第四話 物の想い
目を閉じれば、自然と調和していく様子が肌で感じられる。空は高く、どこまでも透き通っており、この広大な大地もこの世界の裏側まで続いているんだろう。風がそよげば森の香りが吹き抜け、耳を澄ませば水の音。森にすむ生き物たちの生きる音が聞こえてくる。鳥の囀りのなんと美しいことだろうか……。
そしてこの山に満ち満ちている膨大なエネルギーのなんと神々しいことだろう! 生命を支える豊かな恵みの力は、今俺の目の前にいる巨大なオオカミの元へとつながっていた。俺はこの山の地下深くから染み出る湧水だ。この山の一部として生まれてきたこと。こんなに誇らしいことは他にあるのだろうか! 俺はついてゆくぞ! どこまでもこのお方とともに行くのだ!
「おーい、萩ー。萩さんやー」
「萩さんよーい」
「うむむ、すっかり瞑想の世界かの。しかしまあ、この数日でよくもまあこれだけ進歩したものよ」
「萩……でもお前さんちょいと呑み込みが早すぎるような気がするのだ」
「……おーい、まだかー?」
「……萩やー……」
「あなや……」
ハッ
いけないいけない、少し浸りすぎてしまったようだ。これも俺が進歩した結果だな!
オッス萩だよ萩さんだよ。修行の一環、瞑想に浸ってすがすがしい気分の萩さんだよ。いやぁ、瞑想とかなんて宗教チックとか思っていたけれど、終わってみればなかなかにいいものだね。これは。
っと、ん? そういえば山吹様はどこだ?
辺りを見渡してもあの美しい毛並みの俺のご主人兼師匠はどこにもいない。もしかして、動かない俺をつまらなく思ってどこか行っちまったってのか!? そりゃないよ! ひどいよ! 俺、今超頑張ってたのに!!
ふーん。せっかく終わったってのにいないんだったら俺、帰るし。帰り道忘れたけど、池に帰るのは一発だし。
この場所がどこかわからなくとも、池まで一瞬でたどり着ける。俺にはそういう機能が搭載されているということを最近知った。もしも道に迷ってしまったとしても、途方に暮れることなんてない。一瞬で池までたどり着けるのだ。
やり方は簡単、この龍の体を消し去って池に自我を移せばいいだけである。傍から見れば突然そこから消えたように見えるであろうこの機能は、簡単に言えば転移。この世界のどこにいようとも、池には絶対に返ってこられるのだ。だから俺は迷子になる心配がない。多少は無茶をしても大丈夫! なぜなら一瞬で帰ることが出来るから。
と、言うわけで
「そいやっ」
っと。
ふっと意識が上昇すれば、俺は池に戻っていた。そしてすぐさま龍の形をとる。この体を作るという行為は、池でいる時よりもどこか窮屈に感じる。
そう……たとえば風呂上りに全裸からパンツをはいたあの時の感じというか……まあ、普段と対して変わらないが若干のこそばゆさがある、と思っていてくれればいい。
で、だ。瞑想の後は何故だかこう……内から何かじわーっとこう、何か言葉では表せないような。そうだな……元気が湧いてくる?そんな感じになる。なんだかちょっと、自分を縛りたいというか……。
べ、別に”自分をいじめたい”とか思っているわけじゃあない。俺は変態紳士の仲間では断じてないからな! 決してそんなことはないんだ! 違うんだ! ホラ、全裸よりもパンツはいてた方がモラルがある……ってそうじゃない。何でさっきからこんなにもたとえが悪いんだろう……。
そうだ! 何か運動したりしてアドレナリンが出まくっている時に何かやりたくなる、あの感じだ!! やったぞ、やっといい感じの言葉が出てきた! だからね、俺は変態じゃない。そう、俺は変態じゃないんだ!!
こうなる前はどうだったか知らないけれど。
それでだ! 俺はふてくされている。大いにふてくされている。池の中を泳ぎまわりながら思う。
俺、せっかく頑張ってたのに山吹様ったら途中からいなくなるなんて、頑張っている弟子を置いてどこかへ行ってしまうなんて!
山吹様は人じゃない。だからその常識に当てはまることはない。そんなことは分かってる。神と人の価値観が違ったって何にもおかしなことはない。だけれど、俺はこの数日間死に物狂いで頑張っていた。朝から晩まで、瞑想以外にもいろんなよく分からないことを……それぞれがとてもきつかった。体力的にも精神的にも。
だけど、山吹様の嬉しそうな顔を見ていたら、なんだかやめることが出来なくて。
そして今日ようやく瞑想を成功させることが出来た。自然の要素の一員として世界を感じ取ることが出来た。それは俺が池として生まれてきたことだけじゃなくて、今までの努力だってきっと効果があった、はず。だけど、その時山吹様は俺の前からいなくなっていた。
まん丸に膨らんだ風船。どこかに穴が開いていたのか、次第に小さく萎びていった。
俺を拾ったのは気まぐれだったんだろうか。そうだったとしても、きちんとやり遂げたところ、見ていてほしかったな……。
「萩やー!」
森の奥の方からこちらへ向かってかけてくるあの白い獣は。
「お師匠……?」
「全く……戻ってみれば気配の一つもなくなりおって……やはりこちらに戻っておったか」
「何故……?」
「うん? 主ともあろう我がお主の居場所を見失うわけがなかろう? それと、ほれ」
山吹様は何もない宙を引き裂く。するとその中心かに穴が開き、中からは濃密な神気が漏れだしてきた。ここまで感じる、山吹様の神気。
「気になるか?これは我の神域だ。今度お主にも自分の神域の開き方を教えてやろう。
……とはいえ、今はこれだ」
穴から山吹様が銜え出したのは、真っ赤な実たちがたくさん入った木の枝でできた丈夫そうな籠。
それを足元に置くと再び口を開く。
「この間お主はこの実が大層気に入っておったようだったからな。今日の瞑想は良い線をいっておった。そこで褒美をやろうと思っての。どれ、良き香りよ。我は今までこの実にあまり興味はなかったが……改めれば実にをかし。香りだけで唾が湧きおったぞ。」
ああ、この方は
「それに見よこの籠を! 我のお手製だ! 我にかかればこのようなものをこさえるくらい朝飯前よ!
……しかしこれだけうまくできてしまえば、土に反してしまうのは少々抵抗があるのだ。どれ、萩よ。この籠、譲り受けては貰えぬか……?」
そうやって俺に問を投げかけるその眼は、堂々を装ってどこか不安げに見えた。武骨に木が組み合わさった籠。鳥の巣のようにも見えるそれには、ところどころ青葉も交じっており、籠でありながらも生命力にあふれていた。そしてまとわりつく濃い神気。
いつだったか、誰かが言っていた。これは池として生まれる前だっただろうか。
「物にはそれぞれの価値があるという」
「薄く上品な陶磁器に、きらびやかな刀剣、宝石のついた櫛に金箔の張られた屏風。それぞれの見た目はとても美しい」
「だが見た目以外の物も、この世にはたくさんある」
「物には念が宿るという。大切にしていれば、いつか付喪神が宿るかもしれない」
「それは物を生み出すときも同じ。大切に丈夫になるよう、使いやすくなるよう願いを込めて作られたそれらには、念が宿る」
それらを自分たちが使うとき、作った者たちの物に込められた思いがふと感じ取れる」
「そういうものが、本当の”いい物”というモノなのだろう」
今、目の前に置かれたこの籠には山吹様の神気も共に編み込まれているようであった。それはそれはきめ細やかに、しっかりと。何重にも重なって層のようになっている。持ち上げれば、ふうわり。山吹様の神気を感じる。
誰が言ったのであろう。あの言葉通りならば、この籠は。
「もちろんいらぬというならそこらへ放り投げるだけだがの? ただ、もったいないと思っての?」
「や……き……さま」
「うむ? 何か言うたか、萩よ」
「山吹様ぁぁぁぁぁぁぁ」
「ど、どうしたのだ!? そんなにこの籠が気に入らなかったのか!?」
「ぞんなごどっ、あるわげっ、ないでずううううう
うわああああああああああああああああん」
「う、うむ!? ……そうしたら少し気に入りすぎな気もするがの。まあ、なんといっても我の作った籠であるからな。大事に使うのだぞ」
「はいい、ありがどう、ございまずうう」
「うむ! して……顔中がぬめっとしておるようだぞ? どぉれ」
「……!? やめでください! 汚れてじまいます!!」
なんと、山吹様はその立派な美しい尾で俺の顔をぬぐい始めたのだ。
「なあに。お主が汚れているわけがないであろう? なんせ池の精なのだからな」
「気持ぢ的に嫌でず! 尻尾がカピカピになっでしまいまず!」
「そうしたらお主から続いておる川で水浴びでもすればよいではないか。さあさ、おとなしくするのだ」
結論から言えば、山吹様の尻尾はふわふわだった。もうそこらの動物の毛皮見ても何も思わなくなるほどにはふっかふかのふわっふわの雲みたいな……まさに、そう。天国。
「よし。これできれいになった」
「ふわぁ、ふわふわぁ……」
「うむ? どうした?」
「もこぉ、もこもこぉ……」
「……なんだかあまり触れない方がよさそうだな。おっと忘れておった。萩よ、キイチゴの実だぞ。今日の祝いに共に味わおうではないか!」
「……っはい!!」
全く、このお方は……! どこまで優しいんだろう! 見てるどころか、俺、とっても大事に思われていた。
「ううっそう思えば……ごべんなざいいいいい! 本当に、ごべんなざあいいい」
「何に許しを乞うておるのかよく分からぬが……ともかく。今日のお主の成長ぶりには目を見張るものがあった。たった数日でここまで精度を上げるとは……本当にすごいことだぞ、萩」
「ううう、うわああああああああああああん」
「お主は泣き虫よのう。全く……よくできた困った弟子だ」
「わあああああん山吹ざまああああああん」
「よしよし」
不安だった。ずっと。だけれど、少しだけ満たされたような気がした。あったかい。この感情の名は……。
ただ、俺の胸の内にどこか燻りがあった。なにか、予感がした。
気づかないふりをして今はただ、泣いた。