7
花、花、花。――一面の花。
そこは、氷の塔に咲くはずもない色とりどりの花で埋め尽くされていた。
「なんという……」
美しい。
私は目がくらんだようになると同時に、自分を取り囲む植物の気配に圧倒されていた。
久しぶりに嗅いだ緑の匂い、そして競うように咲き綻ぶ花々の鮮やかさが、鮮烈に私の内を満たしていった。
しばらく呆然としていると、ふいにどこかからささやくような声が聞こえてきた。
「だれかいるの……?」
細い弦を奏でるような美しい声は、とても耳に心地よく、安らかな気持ちをもたらした。私は周囲に視線をめぐらし、その声の主を捜した。
「あ……」
彼女は、部屋の奥のロッキングチェアに座っていた。長く足元まで伸びた髪の毛は明るい黄金色をしており、春の花を思わせるような薄桃色のドレスを身につけていた。彼女はゆっくりと立ちあがると、くるりと振り向き、こちらに視線を寄越した。
「あなたはだれ?」
彼女は再び誰何した。しかし、私は彼女のあまりの美しさに息を飲んだまま、しばらく言葉を失ってしまっていた。
碧玉のように輝く瞳に、すっと通った鼻。小さな花のように可憐な唇と薔薇色の頬はこの世のものとも思えないほど麗しい。そして透き通るように白く輝きを放つ肌は、穢れを知らない高潔さを備えていた。
目の前に立つ美貌の主はだが、自分の知るある人の姿によく似ていた。
「……春の女王様ですね?」
ようやく口にし、少しだけ緊張の糸が緩む。目の前の彼女はそれに小さくうなずいてみせた。
「私はエーリクという、この山の麓の町に住む戦士です。国王に請われ、この国の危機を救うべく、山を登りこの四季の塔までやってきました」
それを聞いた春の女王は、かすかに目を細め、口を引き結んだ。
「冬が終わらないことを、みな嘆いているのですね……」
悲しみを帯びた声に、私は少し驚きを覚え、彼女を見つめた。
「どういうことなんでしょう? なぜあなたがここにいるのに、冬は終わらないのでしょうか。それに、本来ならあなたに明け渡されているはずのこの塔の主がいまだに冬の女王のままなのは、どういうことなのでしょう。なにかわけがあるんですよね? このまま冬が終わらなければ、この国はいずれ滅んでしまうでしょう。どうか、そのわけを話してください。そして、どうかこの国に以前と同じような四季を戻してください! お願いです。春の女王様!」
私は懇願するように叫んだ。冬を終わらせるためには、春の力がいる。それを目の前の女性は持っているはずだ。なのにこんなところで隠れるようにしているのは、なにかそれなりのわけがあるのだろう。
「……そうね。きっとあなたたちこの国の民には説明をしないといけないことなのでしょうね。わたくしがここにいるわけ。そして冬がいつまでも終わりを告げないことについて」
たおやかな手つきで己が胸に手を当てた春の女王は、軽く頭を落とし、憂いを帯びた様子でゆっくりと話し始めた。
「冬がそろそろ終わりを迎える時期が近づくと、わたくしはいつもこの山の四季の塔に行き、前の季節の主である冬の女王と交代することになっています。それは他の季節に関しても同じで、春、夏、秋、冬とそれぞれの季節を司る女王が次の季節をめぐらせるためにこの塔に入るのが通例です。ですが、今回の冬はなにかが違っていました。
いつもならわたくしとの交代の時期になると、冬の勢力は和らいでくるはずなのですが、なぜかいっこうに冬は力を落としません。凍てつく寒さは続き、深く積もった雪が溶ける気配は微塵もありませんでした。
異変を感じながらもわたくしは四季の塔へと向かいました。凍てつく寒さは堪えましたが、魔女の魔力でなんとか塔へとたどり着くことができました。しかし、塔へ入ることはできたものの、冬の女王はわたくしと会うことを固く拒みました。何度も会おうと試みましたが、まるで心を氷で閉ざしてしまっているようで、どうすることもできませんでした。
なにか理由があるのだろうとは思いましたが、彼女が心を開いてくれなければ、わたくしにはどうすることもできません。
結局、わたくしはそのまま塔に留まることにしましたが、今現在までその状況が変わることはありませんでした。それがわたくしが今ここにいることの理由です」
話を聞いた私は、春の女王の困惑を悟り、心がちくりと痛んだ。彼女もまた、冬を終わらせようとここまでやってきたのだ。けれど、妹である春の女王が頼んでも、セシルは心を開くことはなかった。なぜそんなふうになってしまったのか。私はどうしようもなくやるせない気持ちになり、唇を噛んだ。
春の女王は足元で芽吹く小さな花をじっと見つめている。心なしかその花は泣いているように見えた。
「わたくしもこのままの状態が続くことは本意ではありません。どうにかして欲しい。だれでもいいからこの状況を打開して欲しい。そう思っているのです」
「そうか……。だからあなたは助けて、と」
「ええ」
彼女の救いを求める声は、自分の思いと同じものだった。だから私は彼女に会いたいと感じたのかもしれない。
「あれ……? でも変だな。あなたはここに来てから冬の女王に一度も会っていないのですか?」
「会っていません。ただの一度も」
「ただの一度も?」
それはおかしい。実の妹である春の女王が会えなかったのなら、なぜ私は一度だけとはいえ彼女に会えたのだろう。あの日以来会うことを拒絶され続けてはいるが、もしかしたらこの事実は、この事態を打破するための大きな手がかりなのかもしれない。
「春の女王様! もしかしたら、私が彼女の心の氷を溶かす火種になれるかもしれません。この国に再び春を訪れさせるために、なんとか冬の女王に近づいてみようと思います」
そして私は、これまで以上にセシルに会うことを熱望した。あの閉ざされた氷の扉の前で、何日も何日も彼女に訴え続けた。
――会いたい。
――会いたい会いたい会いたい。
寒さで手がかじかみ、吸った空気の冷たさで肺がきしんだ。体温が奪われ、体中が悲鳴をあげる。
それでも私はあきらめなかった。あきらめたくなかった。
彼女に会いたい。
そして、私の気持ちを伝えたい。
その想いだけが、私を動かしていた。
「お会いなさるそうだ」
やがて、やつれ果てた私の耳に、ノークの声が聞こえてきた。
どくんと、心臓が大きく高鳴った。
再び彼女に会える。
ならばそこで……。