第弐話 俺の名は
さわりさわりと緑色づく、ここはどこかの山の奥。
あれからまたかなりの時間が流れたようだが、事態は一向に回復してはいなかった。
まあ、それだけ時がたってしまえば少しは順応もする。そう、たとえ最初の方に悲嘆に暮れてジメジメオーラを出し続けてオールナイツしていたとしても、目が覚めたって龍だし池だし何にも変わってなくて絶望に浸り続けて何十年単位で時が流れても、だ。
……本当だよ?
その証拠に俺はこの体についてここのところずっと調べていた。そして……病が再発しちまっていた。
「我は水操りし白銀の神龍、ドラゴノス!!」
ふひひ。その爪は大地をめくりあげ、咆哮とともに世界の終焉が訪れるのだ……なんちって。だって龍ですよ、ドラゴンなんですよ。ゲームなんかじゃドュラギェンったら最強の扱いでしょ? それに俺はなっちまったんだから、病が再びよみがえっちまうのなんて普通のことだ。この病、人は誰でも心の中に必ず持ち得るもの。至って自然現象である。もしかしてもすかして、俺の魂が龍の御霊だった……みたいな? フヒヒ、ロマンス広がりますなあ。
ところでこの体、人間だった時より体が滑らかに動くし、滑舌だってはっきりだ。だからカタコトの頭悪い三流のような感じにはならなかった。
顔には鯉のような、それよりはずっと長いひげがある。それは感度が抜群で、鼻と同時に臭いが嗅ぎ取れるし、自分の周りの空気の動き方とかも感じ取れる。さらにさらに、腕……この際割り切って言う、前足よりも器用に動くおかげで日々の生活の楽なこと楽なこと。長いから動かなくとも高いところの木の実が取れる。ちなみにその木の実がものすごくおいしくて、やめられないの止まらないの。いやあ、池だからか無限に入るような気がして、つい。どんな名前の木の実なんだろうなあ。
いつでも体を崩して池の中に意識は写せるし、体創ってる時は水と同化しないし、水の中でも呼吸ができる上に、眠ることが出来るようにもなって、いいこと尽くしである。のんびり最高! なんかこうなる前はすごくバタバタしてたような気がするし。慌てるのはよくないよねー、急がば回れってあるし。何でもゆっくりマイペースにってね。惰眠をがっぽり貪りましょ。
そして一番の利点。それはもちろん、空を飛べること!
正確には水の中を泳いでるのと感覚は大して変わらないから、”空を泳ぐ”ってのが当てはまるんだろうか。どちらにせよ空から地上の高みの見物が出来るってわけだ。ははは、木々がゴミのようだ!
そのおかげである程度の地形の把握が出来た。
ここはどうやら山の奥深くのようだった。日本に普通にある山々連なる内陸部、という感じで特筆すべきことは何もない。ただ、俺の池がふもとに続く川の源流になっているようであった。その川が山を削って大きなV字谷を作っていて、さらに霧がかかってすごく神秘的になっていることも知れた。いやあ、たまに遠くまで意識が飛ぶような奇妙な感覚があったんだが、それのせいか。マジで俺川の主様だった。
そしてこれは前からだったが、動物が水を飲みにここへ来る時のなんと愛らしきこと! まっこと、心が浄化されていきおった。俺が池のそばでとぐろ巻いて観察してたらぴょこっと頭下げてくる。その瞬間俺は感じたね。
浄化ァッ
ってさ。なんかごめんなさい。患っててごめんなさい。でももう駄目だ、俺は俺の暴走を止めることが出来ない! ……こういうのってそばに真面目な人がいなきゃ進行する一方なんだよな。
そんなわけで俺は今日も元気に患ライフを送っているのであった、まる
「てなわけでさっそく行くぜ!
伏せた眼に宿るはアメジストの光……月光の加護を受けし白銀の鎧をまとい、風になびかし鬣の白きを見ては夜ぞふけにける……ん?
ゲフンゲフン、波打つその髭は黄金に染まり、ぱっくりと避けたその口からは全てを凍結させる、死の息吹が轢き荒れる……その爪はいかなる獣も一刀両断に切り裂き……あああ、大丈夫そんなことしないから安心して水飲みに来ていいのよ、鹿さん!
っと……すべてを黄泉へと誘い、死の気配満ち溢れるその龍の名は……デスデーモニクス!
ふふー!どうよこの設定? 超かっこよくね?デスデーモニクス!!うふふー鹿さんどう思う?」
鹿はこちらをちらと見るとそのまま森の奥へと去って行ってしまった。うっへ、ひどい塩対応を見た。まあ、一人でしゃべって、一人に自分の発言に酔って、一人で動物に話しかけてる人なんて普通に不審者だけどな……あ、でも今龍だし関係ないもんね! ありのーままのーってのが大事なんだし。……なんだっけな、この歌。
「吾輩は龍である。名前はゼントドラニクル。この聖なる泉にて生まれし純白の龍だ」
独り、木漏れ日差す生命あふれる森でつむぐ、傍から見ればイタい言動の数々。だけど、それでもいい、だってそれが
「さいっこう!」
なのだから。
「私は池の龍」
そうやって無我夢中で自分の世界に浸りこんでたからかな。
「空は実に青く素晴らしい」
俺は周りに充満する濃密な気配と、異様な静けさに気が付かなくて
「そうは思いませんか」
問うてしまった。
「山の神よ」
「ほほう、我に気づくだけではなく、さらに正体まで言い当てるとは」
ゑ
な ん か い るーっ!?
ちょっと待ってちょっと待ってええええええ!? 背後に山の神がいる設定で一人おしゃべりしてたらホントに山神様出てきちゃったよおおおおお? 振り向いたらなんかでっかくて白いわんこ様が見てるよおおおおお? どうしようね、どうしようかなああああ!? 本能がカンカン悲鳴あげてるよ、”にげるコマンド”はどこかなあああ!?
「”我は渓谷山に宿りし豊穣の神、大狼山吹神と申す”
貴様の名は何という?答えよ」
え? え? え? な、名前? 名前なんてないよ、今までの厨ニ名言えばいいのかな? ああいってあげますともドラゴニクスドラゴノスアジッドドラゴンピュアドラゴノイデスデーモニクスゴリアンダセントドラニクル!
「……どうしたのだ、池の主よ」
もちろんそんなクサい名前になりたいはずもなく、俺は体を崩して池に意識を移していた。まあ、簡潔に言えば、逃げました。
いやいやいや、あんなものすごいオーラビンビンのわんこ様に真っ向勝負なんて挑めません。無理ゲーです。
『私には、名前が無いのです』
何で私口調かって? 逆に問えば、こんな威圧感バリバリのイカニモな神様に向かって、誰が我口調とか使えるよ?
『ほおう』
狼は一歩一歩歩みを進める。
おこ? おこなの? 怒っちゃったの? え、何この沈黙。って何で近づいてくんの? よく分かんないけどごめんなさいだから殺さないでぇ!
緑の下草を踏みしめ、山吹様は一直線に池までやってきた。
『もう一度姿を見せよ』
山吹様は、池に鼻先が付きそうなほど近くに顔を寄せて言った。
暖かな山吹色のまなざしはとてもとても優しくて、どこか懐かしい気がした。
気が付けば俺の体は水の中にあった。水面で紙一重、互いの鼻先が触れそうな位置に頭がある。柔らかな陽だまりの瞳と目が合う。それは全てを見透かされているような複雑な気持ちになった。目を離そうとは思わなかった。思えなかった。
やがて山吹様の顔が離れた。そうっと水面に顔を出してみれば、山吹様は俺から少し離れた場所にいた。そして俺を見ると、口の端をニヤリと釣り上げた。
「お主は萩じゃ」
「はい?」
「決まっておろう? お主の名だ。これからは萩と名乗るがよい」
「萩……ですか?」
その瞬間だった。体の中を暴風が吹き過ぎて行ったような気がした。”萩”か。なんだか力がみなぎってくる。忘れていた何かを思い出したような、すっきり、晴れ晴れとした気分だ。名前ってこんなにも意味があるものだったのか。
「さあ、さっそく名のってみぃ」
「はい!
”私は渓谷山に宿りし豊穣の神、大狼山吹の眷属たる水面上萩”にございます!」
ん?
「うむ、よくできたの。これでお主は晴れて今日から我の眷属となったわけだ。よろしくの、萩よ」
んん~?
「そうときまれば忙しくなるのう! ふふ、我も眷属を持つのは初めてなのだ。貴様も我の眷属になったのだから、誇るがよいぞ。なんせ我はこの渓谷山の化身なんじゃからの。ここらでは最高位の神ぞ」
ちょっと待て。待て待て待て。えっ!?
……えっ!?