントムはキヨシと同じことをしたのだ。自分がもう長くないのを僕に悟られないように、一緒に寝ている間にどうにかして家の外へ出たのだ。
とにかく、猫のくせに戦闘機が好きなやつで。
あいつのおかげで僕はパイロットを目指そうと最近考えはじめた。あいつを一緒に乗せて空を飛ぶ。すごくいい夢だと思う。だからいなくなる前の夜、僕はファントムをだっこしながら言った。
「お前のために僕はパイロットになるよ。大空を飛んでいるときもお前と一緒なんだ。なぁファントム、お前と同じ名前の飛行機がもうすぐ飛ばなくなるんだ。ずいぶん長く飛んでいたからね。だから最後のフライトを一緒に見に行こう。戦闘機のファントムはさよならだけど、猫のファントムはこれから飛ぶんだ。わかった?」
あの時ファントムは僕の目をじっと見ていた。あれはもうその夢が叶わないのを伝えようとしていたのかもしれない。
もし、ファントムが本当にキヨシと同じ状態になっていたとしてもファントムの首輪には僕の名前と家の住所が書いてある。誰かが見つけてくれたら連絡してくれるだろう。不思議なことに、探しに飛び出すような気持ちが今はなくなっていた。
その夜、僕は割と落ち着いてファントムが行きそうな所を考えてみた。あいつが最後を迎えそうな所。縁側なんかじゃなくて雄猫らしく、戦闘機好きらしく死を迎える場所。
見当がついた僕は明くる朝、自転車を出してファントムを探しにいった。
航空自衛隊のとある基地の格納庫にひとりの二等空尉が訪れた。
そこには解体を待つF-4EJ改ファントムIIの姿があった。
彼はこの基地の所属で昨日、このF-4のラストフライトを終えたパイロットだった。
解体される愛機をひと目見ようとやってきた彼は解体作業を任されている整備班の班長に声をかけた。
「班長、お疲れさま」
「お疲れさまです、二尉。きのうのこいつのラストフライト、最高でした。ちょうど良かった。今、射出座席の取り外しからはじめようと思っていた所なんてすがね」
「どうかしたのか?」
「いいえね、キャノピーはほら、二尉がキャノピーを開けるときに気のせいかもたつくとかおっしゃってたでしょう。だから調べようと思って昨日のうちに外してしまったんですけどね、コックピットにいつの間にかこんなのがいたんですよ」
そう言って班長はキャノピーが無い、前席のコックピットを指差した。
「どれ。あれ、こいつはもう死んでるんじゃないのか」
二尉が梯子で登ってコックピットを覗き込むと、前席のシートに一匹のきれいな雄猫が冷たくなって横たわっていた。
「基地のまわりのフェンスはどこも壊れてなかったし、ゲートの誰もこいつが入ってくるのを見てないって言うんですよ。確かにキャノピーを昨日外したときにはこんなのいなかったんですけどね」
班長は狐につままれたような顔で言った。
「いや、猫ってのは不思議な生き物でさ。俺も子供の時、妹が飼ってた猫が突然いなくなっちまってね。友達と手分けして探したらさ、小学校のプールサイドで死んでたんだ。猫は死ぬのを見られたくないからワケのわからない所に迷い込んで死ぬらしい」
「へぇ」
「きっとこいつも飼い主に死ぬのを見られたくなくてここに来たんだろう。それにしたってなんで空自の格納庫のスクラップのファントムなんだ?おいお前さん、なにもこんなところで死ぬことないだろ」
二尉は猫の亡骸を抱えて梯子を降りた。
「どれ、首輪にお前さんの住んでた所が書いてあるかな。っておい、隣町じゃないか。よくここまで来たな。よほどファントムが好きなのか?名前は…」
二尉は首輪に書かれた名前を確認して声が止まった。猫の名前に驚いたのだ。
「班長、こいつの名前、ファントムだってさ。よりによって退役の翌日だぜ」
「なんだか縁を感じますなぁ。一機と一匹のファントムが同じ日に人生の幕をおろすだなんて」
「飼い主に教えてやろう。今ごろ探しているだろうから」
こいつの飼い主はきっとファントム好きだろう。なんとなくそんな気がした彼は衛生班に頼んで自分が直接、猫を返すことにした。飼い主に会ってみたくなったのだ。
「すぐにお前さんをご主人様のところに帰してやるからな。コックピットは寒かっただろう」
「あの、二尉、解体作業はすぐに始まりますが、よろしいんですか?」
解体される前の機体を見に来た二尉を気遣って班長が呼び止めた。
「いいよ。俺がここにいても邪魔になるだけだし。それにこいつを飼い主に返してやりたくてさ。俺のファントムよろしくお願いします、班長」
班長にそう言って二尉が猫を抱えたまま格納庫を出ようとしたその時だった。
呼び止められたような気がした二尉は振り返った。
解体が始まった愛機が別れを言っているのかのように、ジュラルミンの装甲が格納庫に差し込む朝陽に反射して光っていた。
その光景を見た二尉は口中で呟いた。
「さよならファントム」
腕の中の猫の亡骸は静かに眠っているように見えた。