雨の日は林檎の夢を見る
窓を打つ雨に、シュネーは顔をしかめた。
石造りの暖炉に残った火は、もう部屋を温めるほどの熱を与えられずチラチラと儚く揺れていた。
そこに焚べてしまったアップルパイの林檎とシナモンの甘い匂いが微かに漂っているようで、シュネーはひどく憂鬱な気分になった。
「皆自分勝手ね」
思わず呟いてしまったのは、再婚した父への思いなのか、シュネーを疎む継母への愚痴なのか、父の手前、継母の私への仕打ちを見て見ぬ振りをする使用人たちへの苛立ちなのか。
でもきっと、1番言いたいのは自分に対してだとシュネーは思った。
シュネーは、自分の容姿が嫌いだった。
赤い髪、黒い瞳、白い肌。
父が望んだというこの見た目が嫌いだった。
両親のどちらにも似ていないこの色合いを見た人々が、悪魔の子だと囁き合うのも、継母が母譲りの造作に敵意を抱いているらしいのも、母が死んだ後継母に興味を移して拘ったはずの見た目の自分にも政にさえも興味を示さない父親も嫌だった。
天までも怒りに満ちているのか、ここ数年は天候が安定せず、実りが少ない。
「どうせなら、このわたくしを隣国にでも高く売り渡してくれれば良いのに」
自分自身の呟きに、シュネーは目を見開いた。
夜着にナイトガウンを羽織ったままのおざなりな姿でぼんやりと座っていた彼女は跳ねるように立ち上がると、飛びつくようにテーブルの上のベルを鳴らした。
「ロザリー! 狩猟用のドレスと、雨避けの冬用の外套を出して!!」
シュネーに呼ばれて、次の間からお仕着せを着た侍女がサッと姿を見せる。
「お色味は、赤でよろしいですか?」
「いいえ、深めの緑がいいわ。この赤髪がこの上もなく引き立つような。外套は汚れが目立たないほうがいいわね、この雨の中を遠駆けするのだから。貴女も供として来てちょうだいね」
「はぁ……。また、気晴らしですか?」
「いいえ、出奔するのよ。隣国に身売りしに行くの」
瞳を輝かせながら力強く宣言するシュネーに、ロザリーはうんざりした様子を隠そうともせずにため息をついた。
「また姫様の夢想癖ですか? どうせ身売りとか言ったって、なんかもっと斜め上の何かなんですよね?」
「さすがロザリー、話が早いわね。もちろん、この足で娼館に駆け込むぐらいならクーデターでも起こしてわたくしが即位するわ。幸いにして、今国内にはわたくし以上に行動力のある人間はいそうにありませんからね」
「ではなぜ、今隣国なんですか?」
ロザリーの言葉に、シュネーは窓に歩み寄り、窓の下に広がる雨に濡れる城下を見つめる。
雨にけぶる石造りの家が立ち並ぶ町は、幻想的というよりも、陰鬱な印象が強い。
そしてその町には、冷え込みが厳しいこの雨の中でも煙が立ち上っている家がほとんどない。燃やすものすらないのだろう。火の消えた町は、人の命も容易に消える。
「ねぇ、ロザリー。この国に今、売れるものは何があると思う? この寒さの中で、民は何を求めているのかしら」
「姫様……」
「そう、売るのはこのわたくし。売りつけるのは、大国である隣国の王子よ。対価は……この冬の、民の命よ。あの継母にこのまま殺されるのを待つぐらいなら、わたくしはわたくしの責任を果たすわ。ついでに幸せになれる可能性を掴み取ってみせる。どうする? 付いて来るの?」
腕組みをして、グッと背を逸らすシュネーに、ロザリーは目を見張ると、花が開くような笑顔を浮かべた。
その笑顔を見て、シュネーは継母に向かって心の中で言い捨てる。
どんな占いかは知らないが、本当に美しいのはわたくしではないわ、と。
だから。
シュネーは、シュネーがこの国で唯一つ美しいと思うものを持って行くことにした。
「私は姫様の最善をこの目で見てみたく存じます」
幼馴染としての態度をあらため、恭しく一礼したロザリーを急かして、互いに服を着付け合う。
ロザリーには侍従に見えるように少年に姿を変えさせ、2人は馬に飛び乗ると国境の森を目指した。
その日、レグンは雨から雪に変わった天候を持て余して、森の中の洞窟で休んでいた。
「なぁ、ディーネー。今日は何だか森が騒がしいな」
呼び掛けられたディーネーは、立ったまま微睡んでいたのを邪魔されて、迷惑そうに大きく鼻を鳴らす。
「分かってるよ、お前の不満は。天気が悪いのを承知で遠駆けなんかした僕に怒ってるんだろう? 帰ったら麦をたっぷり入れてやるし、角砂糖もつけてやるから。もちろん角砂糖はお前の好きな糖蜜を煮詰めて作ったのにするから、そろそろ機嫌を直してはくれないか?」
レグンはそっと手を伸ばすと、ディーネーの鼻面を優しく撫でる。
そうすると、不機嫌そうに鼻を鳴らしていたディーネーも、仕方がないというように、やや乱暴にレグンへと鼻面を押し当てた。
素直じゃない相棒のやや乱暴な愛情表現に、レグンは笑い声を上げる。
そこへ一際強い風が吹いたのか、冷たい風が吹き込む。
ハッとしたレグンが腰に下げた剣に手を掛けるのと、雪まみれの人物が駆け込んで来たのは、ほぼ同時だった。
「申し訳ありません。連れが怪我をいたしまして、難儀しております。雪を避けるために、ご一緒させていただいてもよろしいですか?」
従者らしい少年を抱え込むようにして目の前に現れた人物に、レグンは虚を突かれて動きを止める。
時が止まったようだった。
動いた拍子に外れた外套のフードからこぼれ落ちた見事な赤髪が、色の乏しい世界で本物の炎のように燃え盛る。
強い意志を秘めて、磨き抜かれた黒曜のように煌めく瞳に射抜かれる。
外套から落ちる雪の白が、髪を、白い頰を、手を濡らす水の雫が、洞窟の黴臭いような土の匂いが、全てが鮮明にレグンの心に刻みつけられる。
その感触に、レグンは震えた。
「姫様……」
従者が発したらしいか細い声に、レグンはハッと我に返る。
従者を抱えたままの少女に目を向けると、少女は困ったように眉を下げた。捲れた袖からチラリとのぞいた腕に走る無数の傷に、レグンは状況を察してそっと目を閉じた。
「ディーネー。悪いけれど、屋敷まで自分で帰って来てくれるかい?」
ポンポンと胴を叩く主人に、体を寄せて荷物と鞍、轡を外させると鼻をひとつ鳴らして雨の中を駆け去って行く。
「その娘は、手当てが必要ということですね、シュネー王女。ひとまず私の屋敷にお越しください。……飛びますから、目を閉じて」
シュネーは目の前の人物と、差し伸べられた手をじっと見つめる。
灰色の外套と、飾り気のない服装は暖かで上質そうだ。
何よりその髪はごく薄い金、瞳は冬の晴れた空のような薄い青。絵姿で一度見たことがあるその人は、まさに会おうとしていた本人でシュネーはそのことにホッと息を吐いた。
「レグン第二王子であらせられますか? どうか、どうか我が国を、我が国の民をお救いください」
同じぐらいの体格の少女を抱えたまま、腕に食い込むほどの力でしがみつくシュネーに、レグンは一瞬眉を寄せて、震えるその手を優しく握ると指をそっと外させる。
「貴女も凍えているようだ。お話しは、屋敷で伺いましょう」
微笑みを浮かべたレグンの柔らかな気配に、フツリとシュネーの中で緊張の糸が切れる。
一晩中雨に打たれながら暗い森の中を馬で走り回り、姿の分からない何か大きな獣に襲われたのを、ロザリーと傷を負いながらも必死に撃退した。もう、何もかもが限界だった。
暗転する意識の中で、シュネーは自分の体が温かなものに包み込まれるのを感じた。
『シュネー、シュネー。何処にいるの、私の王女様?』
王城の庭に植えられた林檎の樹の下で、大好きだった母が呼ぶ声が聞こえてくる。
林檎の白い花が咲き乱れて、芳しい香りを放つ。
シュネーの動きに合わせて散る花を浴びながら、母は楽しそうに笑う。
『ここにいるわ、お母様』
白い花を身体中にまとわりつかせて顔を出したシュネーを、白い雪をつけているようだと笑いながら優しく抱きしめてくれた母は、もういない。
シュネーが熱を出したあの日、林檎が食べたいと願ったから。
雨の降る中、林檎を取ろうとして木から足を滑らせて、母は亡くなったと聞いた。
だから。
「林檎を食べるぐらいなら、死んでしまったほうがマシだわ」
あの日から、シュネーは雨の日も、林檎も嫌いになった。
そして、自分自身も嫌いになった。
あれからシュネーは泣くことが出来ない。
ずっと自分のことを許せずにいるから、シュネーの中で悲しみは凍りついた棘のように心に刺さったまま、今も消えない痛みになって居座り続けている。
「それは、随分と穏やかじゃないね」
呟いた言葉に応える柔らかな声に、シュネーは思わず息を飲んだ。
体の感覚が急速に鮮明になって、シュネーは自分が誰かに抱えられるようにしてソファーに座っているのを感じた。
「気が付いた? 私が誰か分かる?」
ぼんやりと瞬きを繰り返して、シュネーは自分を覗き込んでいる人を見る。
「レグン王子?」
「うん。私の周りにある光が見える?」
「赤と、茶色っぽい光……いいえ、小さい人? あと、白い光が包み込むように輝いている? これは何?」
困惑したシュネーを置き去りにしたまま、レグンは心底嬉しそうにこぼれる喜びを抑え切れない様子で笑いを漏らす。
「シュネー王女、貴女は良い目をお持ちだ。貴女が見たのは精霊だよ。私の妃候補の中でそれが見えたのは貴女だけ。だから、私は喜んで貴女を妃に迎えよう。勿論、貴女の望みは私がこの手で叶えるよ」
歌うように言って、レグンは唇の端を引き上げてニヤリと笑う。
「貴女は、とんでもない竜の口の中に飛び込んだのさ」
その好戦的な笑みに、シュネーは自分の考えの甘さを痛感していた。
その表情を見ただけで、自分の望みを叶えるためにレグンが何をしようとしているのかシュネーは気づいてしまった。
「僕は狩が一等好きなんだ。獲物は大きい程、心踊るものだしね」
大国の王子が一筋縄で行く相手だと思っていた自分の甘さに、頭が痛くなる。
シュネーの表情に気付いたレグンが表情をスッと切り替えて、真剣な表情になる。
「貴女の連れは、命に別状ないよ。後遺症も残らないよう、この国最高の術師が治療に当たっているから安心して欲しい」
「ロザリー!……良かった」
涙ぐんだシュネーをなだめるように抱きしめて、レグンはずっと自分の上着を握りしめたままのシュネーの手をそっと取り、口付ける。
「貴女の望みは私が全て叶えるよ。貴女が私の傍に居てくれる限り、貴女のことも、貴女の国の民も私が守り切ってみせる。私は貴女が呆れるほど頑丈だから、貴女より先に決して死んだりしない。貴女が雨の日も、林檎も嫌いだと言わなくて良いように、泣きたい時にはこうしてこの腕の中に囲い込んでいつでもその涙を隠してあげるよ。だから」
レグンはそこで一旦言葉を切り、自分の胸にシュネーの頭を押し当てた。
「もう、泣いても良いんだよ」
レグンの言葉に、シュネーは堰を切ったように泣き出した。
泣いて泣いて、泣いて。
テーブルの上にアップルパイとアップルティーが用意してあるのを見て泣き、やがてやって来たロザリーが普段どおりに動き回っているのを見て泣き、泣き疲れて涙が乾くまで泣き続けた。その間、レグンは宣言どおり黙って優しく抱きしめて、シュネーが泣き止むまで辛抱強く慰め続けた。
そして、すがりついて泣き続けたレグンの上着が涙と鼻水ですっかりぐしゃぐしゃになっているのを見て、シュネーは堪え切れずに笑い出した。
「やっと笑ったね。私の白雪姫」
泣き腫らしたシュネーの顔を優しく拭って、王子様は砂糖菓子よりも甘く甘く微笑む。
こうして林檎が嫌いだった白雪姫は、自分の国を乗っ取って、精霊の国の王子様と末長く幸せに暮らしました。