第1話 日常
「叶夢センセー、さようなら」
「はい。さようなら」
季節は夏。
蝉の鳴く声を耳にしながら、僕は園庭にある向日葵に向け、ホースで水をあげていた。その横で園児達がお母さんと手を繋ぎ、はしゃいだ声をあげ保育園を後にしていく。
迎えに来るほとんどのお母さんは、僕の年齢とそう変わらない三十手前の人が多い。
僕の名前は水野叶夢年齢は二十五歳。大学を卒業後、この保育園に勤めて、今年でもう三年の月日が経った。
入った当初は保育士という仕事がここまで大変だとは思わず、悪戦苦闘の日々を過ごしていた。最初は子供とのコミュニケーションの取り方に苦労したし、正直辛いと思ったこともあったけど、それでもこの仕事を辞めずに続けているのは、やはり子供が好きだからだろう。
しかし、今日も相変わらず、蒸し暑い。僕は差し込む太陽の光に目を細めながら、快晴の空を見上げていた。
「叶夢センセー? ねぇ、叶夢センセーてば!」
朦朧としていた意識の中、それを叩き起こすようなタイミングで、児童の女の子は僕のエプロンを引っ張り、声を上げていた。
「ああ。ごめん、こはるちゃん」
我に返った僕は、ごまかすように明るい声をだす。
女の子は僕が受け持っているクラスの子。名前は瀬名こはる(セナ コハル)ちゃんで、クリッとしたつぶらな瞳が印象的で、いつも髪を三つ編みにしている。特別クラスでも目立つ子ではないが、授業が終わった後の預かり保育の時間帯では、よく年下の子達の世話してくれるお姉さん的存在。周りがよく見えている子で、とても気遣い出来る優しい子。先生として至らぬ僕は、彼女に助けられることも多々あった。
「どうしたの? 叶夢センセー。最近、一人でぼんやりしてること多いよ。悩みがあるなら、こはるが聞いてあげるのに」
こはるちゃんは、上目遣いで僕を心配そうに見つめている。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。蒸し暑くなったからね、頭がぼーとしちゃうんだ」
「叶夢センセー。ちゃんと、マメにお水飲まなきゃダメだよ」
「ああ、そうだね」
これは参った。今日、僕が朝に生徒達に向けて注意喚起したことが、そのまま、生徒に言われるなんて、恥ずかしくて目を背けたくなるな。
「ああ、そうだ。冷蔵庫にスイカあるから、みんなで食べようか?」
誤魔化すよう僕は話題を逸らしながら、こはるちゃんの頭を撫でる。
「えっ。スイカ! うん、食べる」
こはるちゃんは目を輝かせると、大袈裟なくらい首を縦に振る。
僕は蛇口を閉め、ホースの水を止めた。そして、こはるちゃんと手を繋ぎ、教室の中へと向かって歩く。
やれやれ。僕が生徒に心配されているようじゃ、まだまだ半人前だな。
そんなことを考えながら、僕はまた空を見上げていた。




