【終幕 暁の流星】
アメリカ合衆国バージニア州の某所に建つ、六角形の奇妙なビル。
退魔総省ヘキサの本部であるそこの地下八階。
シェルターの機能を持ち、核兵器からすら身を守れる安全な長官の部屋で、ミカエル・アンダーソンは革の椅子に深く腰を掛け、部下からの電話に耳を傾けていた。
「――分かった、ごくろう」
そう言って受話器を置いた瞬間、ミカエルの眉間にシワが刻まれる。
「島国の化け物ふぜいが、私の邪魔をするとは許し難い」
南米の上空で爆発させる予定だった核弾頭が、ロケットごと静止軌道の外へと運ばれてしまい、電磁パルスは地球へ届かなかった。
その事実に憤慨を抱きつつも、ミカエルはニヤリと頬を歪める。
「まあいい。第一の目的は果たされ、黄色い猿共を追い詰める理由にもなった」
妖怪の危険性を政府に改めて認識させ、その対向組織であるヘキサの権限を増大させる。
その目的は奇しくも、計画に横槍を入れてきた老婆のおかげで、不動のモノとなった。
「単独で潜水艦を無力化しミサイルを撃墜、果ては大気圏外にも行ける戦略兵器――そんなモノの保有は、諸外国も認める訳がないからな」
老婆の行動は全て偵察衛星で撮られており、日本国籍を有している事も掴んでいる。
その証拠を突き付け、老婆を抹殺するよう強要すれば、日本の退魔師は壊滅的な打撃を受けるだろう。
「ふっ、南の犯罪者共も東の黄色い猿共も、死ねば我が合衆国の利益となる事は変わりないからな」
妄想に浸るヘキサの長官は、傲慢ゆえに現実を知らない。
日本の退魔師を束ねる長は、理不尽にも頷いて耐えるような大和撫子ではなく、自国や愛する息子に害をなすなら、他国の長官だろうが何だろうが、平然と串刺しにする鬼子母神の類である事を。
さらにもう一つ、彼は侮りすぎて気付かない。
どれほど強力な権力を有し、武装した特殊部隊を顎で使い、難攻不落の要塞に立てこもっていようと、彼自身はただの人間にすぎない事。
そして、妖怪という非科学存在には、常識が通用しないという当然の事実を。
「ん、何だ?」
電話からコール音が響いてきて、ミカエルは無造作に受話器を取る。
部下の声を予想していた彼の鼓膜に響いてきたのは、聞いた事のない可愛らしい、だが無機質で不安を呼び起こす少女の声だった。
『動くな、なの』
その宣言と同時に、ミカエルの首筋に何か鋭利な物が押し当てられる。
気が付けば、何時の間にか背後に何者かの気配があった。
「だ。誰だっ!!?」
ミカエルは身動きを封じられたまま、恐怖の混じった驚愕を上げる。
部屋の出入り口は正面にある扉だけで、開く時は必ずブザーが鳴るし、通風口も人が通れるようなサイズではない。
中に居た彼に気付かれず入室するなど、絶対に不可能なのだ。
常識に縛られた人間ならば、の話だが。
『動くな、と言ってるの』
電話口の声はそう繰り返し、ほんの僅か手を前に出す。
首筋に走った鋭利な痛みに、ミカエルは大人しく口を噤むしかない。
『勝手に喋っても刺すの、無視しても刺すの。《はい》か《いいえ》で返事する、分かったの?』
「……はい」
小娘の言いなりにされて、ミカエルは屈辱で真っ赤になりながらも、命を握られているため大人しく答える。
それを聞いて、電話口の相手はまるで何かを読むように、平淡な声で喋り続けた。
『悪い事をした妖怪を捕まえるのは当然なの。悪い事をしないか監視したりするのも仕方ないの。けれど、何もしてない妖怪を捕まえたり、あまつさえ殺したりするのは許さないの』
「…………」
『返事はどうしたの?』
「は、はいっ!」
戯れ言と聞き流そうとしたミカエルは、再び首に痛みが走り、反射的に答えてしまう。
だが、電話口の声はその言葉をまるで信用しない。
『もし、また罪のない妖怪を殺したら、お前を殺すの』
「……っ」
『出来る訳がない、そう思ってるの?』
声を飲むヘキサの長官に、電話口の声は優しく告げる。
『お前が食事をしている時も、トイレに入っている時も、道を歩いている時も、仕事をしている時も、ベッドで寝ている時も、何時でも何処に居ようとも、私はお前の背後に立てるの』
それが脅しでない事は、この長官室に現れた時点で証明されている。
『お前が妖怪を手にかけたら殺すの、人にやらせても殺すの、見捨てても殺すの、迫害しても殺すの。ありとあらゆる事で、不当に妖怪を苦しめたと分かったら、その瞬間に殺すの』
「……っ」
『返事はどうしたの?』
唇を噛み締め黙るミカエルの首に、再び鋭い痛みが走る。
だが、彼はここにきて最後の足掻きを見せた。
「わ、私を殺した所で何も変わりはしない! どう足掻こうと、貴様ら化け物は我ら人類の敵、滅ぼされるべき邪悪なのだ!」
そう叫んだ瞬間、首ではなく後頭部に衝撃が走った。
平手で叩かれたと気付いた瞬間には、机に突っ伏していたミカエルの首に鋭利な物を突き付けながら、背後に立つ何者かは初めて声に感情を滲ませた。
『勝手に決めつけないで欲しいの! 誰も彼もお前みたいな、自分勝手で思いやりのない奴じゃないの!』
自分と大切な人の関係を侮辱されたようで、思わず台本も忘れて叫んだ。
そんな風に怒りを顕わにした後、電話口の声は深呼吸してから、平淡な声に戻って告げる。
『お前で駄目ならその次を、その次も駄目なら次の次を、いくらでも殺してアメリカに分からせてやるだけなの』
神出鬼没の暗殺者にとって、それは容易い事に違いない。
『それでも妖怪を殺すというなら、好きにすればいいの。で、罪のない妖怪にもう悪い事はしないと誓うの?』
これが最後の問いと、手に力の入る気配が後ろから伝わってくる。
それを感じ取り、ミカエルは混乱する頭で考え込む。
嘘を吐いてこの場を逃れた所で、背後の人物は暫く自分を監視し、その真偽を確認するだろうから意味がない。
防諜の観点から、この長官室に限っては監視カメラも付いておらず、通話の記録も取られないため、時間を稼いでも――
『言い忘れていたけど、私の正体を探ろうとしても殺すの』
「――っ!?」
考えを読まれ、ミカエルは机に突っ伏したまま背を震わせる。
いくら考えた所で、この暗殺者から逃れる術はなく、答えは二つしかない。
屈服して生き延びるか、逆らって殺されるか。
己の身を犠牲にしても、神の摂理に逆らう怪異を滅ぼす事こと至上の目的。
真の狂信者であれば、迷わずそう答えていた事だろう。
だが、このミカエル・アンダーソンという男は、神の教えを信じてはいたが、愛していたのは神そのモノではなく、神の名の下に集まってくる力でしかなかった。
端的に言うと、彼は己の権力と財産を愛する、利己的で何処にでも居る普通の人間にすぎなかったのだ。
「……誓う」
『何をなの?』
「もう怪物共を不当に殺さないと誓う! だから……」
殺さないでくれ――という懇願は、恥辱と共に喉の奥へと呑み込まれた。
それを見て、電話口から嬉しそうな笑みがこぼれる。
『うふふっ、よく分かったの』
「そ、そうか、ならば早く――」
『でも、私はこうも言ったの』
声と共に、首に当てられていた鋭い凶器が離れ、ゆっくりと振りかぶられる。
『《はい》と《いいえ》以外、喋るなって』
「ひっ、待――」
理不尽な声の主は、当然ながら命乞いなど聞かず、容赦なく腕を振り下ろした。
「ぎゃあああぁぁぁ―――っ!」
首筋を襲った衝撃に、ミカエルは絶叫して椅子から転げ落ちる。
死んだ、死んだ、死んだ、死んだ。
一つの単語で頭は埋め尽くされ、首もとを押さえてのたうち続ける。
だが、何時まで待っても死神の足音は聞こえてこず、首の痛みも薄れていった。
「はぁはぁ……死んで、いない?」
荒い呼吸を吐いて起き上がったミカエルは、ようやくその事実に気付く。
首は凶器で刺されたのではなく、平手で叩かれただけだったのだ。
「あぁ……ぐうぅ……っ!」
生きていた事に安堵し、生き恥を晒した事実に絶望し、ミカエルは顔を歪め高価なカーペットを掻きむしる。
その部屋から電話の相手は既に消えており、退魔総省の長官だった男の呻き声と、外から扉をノックする音だけが響き続けていた。
◇
首都のワシントンより有名とさえ言える、アメリカ合衆国最大の都市、ニューヨーク。、
そこで最も高い人工建築物である、エンパイア・ステート・ビルの頂上に立ち、ターボ婆ちゃんはニューヨークの眠らぬ夜景を眺めていた。
「綺麗だね……」
ビルと道路で埋め尽くされた緑の見えぬ大地、排気ガスで濁った空気、星の輝きを掻き消すケバケバしいネオン。
科学という人の力で、大自然を征服し尽くした光景。
それは傲慢で醜く、だからこそ力強く輝きを放つ。
「まぁ、日本が負けるのも仕方ないさね」
欲望は抑えるモノと教え込まれ、己を殺す日本人。
対して、欲望は叶えるモノとし、己を貫くアメリカ人。
どちらが強いかなど、一目瞭然だった。
「謙虚なお人好しってのも、アタイは好きなんだけどね……」
儚い弱者に美を感じるのは、敗者のナルシズムにすぎないのか。
そんな事を考えていると、白装束の袂から着信音が響いてくる。
「やあ嬢ちゃん、終わったかい」
『私、メリーさん。終わっ――てここ何処なの!?』
電話と同時に瞬間移動してきたメリーさんは、足場のない細い高層ビルの頂点に驚き、慌ててターボ婆ちゃんの背中にしがみつく。
老婆は左手でそのお尻を支えてやりながら、もう一度首尾を問うた。
「で、ヘキサの長官とやらは懲らしめられたかい?」
『うん、ちゃんとお婆ちゃんの言う通りにしてきたの』
メリーさんはそう言い、預かっていた写真と鉛筆、そしてメモ用紙をターボ婆ちゃんの前に差し出す。
写真に写っているのは、事件の首謀者であるミカエル・アンダーソン。
雫奈に頼んで用意して貰った物で、それを見て位置を把握したメリーさんが、瞬間移動でその背後を取り、鉛筆を凶器と思わせ動きを封じ、ターボ婆ちゃんの書いた文章を読み上げたのが先程の脅迫劇。
『和樹に教えて貰った方法も混ぜて、うんと脅してやったの!』
「……あの坊主は、嬢ちゃんに何を教えてるんだい」
女の子と見紛う可愛らしい外見に反し、意外と鬼畜な少年の顔が過ぎり、ターボ婆ちゃんは溜息を吐いてから礼を告げる。
「ありがとうよ、嬢ちゃん。これで少しは、アメリカに住む妖怪の暮らしが良くなると思うさね」
『私、メリーさん。本当にあれだけで大丈夫なの?』
老婆を疑う訳ではないが、電話口の少女は不安を漏らす。
散々脅しはしたものの、メリーさんが本当にあの長官を殺す事はない。
そんな事をすれば、彼女の一番大切な人が悲しむから。
だから、あの脅迫に実行力はなく、それを悟られる可能性は低くない。
『あのオジさん、凄く嫌な感じだったから、また悪い事をしそうなの』
喉元過ぎれば熱さを忘れる。性根の悪さはそうそう直るものではなく、ちょっと脅された程度で改心する輩とも思えない。
そう訴えると、ターボ婆ちゃんは静かに首を振った。
「心配ないさ、あの黒幕ぶった奴はどうせ、退魔総省のトップから外されるだろうからね」
『そうなのっ!?』
「あぁ、アタイの読みが確かならね」
自信満々の笑みを浮かべて言い切るが、その詳細をメリーさんに説明しようとはしない。
それは、幼い少女には毒でしかない、権謀術数に満ちた汚い大人の世界だから。
(アメリカ政府も馬鹿じゃない。ヘキサの長官がやろうとしていた事は、全部把握していたはずさね)
そして、愛国心を盾に取り、自己の利益とエゴを満たすために暴走するミカエル・アンダーソンを、疎ましく思っていた事だろう。
(だから、奴の好きにさせておいて、それを罪状として失脚させる)
それこそが、事件を真に演出していたアメリカ政府の狙い。
(実際、アメリカの不利益になる事しかしてないしね)
最新鋭の原子力潜水艦ミシシッピ、その位置を危険なテロリストにリークして奪わせた。
テロリストに奪われたとはいえ、アメリカの軍艦が核ミサイルを日本に向けたのは事実であり、妖怪絡みだから表沙汰にならないとはいえ、日本政府に何らかの形で賠償をする必要があるだろう。
また、民主主義と敵対する共産主義であり、キリスト教とイスラム教と、宗教的にも不仲なインドネシアに、資金とロケット技術を横流ししたのも、ハッキリとした売国行為。
さらに、合衆国のためと思い込んでいた、南アメリカ諸国への高々度核攻撃も、仮に成功すればアメリカに害をなしただろう。
混乱の末に内乱などが勃発すれば、戦争で行き場を失った大量の難民が、近く平和なアメリカに雪崩れ込む。
今でさえ不法移民問題で頭を抱えるアメリカが、治安の悪化や財政の圧迫をもたらす大規模の難民を、どう受け入れろと言うのか。
見殺しにすれば諸外国や人権派から大きな非難を浴び、現政権の信用は失墜する。
派兵して占領、属国化なんて真似をすれば、東側諸国を刺激して、それこそ何が起こるか分からない。
冷静に見て、ミカエルの行おうとしていた事は全て妄想、裏目にしか出ない。
(長官だけじゃなく、退魔総省という組織そのものや、その支援者である保守派、キリスト教原理主義者なんて奴らも、一斉にしょっ引くつもりだろうね)
ミカエル一人で実行出来る事件ではなく、実際に大勢の協力者が居たのだろう。
それらを引きずり下ろすために、あえて暴走を許した茶番劇。
アメリカ政府内での権力争い、陰謀渦巻くパワーゲーム。
それが、多数の妖怪を犠牲にした、この事件の真相。
「やりきれないね……」
『どうかしたの?』
「いや、アタイが首を突っ込む必要はなかったかな、と思ってね」
呟きをメリーさんに聞き取られてしまい、ターボ婆ちゃんは自嘲するように誤魔化した。
しかし、その言葉もでまかせではない。
高々度での核爆発が成功していれば、アメリカ合衆国に多大な被害をもたらした事は疑いない。
であれば、それを阻止するために、なんらかの手段が用意されていたはずなのだ。
(故障に見せかけて不発させる――というのが一番自然だが、実際に爆発しちまったからね。軍事衛星のレーザー兵器で撃ち落とすとか、そんな所かい?)
真の黒幕をアメリカ政府とするなら、その程度は造作もなく用意していた事だろう。
つまり、ターボ婆ちゃんが何をせずとも、核爆発は阻止されていたのだ。
「やれやれ、婆が余計なお節介をやくものじゃないさね」
溜息を吐く妖怪の老婆は、己の成した事を知らない。
彼女が原子力潜水艦ミシシッピに攻撃を仕掛けねば、それは浮上する事なく魚雷で沈められ、乗員百三十名の命が吸血鬼と共に散っていた事。
アメリカ政府の手でロケットが撃ち落とされていた場合、退魔総省とその支援者達は政府の意図に勘付き、素早く対抗手段を整えてしまい、妖怪の抹殺を目論む者達から力を奪いきれなかっただろう事。
そして、絶望のまま死を向かえようとしていた、名も知らぬ男の心を救っていた事を。
「さて、そろそろ帰ろうかね」
これ以上あれこれ悩んでいても、気が滅入るだけだと悟り、ターボ婆ちゃんはエンパイア・ステート・ビルの頂上から足を踏み出す。
その背中で、メリーさんは楽しそうに歓声を上げた。
『目指せ、西海岸はカリフォルニアなの!』
「ネズミの王国に行きたいのかい? この時間じゃ閉まっていると思うがね」
『私、メリーさん。守衛さんの顔でも覚えておけば、次は一瞬で行けるから大丈夫なの!』
「全く、羨ましい能力さね」
ちゃっかり者のメリーさんに微笑しながら、ターボ婆ちゃんはニューヨークの夜空を走り出す。
(アタイは何時になったら、あの人の背中をもう一度目に出来るんだろうね)
既に妖怪を超えようとしている彼女にとって、それは遠くない出来事だと、訳もなく予感を抱く。
だがその時こそ、背負った少女達との別れが来るという、言いようのない不安も湧いていた。
(まぁ、諦める気はないさね)
運命を覆し、死んだ者を救おうという願い。
妖怪として転生してから得た、親しい者達との穏やかな日々。
その全てを掴んで放さない、強く真っ直ぐな欲望こそが、この枯れ細った両足に力を与え、今までもこれからも走り続けるのだから。
「アタイも大概、ワガママな女さね」
『私、メリーさん。ワガママは女の子の特権なの』
「あははっ、違いない」
ターボ婆ちゃんは愉快に笑い声を上げ、同時に妖力で特殊なフィールドを発生させる。
それで背中の少女を保護しながら、雲の上へと突き抜けた。
「さあ行くよ、嬢ちゃん!」
『レッツらゴーなの!』
メリーさんの声援に応じ、ターボ婆ちゃんは超音速へと加速する。
東から西へ疾走する、紫色に輝く流星。
それは太陽よりも熱く速く、夜の闇を切り裂いていくのだった。