サキュバス
これはいったい、どういうことだ。
サティが俺の上にまたがり、紅い眼を光らせて怪しく微笑んでいた。
部屋のベッドの上。窓から差し込む月光に照らされ、サティの肢体が艶めかしく俺の目に映り込んでいる。
食事のあと俺は急激に重くなった体を引きずって(睡眠薬か何かを盛られたのか?)部屋に引き上げ、ベッドに倒れ込みすぐに眠りに落ちたはずだった。
おかしな話だが、あれから目が覚めたという記憶がない。いや待て、今俺は目が覚めているのか? どうなのか? 何を言っているのかわからないと思うが安心してほしい。俺にもわからない。痺れたように重い頭の中は、夢と現をさまよいながら混乱しまくっていた。
「あんた、意外といい体してるよね」
サティの指が、俺の体を這い回る。今までに感じた事のない、いわゆる快感というやつが、俺の脳髄を侵食していく。頭は拒否しようとしていたが、本能がそれを許さなかった。体はまるで金縛りにあったようにまったく動かない。
彼女の紅い髪と眼が、異様に光って見えるのは気のせいだろうか。それに、口調も変わっている。そして、サティはこんな顔だったか?
今までの穏やかでおしとやかで澄んでいた表情は姿を消し、艶やかで怪しげで濁りに満ちた表情をしていた。
それがサティだとは思えなかった。信じたくなかった。
「お前は、誰だ」
「あたし? あたしは誰でもない。あんたが望めば、あたしはそいつになるよ」続けていたずらっぽく「初めては重要だからね」とのたまった。
なぜ俺に経験がないことを知っている。いや今はそんなことどうでもいい。異様な状況だった。危険信号がびんびんだ。受け入れてはいけない、と思いながらも、なぜか俺は一瞬ある人物の顔を思い浮かべてしまった。
「ほう、なるほどね」とサティは笑う。なぜ笑うサティ。
次の瞬間、サティの顔が黒い霧に包まれ、怜奈の顔になった。
俺は目を剥く。あの怜奈が、俺にまたがって淫靡な表情を浮かべている。
「あたしはサキュバス。あんたの夢を自由に操り、縛って、奴隷としてしっかり働かせてやるよ。一生ね」
サキュバスだと。いわゆる夢魔ってやつか。奴隷? 一生? ふざけるな。
しかし彼女はいい体をしている。くそ、男ってやつはこれだから。
そうやって俺がサティのある一点を注視していると、なぜだか急に頭の芯に蔓延る熱っぽさが薄れ始めるのを感じた。
ああ、そうか。俺は思わず吹き出しそうになった。
「サティ、お前はひとつ重大なミスを犯している」
怜奈の顔をしたサティは訝るように俺を見る。
「怜奈は、貧乳だ。そんなに豊満な胸じゃない。これは夢だ。夢なんだ」
俺は盛大に叫び、呪縛を振りほどこうとした。頼む、夢から覚めろ俺。
夢だからいいじゃないかだって? 気持ちいいんだからいいじゃないかだって?
冗談じゃない。これは俺の、大切な気持ちなんだ。
体が、動いた。
サティを跳ね除け、部屋の扉へ向かう。一刻もはやく彼女から離れたかった。
扉を、開ける。
目が覚めた。全身から汗が噴き出している。
どうやら、助かったようだ。
ふと、部屋の中に違和感を覚えた。
見回すと、サティがいた。俺は目を丸くする。
「ちっ、あれで落ちなかったやつは初めてだよ。仕方ないから、強硬手段だ」
頭に強烈な衝撃。目の奥に火花が散った。
薄れゆく意識の中で、俺は思った。
まさに、一難去ったらまた一難、か。
「あんたたちはクラス持ちだからね。厳重に縛らせてもらったよ」
建物の地下にある牢屋。目が覚めたら、そこに俺は入っていた。鉄でできた大きな手錠と足かせが、俺の自由を完全に奪っている。
地下にあるのは倉庫だとサティは言ったが、やはり嘘だったようだ。
「そこにいる男たちのように、いずれ従順な奴隷になるよう調教してから売り飛ばしてやる。覚悟しときな」
俺の牢の向かい側では、苦しそうな表情で男たちがうあー、うあーとうめき声を漏らしていた。
廊下で聞いたのは、こいつらの声だったのか。
怜奈は鉄柵で仕切られている隣の牢にいた。
「女は普通、即売るんだけどね。女の調教は男に任せたほうがいいから。だけど拳闘士か。少々厄介だけど、顔が可愛いからきっと売れるよ」
怜奈はその言葉を聞き、眉をハの字にして、縋るような目で俺を見る。
サティは高笑いを残して、地下室から去って行った。
しばらくして、リーフが食事を持って地下室にやってきた。
「なあリーフ、助けてくれないか」
リーフは軽く微笑み、盆に乗った食事を鉄柵の下にあいた隙間から差し込む。
その時俺は、リーフの肩に乗っかる、小さい人間に気が付いた。
草原で最初に見つけた、ピクシーだ。
そうか。やはり。
「あいつらは全員、異邦人か」
向かいの牢にいる男たちを顎で示す。
「そうですよ」
リーフは微笑みを崩さず、当然だという口調でそう言う。
「草原に落ちてくる人間をピクシーに見張らせ、落ちてきたらお前らが一芝居打ってここまで連れてくる。ゴブリンもグルなんだな」
「普段はこんな芝居打ちませんよ。なにせ来るのは普通の人間。ゴブリンにそのまま拉致させます」続けて「あなたたちがクラス持ちである事を察知してこの子が知らせてくれたので、保険として芝居をすることにしたんです」とピクシーの頭を指で撫でる。ピクシーはくすぐったそうに目を細めていた。
「案の上、あなたたちは強かったですね。巨漢のゴブリンを怖じ気付かせてしまうなんて」
最初は無邪気な子供の笑顔だと思っていたが、その目の奥は全く笑っていない事に、今更になって気づく。
「保険を打っておいて、本当によかった」
すべては、仕組まれていたことだった。
すべては、俺たちを奴隷とするために。
「しっかり食べてくださいね。あなたたちは、貴重な労働力なんですから」
空虚な微笑みを残して、リーフはその場を辞した。
俺と怜奈は、顔を見合わせる。