第2話 獣殺し
小一時間ほど茫然としていたが、遠くから何かが近付いてくる気配を察知し、俺は咄嗟に息を潜めた。
……いや、気配ってなに? 何で当たり前のように気配とか感じ取っちゃってんの? しかも――何となくだが――気配()の主の全長も何故か分かるし、恐らく近付いてきているのは猪だろう、とかそういうことも分かったりしちゃっている。
息の潜め方も、『俺』じゃありえないくらい完成度が高い。今目の前を人が通っても、俺には気づけないだろう。感覚的にそう分かるくらい、気配を絶っている。
そっと木の裏から顔を覗かせて、猪――だと直感が訴える――が居る方を見る。すると、やっぱりそこには黄色がかった体毛の、異様な大きさの牙を持つ猪が居て……いや待て? 何キロ先に居るんだよ、猪。なんで俺、こんなに細かい特徴まで見えてるんだよ。
今や俺の視力は異常になっていた。いや、視力だけじゃない。聴覚も、嗅覚も、何もかも。空気の流れさえ、集中すれば感じ取ることが出来る。
いよいよ自分がどうなっているのか分からなくなってきた。なんか、強くなっているようだが、しかし。猪も嗅覚は鋭いと有名な生き物だ。もしかして、気づかれるかもしれない。どうやって逃げよう?
足音を立てて気づかれることを恐れ、俺は呼吸を押し殺しながら考える。
落ち着いて整理しよう。たぶん俺は今、別人になっている。年上の……うん、男だ。よかった。女だったら本当にどうすればいいのか分からなくなっていた。
それで、持ち物は……背嚢が一つ。中には、保存食っぽいビスケットみたいなものと、干し肉、水筒が入っている。その他、軽く調べてみたところ、体に装備されている無数の武器は殆どがナイフのようだった――何で刃物をこんなに持ってるんだよ?
それから、小さな瓶が幾つか腰に掛かっている。蓋を開けてみると、独特の草の甘い香りと――猛烈な、嫌な予感がした。ひとまず、置いておく。
大量に所持しているナイフ類をよく見ると、用途ごとに位置が決められているらしかった。
ケープの下に着ている麻の服――ここまでは普通の村人みたいだ――更にその下に身につけている鎖帷子を覆うように、鉄のカーテンよろしく紐に通されて大量に連なっているのは、小ぶりのナイフだ。
ナイフの柄を通る紐は、胸の前から両端とも俺の肩の方へ消えており、その感触をゆっくりと辿っていくと、最後には服の袖にたどり着いていた。
もしや? と手首を捻って指で糸を引っ張り、肩を少し傾けると――勢い良く、抜き身の刃物が手の中に落ちてきた。吃驚した!
吃驚ついでに分かったのだが、この身体は反射神経や、動体視力もとんでもないようだ。
手の中に落ちてきたナイフの動きを、まるでコマ送り再生を見ているように細かく、柄を狙って握ることが出来るくらいにはっきりと、捉えることが出来た。
――しかし、このナイフ……何処かで見たような?
ぐしゃ、と地を踏みしめる音が聞こえて、慌てて顔を上げる。考え事なんて、している場合ではないようだ。猪がフンフン鼻を鳴らしながら近付いてきていた。
猪は、俺の気配遮断の精度が高すぎるせいか、匂いだけを頼りにしている様子だった。
というか、遠くに居た時から薄々思ってたけど、何だこいつ、めちゃくちゃデカいな……。俺の二倍ぐらいある。これ、本当にただの猪なのだろうか?
対する俺。ナイフが一本、手の中に。これは……なんだか薄すぎて、少し不安だ。もっと分厚い刃のものはないのだろうか? この体の重装備感からすれば、他にも何か武器を仕込んでいてもおかしくない。
体中を音もなく――音無さ過ぎないか? 身じろぎによる衣擦れの音さえ無く――探る。俺の腕は染み付いた経験を反駁して、勝手に、必要最小限の動きで体を巡っていく。
猪が近付いてくる。ヤバい。これ大丈夫かな。死ぬ? こいつの前足フット・スタンプを一撃でも食らえば、俺は良くて内臓破裂、悪くて頭蓋骨骨折で死ぬ。あばば……どっち道死ぬんじゃ……。
焦りは止まないが、心拍数は変わらない。発汗もない。体はフラットすぎるぐらいで、俺は内心ドキドキしながら、表には全く出さずに武器を探し続け、そして――ついに腰の辺りに大きな刃物の手応えを得た。
刃渡り三十センチの――二リットルのペットボトルサイズの短剣が、腰の、丈夫な皮製のタクティカルベルトに横向きに入っている。
ゆっくりと抜き取り、腕をケープの外に出す。手の中の重みはずっしりとしていて、手を軽く動かしてみたところ、不思議な手応えがあった。
――俺は、この短剣を扱える。
そう思った。そういう不思議な確信が俺の中にはあった。俺はこのナイフに触れたことも、握ったことも、一度もないというのに。
それでも、だけど、見たことはあった。だって、これは……この短剣は――。
「グッ、ボオオオオッ!!」
「っ!?」
俺を見つけられないことに苛立ったのか、猪は辺りの木々を手当たり次第に薙ぎ払い始めた。匂いの痕跡のある付近を徹底的に荒らしている。もうちょっとで俺に辿り着いてしまうが、どうすれば? どうすればいい?
俺は咄嗟に、自分が背を預けていた木の枝を掴んで飛び上がった。自分でも何をしてるのかよく分かっていない有様だったが、とにかく、太目の枝を片手で掴むと、幹を蹴り上げて、殆ど垂直に駆け上ったのだ。
木の上で、俺は深呼吸した。あの猪を最初に感知した時、俺は相当離れていたというのに、わざわざアイツはここまで匂いを追ってやってきた。余程なわばり意識が強いのだろう。
ここから逃げるのは、きっと難しい。直線に走ることにおいて、あの動物は車にも追いつくことが出来るほどなのだ。
なら――どうするか?
短剣を握りしめながら、猫のように四足で木の枝を掴む。頭の中でどう動くかを考えながら、勢い良く飛び降りた。
思い描いた通りに、体は動いた。
小ぶりなナイフを――スローイングナイフを投げ、猪の足へと突き刺す。貫通したそれは、猪の足を地面に押し留める。猪は異変に気づき、体を一瞬硬直させた。
その一瞬を逃さず、俺は――飛んだ。
自分の身長よりも高いところから飛び降りて、猪の頭部に着地する。衝撃を全部猪に逃して体勢を整えると、左手で猪の肩を掴んで、右手で刃を突き立てる。そして、突き立てた短剣をしっかり握りこみ、左手で掴んだ猪の肩を支点に、ぐるりと太い首を半周し、ブチブチと筋肉ごと大動脈も斬り裂いていく。
やがて猪の顎下を通り抜けると、そのままの勢いで猪の元を離れ、様子を伺う。ヒットアンドアウェイが基本だ。あんなのの攻撃を食らってられるか。
俺の目の前で、猪が血を噴き出しながら苦しげに鳴き声を上げている。立てなくなって座り込み、苦悶の呻きを上げながら、俺を睨んで、恨んで、憎んで――静かになって、息絶えた。