第3話 絶望
「……し、死んだ? ていうか、殺した?」
ハリウッドスターみたいな動きで、信じられないような握力で猪を鷲掴んで、首の頚動脈を狙って――短剣一本で殺した? しかも――猪の首を鉄棒みたいに半回転しながら切ったお陰か――返り血の一滴も浴びずに?
「思った通りに動いてた。あんなに素早く動いたのに、全部見えてた。体の力の入れ方も、力を向ける方向も、全部……勝手に出来てた」
べっとりと血の付いた短剣を見て、俺は無意識に「血を落とさないと使い物にならなくなる」と考えて、当たり前のように一振りで血を振り落とした。
誰がどう見ても「慣れた動作」で、俺はそれを行った。
猪の元へ歩き、スローイングナイフを抜く。折角浴びていなかった返り血が頬へ飛んだ。それを拭うこともせず、ナイフを見た。
猪の筋肉が硬かったからか、刀身が歪んでしまっている。これはもう使えない。獣臭い血を木に擦りつけ、スローイングナイフに刻まれた印を見る。
そこには、ドクロと死神の鎌が刻印されていた。
「これ……やっぱり、『ブラック・ダガー』だ」
持っていた短剣の柄を見る。握り手に黒い宝石が幾つか埋め込まれているこれは、SR武器の『ブラック・マンゴーシュ』だし、首に付けているペンダントはまだじっくりとは見てないが、多分SSR防具の『ゴッデス・デイウォーカー』だ。
「え……リーベルタースの武器、だよな? あっ、この体、もしかして俺のアバターか? じゃあこの格好も納得……」
そこまで呟いて、固まる。ゲームのアバターの体で、ゲームのアバターの装備で、それで――何で、そんなことになってるんだ?
「納得――出来るわけないだろ、こんなの」
ステータスは? スキルは? 魔法は? アイテムウィンドウはどこだ? この背嚢に入っているものが最後の食料ってことか? ここは何処で――俺はどうすればいい?
どうやって――帰ればいい?
自分が最後に泣いたのはいつだったっけ? 高校生になってからは泣いていない。中学生になってからも……じゃあ、小学生ぶりか。
俺は誰も居ない森の中で、ちょっと泣いた。
本当に、死にたいと思った。どうしようもなく、何もかもを投げ出して死んでしまいたいと思った。
死にたくない、帰りたい、生きたい――そう思いながらも、そう思っているのに――こんなに絶望的な気分で、「死にたい」と泣いたのは初めてだった。
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どこか理性的な自分が、動物の骸――肉の傍に居るのは得策ではないと囁く。
それに従って、陰鬱な気分ながらも足を動かす。涙はまだ止まらない。だけど、もう少し建設的なことを考えよう、という気持ちにはなった。
まず、食事。この体がどういう経歴の持ち主なのかは分からないが、ここまでアサシン染みたアサシンなのだ。恐らく飢餓、その他毒物などあらゆるものに対する耐性は並外れたものに違いない。
それが精神は日本人である自分に耐えられるか、とは別の話だが……。森なら木の実があるだろうし、草食動物を殺せば、凡その栄養分は摂れるだろう。
次に、言葉。衣食住、全ての確保のためにも、何より優先すべきは人の居るところに辿り付く事だが、言葉が通じるかは不明だ。『リーベルタース・フロム・エンピリオン』というゲーム世界に忠実であるというなら、文字は日本語だろうか? ……希望的観測はよそう。ボディーランゲージが最も有効と考えるべきだ。絵を描くのも良いかもしれない。
最後に、自分の命のことだ。
というのも――この世界は、破滅の道へと進んでいる。そういう『設定』の世界だった。
プロローグ曰く、
――ある日、空から女神が降り、『うた』を歌った。神聖で、美しく、清らかな『うた』だった。
――人々は聞き惚れた。人だけでない。動物も虫も魚も聞き入った。
――それは、祝福の『うた』だった。それは、呪いの『うた』だった。
――そして世界は、終焉に向かい始めた。
運営の設定によると、その『うた』は生きとし生きるもの全てに“代償”を要求したという。
誰もがその『うた』を聞いた途端、才能を得た。祝福の『うた』と言われる所以だ。そしてその才能には勿論、大小差がある。方向性も、料理やら医学やら……殺しやら、様々だった。
そして、世界中の全てはその“代償”として、その才能に関する行為以外のことが出来なくなってしまった。
料理の才能が与えられたとあるピアニストは、その日からピアノを弾けなくなった。それはピアノの才能を持つものの領分だったからだ。
医学の才能が与えられたとある小説家は、その日から医学に関する文章以外の長文を書けなくなった。それは物書きの才能を持つものの領分だったからだ。
殺しの才能が与えられたとある凡人は、その日から殺し以外の何もかもが出来なくなってしまった。それぞれが、それぞれの才能を持つものの領分だったからだ。
きっとそれは、習得するスキルが限られているプレイヤーたちのための、後付けの設定だったのだろう。だけど、今はそんな軽いものではなくなってしまっている。
あのゲームではそういう背景もあって、生産職の人間もそこそこ優遇されていた。料理人というジョブを選ばなければ料理は作れないし、そうでなければ木の実などの生食が可能なドロップアイテムでしかMPゲージや、空腹ポイントを回復できない。
だからあのゲームではアイテム交換が頻繁に行われたし、複数アカウントを持つ者もたくさん居た。
運営はそれを禁止しなかったが、最大三つを越えないように、というのがゲーム内の暗黙のルールがあったくらいだ。四つ以上となると、応対するフレンドも混乱するので、自粛するようにという理由だ。
もし、この世界に『リーベルタース・フロム・エンピリオン』の設定が反映されているのなら、俺はどうすればいいのだろうか。
俺のメインジョブは、『アサシン』。女神から賜りし才能は――言わずもがな、“暗殺”である。