8
再び立った女王の間の前まで来ると、緊張に体が強張った。鼓動の音が耳を大きく打つ。
ノークが、ゆっくりと扉を開いていく。まばゆいほどの光が内側から溢れ出て、私の網膜を刺激した。
今度こそ。
今度こそ、彼女をこの手に――。
扉が完全に開くと、ノークがうながすようにこちらを見た。私はそれにうなずき、強張った体を意志の熱で解かしてから、ゆっくりと部屋へと足を踏み入れた。
高い天井からは、ちらちらとなにかが降ってきていた。それは私のいるところへも降りてきて、天井を見上げていた私の頬にふわりと落ちた。ひんやりと冷たいそれは、雪そのもの。じんわりと溶けて消えていく雪の儚さが、私の身に伝わってくるようだった。
部屋のなかに雪が降るという不思議に、私はそのとき感動を覚えていた。そして、雪が本当はこんなにも美しいものだったということを、胸の奥で思い出していた。
「女王様。エーリクをお連れしました」
ノークが部屋の正面奥に向かって言った。私ははっとしてそちらに顔を向けた。
そこには、先日の氷の壁がいまだ氷が溶けずにそのまま残っていた。彼女が作った氷の壁は、彼女の心の壁を具現化しているようで、ふいに悲しみに襲われた。胸に握った右の拳を当てながら、じっと氷の壁の向こうに透けて見える景色に目を凝らしていると、奥のほうから白い影が現れた。
たちまち鼓動が速くなり、目がその動きに釘付けとなった。しとやかな足どりで、こちらへと近づいてくる。
氷の壁の向こう側、私のいるところの正面に彼女が立った。氷越しでもわかるその美しさ。気高く穢れの一切ない完璧な容姿は、どんな芸術品よりも美しい。長く美しい銀髪は星のきらめきよりも美しく、白きドレスにも劣らぬ白い肌はこの世のものとも思えないほどに透き通って見えた。ほんのりと赤い唇は薔薇のようで、双眸に宿るのは神秘的な深い青だった。すべてを見通すようなその瞳に射すくめられたかのように、私はしばし呆然と彼女に見惚れていた。
「エーリク」
鈴が鳴るような声が響いた。彼女に名前を呼ばれ、私の胸には切ないものが生じた。
「もう一度私に会いたいとのあなたの願いに、今一度だけ、応えることにしました」
どくんと、鼓動の音が大きく鳴る。
「けれど、わたしの答えは前回と同じ。あなたとわたしとは、生きる道筋が違っているのです。あのときのことは、単なる気の迷い。あなたもこの氷の塔に暮らしてみてわかったでしょう? ここは人間の住めるようなところではない。ひたすらに冷たく寒い、そういう世界。わたしはその世界の住人です。人間がそんな世界の住人になれるわけがない。あなたも冬は嫌いでしょう?」
私は首を大きく横に振った。冬は嫌い。その言葉に含まれているのは、単にそのままの意味だけではない。きっと彼女はこう言っているのだ。
わたしのことが嫌いなはずだと。彼女自身が冬そのものであると、彼女はそう言っている。冬を終わらせたいと願う人間の仲間である私が、彼女を受け入れられるはずがないと。
セシルはそう言っているのだ――。
「違う!」
私は思わず叫んだ。きんと凍った空気のなかに、自分の声がどこまでも響いていく。
「私は人間だ! だけど、冬が嫌いなわけじゃない! 冬は寒い。冷たい空気は体を芯から冷やす。だけど、冬はとても美しい。雪山の美しさ。白くなる息。凍った池。おりた霜。厳しさはそのまま世界の美しさでもある」
「けれど、美しいだけでは命は育まれない。温もりのなかに生きる人間や動物たちにとって、冬はやっかいな代物。ある動物は食べるものに困り、ある動物は地中に潜って冬の終わりをじっと待っている。あなたたち人間も、冬を終わらせようと、やっきになってこの山に登ってくる」
氷の向こうの彼女の声に、悲しみが混じっているのを、私はそのとき感じていた。そして私は確信した。
彼女自身が抱えているのは、どうしようもない寂しさ。我が身を呪う苦しみだと。
彼女は、彼女自身であることに苦しんでいる。もがいている。
誰も受け入れてくれない自分を、どうすればいいのかわからずにいる。
「わたしは命あるものたちにとってのやっかいものなの……! 冷たい冬を司る、冬の魔女なの! そんなわたしと一緒にいられる人間なんていない! あなたもきっとわたしのもとから去っていく。今はそう言っていても、いずれそうなるの! なぜなら冬の世界で生きるわたしは人間とは違うのだから……っ。わたしは人間ではないのだから!」
――そうか。
やっとわかった。
やっときみの苦しみを、本当の意味で今理解した。
きみの悲しみのわけを、私はこの胸に刻む。
「セシル!」
助けたい。きみを。
「愛している!」
氷の向こうの彼女が、はっと顔をあげたのが見えた。
「それでもきみを、愛しているんだ!!」
氷に両手を当て、それを突き破ろうと私は懸命に押した。この氷を突き抜け、いますぐ彼女のもとに行きたい。彼女をこの手に抱き締めたい。
「私が人間であることが妨げであるのなら、私はいつでも人間であることを辞める! きみと同じように、生涯を暮らそう。人間の暮らしを手放そう!」
冷たさが手をかじかませ、骨身にまで染みてくる。冷たさが痛みに変わり、この身を苛もうとしてくる。それでも私は足を踏ん張り、氷の壁を懸命に押していた。
「エーリク! 無理だ。これは人間の力でどうにかできる氷壁ではない。女王様の力を持ってでしか、打ち崩すことなど不可能な壁なのだ! あきらめろ!」
ノークが私に近づき、訴えるように言った。しかし私はそれに耳を貸すつもりなど毛頭なかった。
「嫌だ! 私はセシルに会いにここまで来たのだ! 彼女がそこにいるというのに、この氷壁のすぐ向こうにいるというのに、どうしてあきらめることができる!」
私は今度は持っていたナイフで氷壁を叩き始めた。だが、キンキンと高い音が鳴り響くばかりで、一筋さえも氷に傷をつけることはできなかった。
「セシル! お願いだ! この氷壁を消してくれ! きみの近くに行かせてくれ! それが叶うのなら、私はもうどうなっても構わない! きみが愛しい。心の底からそう思っている! 愛している、セシル……!!」
魂の叫びだった。嘘偽りのない、それが本心。
どうしたらわかってもらえるのだろう。どうしたら、きみの心の氷を溶かすことができるのだろう。
わからない。私にはもう、こうして叫び続けることしかできない。
ぶわりと、目の奥から熱いものが吹き出した。それはとめどなく私の頬を流れ落ち、顎から氷の床へとはたはた落ちていった。
と、そのときだった。
私の足元から光が放たれ、蒸気が発生した。そしてそれは、驚きのあまり言葉を失っていた私の前にも広がっていき、ついに目の前の壁にまで進んでいった。
「な……っ。なにが……?」
ノークの驚愕する声が聞こえてきた。私は蒸気に包まれたまま、目を閉じ、息を止めていた。
なにが起きているのかわからないまま、それからゆっくりと目蓋を開いていった。
「…………っ!」
奇跡が起きていた。
目の前の光景を見て、私は再び涙が目に盛り上がってくるのを感じていた。
それからすぐに私は足を踏み出していた。
目の前にいるその人を逃がさないように。
「セシル……!」
驚きに目を見開いていた彼女を、私は思いきり己の胸に抱き締めた。ひんやりと冷たい体は、しかし確かに本物だった。
「愛してる! きみを心の底から愛している!」
固く彼女の体を抱き締め、その感触を胸に刻んだ。彼女の背中に流れる髪が、私の手の甲をさらさらと流れていく。
「エーリク……」
おずおずとした手が、私の背中に触れた。それから少しずつその手にも力がこもる。
分厚い氷の壁が、蒸気とともに消え去っていた。どんな奇跡の力が作用したのかわからないが、ついに私は彼女をこの手に抱き締めることに成功した。今はただ、嬉しさと愛しさで、体中がいっぱいになっていた。
「すまない。きみにずっと寂しい思いをさせてしまって。きみに会いにくるのが遅くなってしまって」
「いいえ。わたしが悪かったの。わたしが勝手に絶望して、嘆いて……。そうしたら、宝石の力の制御ができなくなってしまった。この長い冬をもたらしているのは、そのせいなの。わたし、もうどうしたらいいかわからなくなってしまって……」
私は腕を緩めて、彼女の顔を見つめた。彼女は泣いていた。美しい顔を悲しみで歪めて。
「セシル……。そうだったのか。きみはわざとこの冬を長引かせていたわけではなかったんだね。きみ自身でさえ、どうしようもできなくなっていた。だがきっと、それも私が悪いのだ。きみを傷つけてしまったそのせいで……」
私は胸が苦しくなり、吐き出すように言った。
「ごめんよ。そんなつもりはなかったんだ。知らなかったからとはいえ、きみを深く傷つけてしまったこと、本当に後悔している。許して欲しい」
セシルは顔をあげ、私を見つめてきた。吸い込まれそうなほどに美しい瞳に、今私が映っている。
「わたしを今も愛しているというのは本当? わたしが冬の魔女でも?」
その問いに、私は躊躇なくうなずいた。
「ああ。本当だ。私はきみを愛している。これ以上ないくらいに」
私はそう言うと、そのまま彼女に顔を近づけていった。彼女もまた、その目を閉じて私を受け入れてくれた。
ひんやりと冷たい唇は、だがどうしようもなく甘くて頭を芯から蕩けさせた。もう一度彼女の体を抱きすくめ、思う存分その唇を奪い続ける。
「愛している。セシル」
彼女の耳元で私がささやくと、彼女はようやくくすりと笑って言った。
「わたしもよ。エーリク」
***
それから周辺の国々に、ようやく春がやってきた。長く続いた冬の終わりに、人々はおおいに喜んだ。
冬の女王は、毎年の冬を以前と同じように一年の四分の一にすることにし、人間たちとの友好関係を築くと約束した。
王国は雪解けの水で潤い、豊かな緑に包まれた。動物たちも活動を再開し、生き生きと走り回っていた。
私はいつかの木の下で、眼下に広がるそんな国の姿に目を細めていた。
セシルと心が通じ合ったあのときから、彼女はその力の制御を取り戻した。彼女が降り続けていた白雪の宝石の雪をやませると、外で降っていた雪もやんでいった。それにより、塔の所有権を無事に春の女王と交代することができたことで、この国に待望の春を訪れさせることができたのだった。
私は彼女と生きることを決断したが、彼女はそれではあなたの命がそのうち途絶えてしまうと言い、ある条件付きでの交際をしていこうということになった。
それは、夏の間は冬以外で彼女が暮らしている高原へと私が登り、彼女が塔にいる冬の間は、ときどき彼女が私の暮らしてる麓まで降りてくるという、つまり通い夫と通い妻といった関係に。
春の今は、山と麓の中間に立つこの木の下が、もっぱら彼女との逢い引きの場所となっていた。
悲しい別れも、今は遠い思い出だ。
ほら。
振り向けばそこに、きみの笑顔がある。
幸せを噛み締める。
愛している人にこうして会えることの幸せを。
まだ雪の残る山を背にして、きみは明るい銀髪をなびかせていた。
〈終〉
お読みいただきありがとうございました!
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