周の時代① 「周公旦」
前回お話しした通り、周は殷王朝を牧野の戦いで破ります。
結果、殷に代わる新たな王朝として周が君臨するのです。そこで、本日はこの周王朝について勉強しましょう。
まず、「都」です。周は渭水流域の鎬京を都に定めます。地図で場所を確認しましょう。
また、周を建国した武王は、建国後2年ほどで死亡します。
そこで、息子の成王が即位します。しかし、成王は幼い王であったため、建国直後の周という新興国家を支えられるはずがありません。
従って、武王の弟である「周公旦」という人物が後ろ盾となって政治を行います。※日本史でいうところの摂政を想像してほしいですね。
「周公旦」こそ、儒教で有名な孔子が理想とした政治家です。
一体、どのような人物だったのでしょうか?
「周公旦」は、「周王朝の基礎固めに貢献することこそ私の使命である」と真面目に考えていました。
それを実現するにあたって、彼は社会の秩序を安定させることが大事と確信します。
そこで、礼制というものを確立します。これは日常的な礼儀も含む、秩序維持のために様々なきまりのことです。
また「周公旦」は、周王朝の領土を広げていきました。
それに応じて、新しい統治体制の仕組みを構築します。
こうして成立したのが、いわゆる「封建制」てす。
「封建制」とは、日本史でも鎌倉時代に勉強しましたよね?
どんな仕組みか覚えていますか?
日本史の場合、「御恩」と「奉公」という言葉を勉強します。
「御恩」とは、将軍自らが、御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)の領地を認めて保護したり、功績があったときには新しい領地を与えることです。
一方、「奉公」とは御恩を受けた御家人が、将軍に忠誠を誓い、戦いのときには一族を率いて将軍のために戦うことです。
そして、日本史の教科書では、このように土地を仲立ちにした主従関係のことを「封建制」と語ります。
さて、世界の歴史を遡ると、「封建制」という支配体制は、周王朝でも、中世ヨーロッパでも存在しましたので日本史だけの話ではありません。
今回のテーマである周王朝の例を理解しましょう。
まず、周王朝では、周王の一族や功臣や土着の首長に領地(邑)を与えて世襲させます。
このような世襲の支配者を諸侯といいます。
諸侯は、領地の大小や周王室との関係の濃さにより、公・侯・伯・子・男の5ランクの称号(爵)が与えられます。
※よく異世界転生もので見かける侯爵とか公爵とか、そういった爵位は、周王朝の時代からあるのです。
一方、諸侯たちには、周王朝への軍役や貢納を義務付けます。
これが、周の時代の封建制の仕組みです。
更に、周王朝や諸侯には、卿、大夫、士といった家臣がそれぞれいました。
周王朝のこれらの家臣、もしくは、諸侯とこれらの家臣の間でも封建制に基づく主従関係が結ばれました。
こうして、周王朝では封建制による統治が行われた結果、建国後暫くは諸侯が王朝に忠誠を誓い、安定した統治が続くようになります。
ちなみに、周王朝の封建制は、何らかの形で血縁関係に基づくことが多かったです。
これは、西欧の契約に基づく封建制と大きく異なる点です。しばしば正誤判定の題材になりますので、覚えて起きましょう。
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以下細かい知識を極めたい人へのおまけです。
周の時代になると、宗族が誕生します。
宗族とは、姓を同じくする父系の親族集団のことです。
そして、先程、封建制は血縁を媒介することが多いと説明しました。
だからこそ、宗族における秩序はとても大切なものとなります。
そこで、宗族にたいして宗法とよばれる秩序が作られました。
代表的な宗法のルールは、嫡長子相続制、同姓不婚などが挙げられます。
長男が相続しますよとか、そういうルールも周の頃に成立したので、周の時代の支配というのは、小説家になろうに登場する異世界の貴族による支配と類似点が多いのですよね。
本日はここまで。