【第三幕 無情の宇宙】
「――リーダー、おい、リーダーッ!」
部下の呼ぶ声が響いてきて、汚いベッドに横たわっていた男は静かに目蓋を開けた。
「うるさい、少し声を抑えろ」
「ひっ、悪かったよ……」
幸せで残酷な夢から起こされて、男が不機嫌な低い声を出すと、貧相な顔をした部下は悲鳴を上げて背を震わせる。
「それでどうした、もう目的地に着いたのか?」
情けない姿に呆れながら促すと、部下はまた耳障りな大声を出し訴えた。
「違う。あのクジラがまだ追ってくるから、追い払って欲しいんだ!」
そう言った瞬間、部屋が――船の一室が激しく揺れる。
「このままじゃせっかく奪った物ごと、俺達まで海の底に沈められちまう!」
「ふっ、心配しすぎた」
男は馬鹿馬鹿しいと鼻で笑いつつ、臆病な部下を安心させるためにも立ち上がった。
船室から外に出ると、眩しい太陽の光が降り注いでくる。
思わず目を細める彼の前で、海面が大きく盛り上がり弾け飛ぶ。
「よお、調子良さそうだな」
船と同じく全長三十mはある、巨大なシロナガスクジラに、男は親しげに話しかける。
その言葉が分かるのか、クジラは頭頂にある鼻孔から、挨拶とばかりに潮を吹き上げた。
「あ、遊んでないで早く追い払ってくれよ!」
後を追ってきた部下が、潮でびしょ濡れになって文句を言うのに、男は僅かに顔をしかめる。
「潜水艦まで俺達を案内し、物まで運んでくれた恩人に随分な言い草だな」
「そ、そう怒らないでくれよリーダー、俺はあんたと違って海が苦手なんだよ」
「ドブネズミは泳ぎが得意いなはずだろう? どれ、俺が教えてやるよ」
「ひっ、勘弁してくれ!」
脅すと臆病な部下――人鼠は震え上がり、そそくさと船内へ戻ってしまう。
(両親を殺された恨みと言っていたが、この程度か……)
妖怪であるために迫害を受け、人間を憎む事から同志となった者といっても、覚悟の量が違うのだろう。
まだ恐怖を抱いている――生に執着している部下に、男は深い失望と僅かな羨望を抱きながら、クジラの大きな瞳を見詰めた。
「俺も、お前達みたく単純に生きられたら良かったのかな?」
「ピイィーッ!」
男の問いを理解しているのかどうか、クジラはただ笛のように鳴いて応え、首を振って彼を誘った。
「分かったよ、最後のお礼に少しだけ遊ぼう」
ひどく優しい声でそう言うと、男は服を脱いで海に飛び込む。
その体はたちまち鱗で覆われ、手足に大きな水掻きが生まれて、クジラや船にも負けぬ速度で泳ぎ出す。
魚人――エラ呼吸で長時間の潜水が出来るだけでなく、海洋生物と意思疎通し操る事が出来る妖怪。
その力で犯罪者となり、そして復讐者となった男も、今だけは暗い感情を胸の奥に追いやり、母なる海を思いのままに泳ぎ続けた。
◇
手足の怪我と限界を超えた疲労から、深く寝込んだターボ婆ちゃんが目覚めたのは、ヘリコプターで救出されてから丸一日以上が経った深夜の事だった。
退魔庁の医務室だろうか、白いベッドから身を起こしていると、タイミングよく雫奈が現れる。
「目が覚めましたね、体の方はどうですか?」
「大丈夫だよ、心配かけて悪かったね」
ターボ婆ちゃんは頷き、包帯の巻かれた右肘と左足を元気に動かして見せる。
まだ微かに痛んだが、明日の朝にはそれも消えている事だろう。
「異常な回復力ですね、妖怪にしても滅茶苦茶ですよ」
「そこらの奴らとは気合が違うのさね」
雫奈は呆れながらコンビニのオニギリを取り出し、ターボ婆ちゃんはありがたくそれ受け取る。
良く噛んで食べ、胃を落ち着かせてから、老婆は静かに切り出した。
「で、アタイが寝る前に頼んでいた事、ちゃんと聞いといてくれたのかい?」
「……はい」
雫奈は問いに頷き返すが、その顔は暗く曇る。
「潜水艦ミシシッピを奪還したアメリカ政府は、こちらの問いに『核ミサイルが奪われた事実はない』と回答しました」
「まぁ、そう言うしかないだろうね」
予想通りの、そして虚偽であろう答えを聞いて、ターボ婆ちゃんは落胆もせずに肩を竦めた。
「犯人達の目的は、核ミサイルで脅して金を巻き上げる事ではなく、核ミサイルそのものを奪う事だった。これは間違いないんだよ」
疲労で昏倒する前に、雫奈に伝えておいた推測。
それはあらゆる状況証拠からして、真実に違いないのだ。
「いくら核で脅したって、十兆円なんて手に入らない。そもそも、金が欲しけりゃ潜水艦を売り払えばいいのさね」
アメリカの最新鋭原子力潜水艦ともなれば、各国はいくらでも大金を詰んでくれるだろう。
勿論、知られればアメリカを敵に回すし、表だって使える訳もないが、解析して得られる技術を思えば、十兆はともかく一千億円くらいなら惜しむまい。
「そして、日本に核を打つのが目的だったなら、メッセージなんて送らず最初から奇襲をかけているさね」
そうすれば、迎撃する暇もなく日本は核の炎で焼かれ、人類至上最大のテロ行為として、世界中に激震が走った事だろう。
だが、現実にはそうならず、最後に放ったハープン巡航ミサイルが通常の弾頭だった事から考えても、犯人は日本に核ミサイルを打つ気がなかったとしか思えない。
「金に興味はなく、日本への攻撃も方便だった。なのに、潜水艦を奪わなきゃならない理由はなんだい?」
潜水艦そのものは、ターボ婆ちゃんの奇襲という予期せぬ事態があったとはいえ、ああも容易く奪還を許した。
ならば、潜水艦ではなくその荷物――核ミサイルこそが目的だったと考えるのが妥当だ。
「日本に脅迫してきたのは、核を移した船か何かが逃げ切るまで、アタイ達の目を引きつけておくための囮だった。そう考えれば全ての辻褄が合うさね」
トマホーク巡航ミサイルの重量は約一・二tだが、弾頭だけなら五百㎏程度。
小さなクレーンの付いた船でも用意すれば、潜水艦から移す事はそう難しくはない。
「そもそも、あいつは最後に『俺様達の目的は、核をロケットで打つ事だ』と言ったんだよ。ならば核を手放すはずがないのさ」
防衛庁が捕まえたものの自害されたハッカーのように、潜水艦を占拠した吸血鬼には、他にも仲間が居たはずなのだ。
そいつらが核弾頭を手に、今も何かを企んでいないと誰が言えるのか。
「でも、アメリカが核を奪われていないと言った以上、日本はもう動けないんだね?」
「はい、事件は終わったものとして処理されています」
退魔庁の方へも解散命令が出ており、事後処理の担当となった数名を除いて、通常業務に戻るよう言われしまった。
手を出す事を許されず、勝手に恐怖をあおり、そして多大な不安を残して。
悔しそうに唇を噛む雫奈を見て、ターボ婆ちゃんは優しく肩を叩きながらベッドからおりる。
「宮仕えの辛い所だね。安心しな、決着はアタイが付けてやるさね」
「でも、これ以上関わったりしたら、お婆さんの身が危ないですよ!」
雫奈は悲痛な叫びを上げ、医務室から出て行こうとする老婆の手を掴み止めた。
ターボ婆ちゃんが単独で潜水艦を見つけ出し、ミサイル発射管を破壊した事は、公式にはなかった事にされている。
目撃者があの吸血鬼しかおらず、それも灰となって滅びた今、彼女の仕業という証拠がないからだ。
ミシシッピの艦首に刻まれたへこみは消せないが、だからと言って、音速を超える老婆の妖怪が行ったものだとは誰も思うまい。
だから、老婆の驚くべき活躍を知っているのは、雫奈や退魔庁の長官など、片手の指にも満たない。
しかし、それが諸外国に知られたら、とてつもない事態を招いてしまう。
「たった一人で原子力潜水艦を落とせる妖怪――それはもう、立派な戦略兵器ですよ」
世界の各国は表向き、戦争を含む国と国のやり取りに、怪異の力を利用しないようにと定め、それは今まで守られてきた。
協定を破り、裏で利用していた国がないとは言えないが、それでも大きな問題にならなかったのは、国や戦争の状況を一変させるほど、強力な妖怪などそう居ないからだ。
そして、ターボ婆ちゃんの力量は既に、見逃される範囲から逸脱してしまっている。
「吸血鬼の真祖や九尾の狐みたいに、存在するだけで、ただ強すぎるという理由だけで、抹殺対象にされてしまっているんです」
それがどんなに温厚な性格で、害意がなかろうと関係ない。
ただ、国を傾けるほどの力が有る――危険性が存在するというだけで、権力者達は己を脅かす巨大な個人を許さない。
「私が子供の頃にも、似たような理由で始祖の淫魔が退治されたそうです」
あらゆる者を魅了し、恋の奴隷とするその妖怪は、権力者達を籠絡する事で、法律を何一つ犯す事なく、愛のみで世界を滅ぼせる傾国の女。
それを自国に送り込まれる事を恐れた各国の圧力もあって、日本は妖怪の人権を尊重する地でありながら、その淫魔を倒すために次々と退魔師を派遣し、天才と呼ばれたある男を一人で死地に送り出す事となる。
それが、ある少年の運命を大きく狂わせる事になったのだが、それはまた別の物語。
「お婆さんも、今回の事が知られてしまったら、抹殺対象に指定されてしまいますよ!」
雫奈や退魔庁の長官は、ターボ婆ちゃんの事を口外する気などない。
上からの命令で動けなかった自分達の代わりに、一人で日本を救ってくれようとした老婆の気持ちが、心の底から嬉しかったからだ。
けれど、諸外国に知られて政治的な圧力をかけられた時、庇い立て出来るような権力はないのだ。
「だから、このまま大人しくしていて下さい。もう、お婆さんが動く理由だって無いでしょう?」
本当に核ミサイルが持ち出されたとしても、その探索はアメリカが行っている事だろう。
仮にそれが間に合わず、テロリストの手で核が使われたとしても、潜水艦から打たれなかった事を考えれば、日本が狙われる可能性は限りなく低い。
だから、ターボ婆ちゃんが出しゃばる必要性はない。けれど――
「日本人じゃなくたって、見ず知らずの外国人だって、核兵器で誰かが殺されるかもしれないなら、アタイは黙って見ちゃいられないんだよ」
自分を破滅に追いやるだけの余計な真似だとしても、己の信念を貫くために、ターボ婆ちゃんは引き留めようとする雫奈の手を振りほどく。
「どのみち、アタイは近い内に宇宙へ上がる予定だったからね。危険だって言うなら、そんときゃ太陽系の外へおさらばするだけさ」
宇宙の果てを見るという約束、そして光速を超えるという目的のために、老婆はいずれにせよ、この地球を去る運命だったのだ。
「だから出発の時、今回の件が未解決だと気持ち悪いからね。ちょいと野次馬根性で出しゃばりたいだけさね」
「何で、貴方はそんなに……」
どこまでも強く真っ直ぐな老婆の姿に、雫奈の目には涙が浮かぶ。
けれど、泣いても相手を困らせるだけだから、袖で擦って拭き取り、赤い目のまま顔を上げた。
「分かりました、もう止めません。けれど、お手伝いくらいはさせて下さい」
「あぁ、大歓迎さね」
ターボ婆ちゃんは笑って頷き、雫奈を連れて廊下へと飛び出した。
深夜であり、大きな事件が終了した直後という事もあって、ガランと人の居なくなった退魔庁のオフィスに、小さくパソコンの光が灯る。
「それで、何を調べればいいんですか?」
準備は万端とキーボードに向かった雫奈に、ターボ婆ちゃんは難しい顔をしながらも呟く。
「世界中にある宇宙研究所について調べてくれるかい」
「えっ、奪われた核ミサイルを探すんじゃないんですか?」
「だから、そのために必要なのさ」
何故か分からず首を傾げる雫奈に、ターボ婆ちゃんは再び吸血鬼の残した台詞を告げる。
「俺様達の目的は、核をロケットで打つ事だ――その言い方が、ずっと引っ掛かっていたんだよ」
「何がですか?」
「『核ミサイル』ではなく、『核をロケットで』と言った事さね」
「あっ……」
指摘されて、雫奈もようやくその違和感に気付く。
固体燃料や液体燃料を爆発させ、ガスを噴射して推進する飛行物体がロケット。
それに誘導装置を加えた物がミサイルであるから、核ミサイルを核ロケットと呼んでも間違いではない。
「けれどあの時、あいつはこうも言ったのさ。『これから言う事は一言一句の間違いもなく、全て真実なんだぜ?』ってね。ならば、わざわざロケットと言った事には意味があるはずなんだよ」
それを考え続けた末に閃いたのが、本来兵器ではないもう一つのロケット。
「宇宙ロケット、そいつに核兵器を詰んで打つ気なのさ」
「宇宙で核を、ですか?」
「そう、電磁パルスを撒き散らし、電子機器を破壊する兵器としてね」
高々度での核爆発――それは熱で人を焼く事も、放射能で大地を汚染する事もない、非致死性の広域兵器。
一見クリーンに見えるそれは、時に地上で打つ時よりも甚大な被害をもたらす。
電子機器が破壊されれば、直接人は傷付かなくとも、間接的に大量の死傷者が出る。
信号機の停止により交通事故が起き、病院の生命維持装置は止まり、混乱に乗して強盗や火災が生じても、電話が使えなくなっているため、警察や消防署に素早く連絡する手段がない。
勿論、パソコンは使えず仕事にならず、株式市場などは多大な被害を受け、銀行の顧客データが破壊されたら、預金を下ろす事すら出来なくなる。
それが数百㎞から千㎞、日本全土を巻き込むほどの規模で起こるのだ。
経済的なダメージも最終的な死傷者も、地表で打たれた時よりも甚大になる可能性がある。
「なのに放射能では汚染されない。だから、土地や資源を求めた他国が、混乱に乗じて軍事介入してくる可能性すらある。そうなったらもう終わりさね」
軍事基地や政府施設などは、そういった事態に備えて対策を整えているから、電磁パルスで機器が全滅する事はないだろう。
だが、民衆が大混乱に陥っていて、その救助や復興支援も行わなければならない時に、外からの攻撃まで受けてはひとたまりもない。
「まさか、そんな事を……っ!?」
「しない、という保証はないのさね」
世界最強のアメリカ軍から、原子力潜水艦を奪おうなんて企む時点で正気ではないのだ。
最悪の事態を想定し、ターボ婆ちゃんは雫奈に指示を出す。
「潜水艦の行方が途絶えた位置は分かるかい?」
「その情報は入ってます、日本とパプアニューギニアの間です」
「よし、そこから三、四日で行ける範囲に、宇宙までロケットを飛ばせるような施設はあるかい?」
「飛行機を使っちゃうと、何処にでも行けますけど?」
「いや、飛行機じゃ目立ちすぎるから、船かせいぜいヘリしか使ってないと思うさね」
「待って下さい。えーと、種子島宇宙センターはないとして、中国に四カ所、台湾やマレーシアにも一カ所……」
ロケット打ち上げ基地ほど巨大な物となると、そうそう隠せるものでもないので簡単に検索出来るが、候補を絞ってからがまた難関だ。
「脅迫メッセージを送ってきた時、三日後の午前十時。明日――じゃなくてもう今日だね、その朝が期限だと言っていた。つまり、そこまで時間を稼げば十分、核を詰んだロケットは発射されているとみるべきさね」
その読みが正しければ、あと十時間もしない内にロケットは宇宙へ旅立つ。
「車や飛行機じゃあるまいし、ロケットなんて今日明日でホイホイと飛ばせやしないだろう? もう発射予定が立てられているはずさ。それを探しておくれ」
「はい。防衛庁の知り合いに頼んで、宇宙航空研究所の方に情報が来てないか調べて貰います」
雫奈は電話に手を伸ばし、深夜である事も構わず知人を呼び出す。
そうして用件を伝えてからは、ひたすら待つ時間が続いた。
秒針の動きが何倍にも感じられ、焦れて足踏みしながら二人は受話器を凝視する。
「発射予定のロケットがなかったら、どうするんですか?」
「アタイの勘が外れて、宇宙で核兵器を打たれる危険はない。むしろ大歓迎さね」
奪われた核兵器の行き先は分からなくなるが、それはアメリカの捜査に任せるか、今は寝込んでいるサトル君が回復してから、ゆっくり見つけ出せばいい。
そんな淡い期待は、空が白み始めてきた頃に、うるさいほどの着信音で打ち破られた。
「はい、氷川です……もう、遅いわよ! えっ、公表されていなかったから確認が遅れた? そ、それは何処なの!?」
電話に出た雫奈は、固唾を呑んで知人の声に耳を傾け、その名を聞いて目を見開く。
「ありがとう、今度お酒奢るから」
礼を告げ受話器を置くと、固い表情でターボ婆ちゃんに今の話を伝える。
「インドネシアの国立航空宇宙研究所が、実験用の新型ロケットを発射するそうです」
将来、人工衛星を打ち上げるためのデータ収集という話だが、あまりにもタイミングが良すぎる。
そしてもう一点、無視できぬ要因が存在した。
「最初から考えておくべきだったさね」
「何をですか?」
「アメリカの潜水艦を襲った事をさ」
雫奈の問いに答えながら、ターボ婆ちゃんはワラジの紐を結び直す。
「核兵器が欲しいだけなら、そんな危ない橋を渡る必要はない。もっと簡単な手があるだろう?」
旧ソ連の崩壊と共に行方不明となった物や、中東が隠し持つ物。
それらを買うなり奪うなりした方が、アメリカの最新鋭潜水艦を襲うよりは容易いだろうに。
「アメリカの作った核兵器、それに拘りたかったんだろうね。正直、少し気持ちは分かるよ」
「だから、何がですか?」
焦れて再び問う雫奈に、ターボ婆ちゃんは何とも言えぬ笑みを浮かべて答える。
「アメリカの核で、アメリカを滅ぼしたかった。そういう事さね」
「――っ!?」
テロリスト達の狙いは超大国、アメリカ合衆国。
それは驚きをもたらしたが、酷く納得のいく答えだった。何故なら――
「インドネシアは九割がイスラム教徒だからね、アメリカ嫌いな奴が協力したとしても不思議はないさ」
キリスト教圏とイスラム教圏の亀裂を決定的とした、9・11アメリカ同時多発テロ。
テロ自体は罪なき人々の命を奪ったとして、インドネシアでも非難されている。
だからと言って、その報復としてより大勢の市民を巻き添えにしたアフガニスタンへの空爆は、決して許せるはずがない。
「インドネシア側と妖怪のテロリスト、どちらが首謀者かは知らないが、アメリカ憎しって点で手を結んだんだろうね」
そうでもなければ、莫大な資金がかかる宇宙ロケットに、頼まれようが脅されようが、わざわざ核兵器など詰みはしない。
平淡な声でそう語るターボ婆ちゃんを見て、雫奈の額には冷たい汗が浮かぶ。
「ロケット、止めるんですよね?」
「当たり前さね」
否定されるかと思った問いに、迷いのない鋭い答えが返る。
「正直に言うよ。アタイはアメリカって国が大嫌いだ、憎んでいると言ってもいい」
もう六十年以上前の大戦で、家族や友人を、そして愛する人を奪った国を許せるなら、彼女は死んで幽霊となって彷徨う事も、その果てに妖怪と成る事もなかった。
「けどね、そんな憎しみはアタイら爺婆の問題だ。嬢ちゃんみたいな若い子達には関係ない」
戦争の悲惨さを忘れてはならない。その言葉は正しい。
だが、戦争の憎しみは忘れ去らねばならないのだ。
「憎み憎まれ、殺し殺されなんて馬鹿な真似をするのは、先の短い老人だけで十分さね。子供や孫達に伝えちゃいけないのさ」
だからこそ、老婆は行く。
例え、己の大切な者達を焼いた国だろうと、そこに生きる子供達の未来を閉ざさぬために。
「行ってらっしゃい、お婆さん!」
「おう、任せてときな!」
雫奈の応援を背に、ターボ婆ちゃんは窓から飛び出し、白む暁の空を駆けていった。
◇
ジャワ島西部のパメウンプクにあるロケット発射所。
そこで今、インドネシア国立航空宇宙研究所の開発した新型ロケット・RX―510は、発射の準備を終えようとしていた。
管制室で最終チェックを行う所員達を、固い表情で眺めていた老人――最高責任者である所長は、ふと部屋を出て人気のない所まで来ると、ポケットの中から小型通信機を取り出す。
「調子はどうかね」
『あぁ、最高だよ』
とても高揚しながら奥底では冷え切った、そんな男の声が通信機から返ってくる。
その人物と、彼が持ち込んだ核兵器がロケットに詰まれている事を、管制室の所員達は知らない。
全ては所長と、政府のとある高官が決めた事だ。
データ採取用の模擬衛星が入っているものと信じ、純粋にインドネシアの宇宙技術発展に心を躍らせる所員達を思い、所長は僅かに胸を痛めながら通信機に語りかける。
「しかし、本当に良かったのかね?」
『何がだ?』
「君が――宇宙に行く必要はなかっただろう?」
声が一度詰まったのは、『死ぬ必要は』という直接的な表現を呑み込んだため。
そう、所長と政府高官のもたらした計画に応じ、見事アメリカの原潜から核弾頭を奪ってきたこの人間ではない男は、ロケットで宇宙へ赴きそこで死ぬ。
仮に積み込んだ核弾頭が爆発しなくとも、本来無人ロケットであるRX―510は、役目を終えたあと大気圏で燃え尽きるように設計されているため、どう足掻いても死は免れない。
それでも、この男は宇宙へ行く事を望んだ。
『宇宙服の人体実験が出来るんだ。少しくらい積載量が増えても文句はないだろう?』
「そういう事ではなく――」
『死ぬ前に一度くらい、宇宙から地球を見てみたかった。こっちの理由なら満足出来るか?』
「…………」
冗談半分だが、嘘とも言い切れない男の答えを聞いて、所長はもう言い返すのをやめた。
彼と出会った直後に、その目的と憎悪の源については聞かされている。
だから、復讐を遂げた後、何も残らず生きる意味がない事も知っていた。
それでも――と言いかけて、結局口を噤んだ所長の様子を誤解したのか、男は別の話題を口にする。
『自分の身が心配か? あんたは俺達に脅されてやったんだ、だから仕方なかった。そうだろう?』
「あぁ、分かっているさ」
全てが終わった後の言い訳は、既に用意されている。
「君の仲間が核兵器を盾に脅し、我々は仕方なく応じた」
『そう、あんたらは被害者、全て俺達が悪いのさ』
本当は協力者どころか立案者なのだが、男は所長を責める事もなく、愉快そうに笑った。
彼の仲間――臆病者だが広い情報網を持ち、ここまで導いてくれた人鼠【ワー・ラット】は、もう一つの核弾頭と共にインドネシアの何処かに居る。
ロケットを奪われた理由と、万が一裏切った時に報復を与えるために。
『分かっているなら御託はいい。あとは無事にロケットを打ち上げてくれ』
そう言って会話を打ち切ろうとした男に、所長は迷いながらも最後の問いを告げる。
「君の信仰している神は何だい?」
『はぁ?』
「望まぬ神の下に墓を建てられても、迷惑だろう?」
死に行く者への手向けとして、それは悪くない言葉であったのだろう。
けれど、復讐に生きた妖怪には、全くの見当違いでしかなかった。
『神、神かっ!? 人間でなければ殺していいと言う、あのクソったれの死体愛好者か!? あんな奴の所に送られるくらいなら、魂なんぞ宇宙の塵になった方が遥かにマシだっ!』
「……そうか、悪かったよ」
神への罵倒という本来なら許せぬ発言を、所長は受け流し素直に詫びた。
そうして、まるで相応しくないが、思い付いた中で一番まともな言葉を送る。
「では、よい旅を」
通信機を切る瞬間、満足そうな笑みが聞こえた気がして、それだけが唯一の救いだった。
◇
パメウンプクの南十㎞ほどの海上で、ターボ婆ちゃんはその時を静かに待っていた。
今直ぐにロケット発射所に乗り込まないのは、二つの理由からだった。
まず第一に、確実な証拠がない事。
様々な状況証拠から、潜水艦ミシシッピから核弾頭が奪われ、インドネシアのロケットで打ち上げられると推理したものの、この目でしかと確認した訳ではない。
何百億という大金を投じたロケットを、誤解の可能性が残ったまま蹴り倒す訳にはいかないのだ。
第二に、安全確保のためだ。
核兵器は複雑な爆弾であり、蹴り壊したからといって、簡単に誘爆するような代物でもない。
だが、燃料のウランやプルトニウムという放射性物質が漏れ出せば、このジャワ島が汚染されてしまうし、万が一にも爆発させる訳にはいかない。
だから、静かに打ち上げの時を待つ。
誰の目もなく、放射能の被害も出ない宇宙で、ロケットの中を確認してから破壊するために。
「……きたね」
目を閉じ海上に立ち尽くしていたターボ婆ちゃんは、地鳴りのような音を鼓膜に感じ、静かに目蓋を開けた。
細長いロケットが白い煙を吐き出し、最初はゆっくりと、そして一気に加速して、青い空のもっと先にある、漆黒の宇宙を目指し飛んでいく。
「さあ、勝負さね!」
地球の自転速度を利用するため、東の空へと斜めに飛んでいくロケットを追って、ターボ婆ちゃんは走り出す。
一歩一歩、宇宙へと走り上がる度に、大気という壁が薄くなり、重力という枷が外れていき、老婆の体はどんどん加速していく。
「ふふっ、あはははっ!」
何処までも速くなれそうな爽快感に、ターボ婆ちゃんも今だけは世界の危機を忘れ、心のままに笑い声をあげる。
そうして、地上数百㎞――大気圏と呼ばれる地点さえ突破し、もはや地上の目を意識する必要がなくなった所で、改めて前を行くロケットを見詰めた。
「さて、ここからが本番だが、その前に――」
ふと思い出し、背負っていた耐水ケースから携帯電話を取り出しある番号にかける。
衛星通信機能のおかげか、大気圏外でも問題なく電話は繋がり、少年の心配そうな声が響いてきた。
『――もしもし、生きてますか?』
「坊主かい、私なら大丈夫さね。宇宙はちょっと息苦しいけどね」
『今、宇宙に居るの!?』
素直に居場所を告げると、予想通り驚いた声が響いてきて、ターボ婆ちゃんは笑みを深める。
『ちょっと、それ本当に大丈夫なんですかっ!?』
「大丈夫、人間はね、気合いさえあれば死なないのさ」
『お婆ちゃんは妖怪でしょ!?』
『……妖怪だって、空気がないと死ぬ』
少年のツッコミに混じって、少女の小さな声が電話口から響いてきて、ターボ婆ちゃんは一瞬息を呑んだ。
(妖怪だって死ぬ、か……なら、アタイは何なんだろうね)
空気のない大気圏外で窒息もせず。あまつさえ平然と声を出し会話をしている。
それは、人知を超越した妖怪という存在から見ても、あまりに異質だった。
(まぁ、目的のために人間として成仏するのを止めて、妖怪にまでなったんだ。妖怪ですらなくなった所で、今更騒ぐ話でもないさね)
胸に湧いた不安を軽く蹴飛ばし、ターボ婆ちゃんは少年に現状を説明する。
「実はね坊主、あのミサイルに核は積まれていなかったのさね」
『本当ですか!? でもそうですよね、核ミサイルなんて重要な物が、そう簡単に盗まれる訳がない――』
「奴らの本当の狙いは、弾頭から外した核を大気圏外で爆発させ、強力な電磁波を世界中に撒き散らす事だったのさ。ミサイルを発射したのは、その作戦を実行するまでの時間稼ぎさね」
『本当に映画みたいな展開だよ!』
正確にはそれを今から確認するのだが、さも事実として告げると、鋭いツッコミが返ってくる。
それにまた笑い返し、ターボ婆ちゃんは話を続けた。
「電磁波は通信衛星や軍事衛星を破壊するだけじゃなく、地上の電子機器にも影響するさね。そうなったら、医療現場や交通機関で混乱が起こり、大量の死傷者を出してしまう事になるんだよ」
『どうでもいいけど、お婆ちゃんはどうしてそんなハイテクに詳しいんですか?』
「安心しな、アタイの足に賭けて、絶対にそんな事はさせないさね」
『足だけに、賭ける(駆ける)んですね?』
「今から、敵のロケットに特攻してくるよ……じゃあね坊主。あんたと会えて、楽しかったさね!」
『ちょっ、だからそれは死亡フラグ――』
また思わせぶりな所で電話を切り、慌てる少年の顔を想像して、ターボ婆ちゃんは心の底から笑い声を上げた。
「はははっ、やっぱり坊主をからかうのは楽しいさね。さて、行こうかね」
これが遺言となるかもしれない――そう思いながらも、ターボ婆ちゃんは真っ直ぐに走り出す。
長く続いた核兵器を巡る事件を、その両足で終わらせるために。
◇
燃料タンクやブースターを切り離し、打ち上げ前の一割ほどまで小さくなったロケットの中で、宇宙服を着て壁に張り付けられていた男は、加速Gがなくなった所で、ようやくベルトを外して自由を取り戻していた。
「無重力というのは面白いな」
本来、人が乗るように設計されていないRX―510の船内は狭く、データ収集用の機材と核弾頭で埋まっており、人が動けるスペースは殆どない。
その中を男は苦労しながら移動し、地球を見下ろせる窓へと顔を寄せた。
「あぁ、本当に青いんだな」
テレビや写真でしか目にした事のなかった、外から見た母なる大地の姿。
そこには、復讐に取り憑かれた妖怪の心さえも動かす、原始の美しさがあった。
「なのに、あの上に居る人間共は腐っている」
ただ穏やかに生きていた妖怪達を、神の摂理に逆らうという勝手な理屈で虐殺した国。
差別と迫害を自由の下に見逃し、裕福層にのみ平和と幸福を認める、資本主義という歪んだピラミッドの頂点。
そこに、高々度の核爆発という鉄槌を下し、三百年にも満たない歴史に終止符を刻んでやるのだ。
その結果として、罪なき人々を巻き込む事になろうとも。
「……ふっ、今更だな」
胸に浮かんだ僅かな感傷を、男は失笑して追い出す。
あの国にだって、自分達と同じように貧困で苦しんできた人は大勢居る。
それでも、妹と同じように清く生き続けている人だって居る。
差別や迫害を許さず、例え妖怪だと知っても、温かく手を差し伸べてくれる人だって居るのだろう。
そんな人々まで巻き込んでしまう事は、素直にすまないと思う。
だが、ちっぽけな罪悪感で抑えられるような怒りや憎しみなら、こんな事を企むはずもない。
「さあ、もう直ぐ、もう直ぐだっ!」
窓から地上を見下ろし、ロケットがアメリカ大陸の真上に到達する時を、今か今かと待ちわびる。
だが、その黒い願望を遮るように、宇宙服に内蔵された通信機が音を立てた。
耳元の受信スイッチを押すと、ヘッドアップディスプレイの応用で、ヘルメットのガラスに通信先の映像が映し出される。
姿を見せたのは、別れる前よりもさらに表情を硬くした、インドネシア国立航空宇宙研究所の所長。
『君に、一つ謝らなければならない事がある』
「全て順調だと言うのに、今更何だ?」
また墓の建て方などと、下らない事を聞かれるのかと、眉間に皺を寄せた男に答えたのは、所長とは別の人物だった。
『簡潔に言うと、こういう事だよ』
「なっ!?」
声と共に映し出されたその姿を見て、男は驚愕の声を漏らす。
四十代後半くらいの男性で、金髪に青い瞳をした典型的な白人。
胸に輝く六芒星のバッチも、その汚物を見るような目も、見間違うはずがない。
アメリカ合衆国退魔総省・ヘキサの長官。
彼の全てを奪った、残酷な神の狂信者。
「貴様が、どうして通信をっ!」
憤怒と憎悪、それを以てしても潰しきれない、形容しがたい恐怖が湧き上がってきて吠えた男に、大天使ミカエルの名を持つヘキサの長官は、隠しもせず侮蔑の笑みを浮かべた。
『やれやれ、まだ分からないとはね。君達の行動は全て、私の計画通りだったという事だよ』
「――っ!?」
驚愕のあまり言葉を失う男に、ミカエルは醜悪に証拠をぶつける。
『国家機密の塊である、核ミサイル搭載の原子力潜水艦の位置。それを、島国のたかが宇宙研究所の所長が何故調べ出せたと思う? アメリカ側からリークがあったからに決まっているだろう?』
「…………」
『そもそも、インドネシアがアメリカに混乱を起こして、いったい何の得があるというのかね? 派兵でもして占領すると? 馬鹿馬鹿しい。本国が多少混乱していようとも、ハワイやオキナワやオーストラリアにも我がアメリカ軍が居る。迂闊な真似など出来やしない』
「…………」
『だいたい、同じアメリカ憎しとはいえ、汚らわしい怪物にイスラム教徒が手を貸す事を、少しも疑問に思わなかったのかい? 教えに差はあれど、彼らも我らキリスト教徒と同じ唯一神を崇め、邪悪を憎む敬虔な信徒なのだよ?』
「…………」
憎い相手が得意顔でペラペラと喋る内容に、男は何も言い返せなかった。
「……どこからだ?」
インドネシアに誘われて始めた、核兵器の奪取とロケットでの打ち上げ。
その計画にどこからアメリカが――いや、妖怪を虫けらのように扱うこの狂信者が関わっていたのか。
歯軋りしながら問う男に、ミカエルは素っ気なく答えた。
『君達の村を燃やした、あの時からだよ』
「そんな馬鹿なっ!?」
『本当だ。君達は私の望む通り、アメリカを憎みテロを起こした。その一点だけは感謝しているよ』
「ふざけるな……ふざけるなっ!」
震える声で必死に否定しながらも、男はそれが真実だと認めてしまう。何故なら――
『あの時、どうして君を見逃してやったと思う? 全てはこの時のためだよ』
――そう、復讐者としていずれ牙を向く男を、殺さずに放置する理由などそれしかない。
『君は知らないだろうが、最近は我が合衆国も人権派がうるさくてね。怪物共に人間と同じ権利を与えたり、我々ヘキサの規模を縮小しようなどと言い始めたのだよ。島国の黄色い猿にでも影響されたのか、度し難い低脳共だよ』
本来ならば平和共存と讃えられる政策も、怪異を邪悪と決めつけるミカエルには認められるはずもない。
何故なら、それは彼らの地位と財産を犯す行為だから。
『そこで私は考えたのだよ。低脳な政治家共にも分かり易く、怪物共の危険性を見せつけてやろうとね』
そうする事で、合衆国退魔総省ヘキサの必要性が改めて認められ、予算は倍増、戦力も増強される。
つまり、長官である彼の力が増す。
『何か良い手はないかと考えていたら、怪物共が集まって村を作っているというじゃないか。これは国家の一大事と、テロリストを排除したのだよ』
嘘だ。本当に良く調べたのならば、あの村には銃器の一つもなく、海外に赴き留守にしていた吸血鬼を除いて、強力な能力の持ち主は居らず、危険性がない事は分かったはずなのだ。
事実、ヘキサノの一個小隊、五十人程度の兵士によって、ああも簡単に殲滅されてしまったのだから。
『その生き残りがビルでも爆破すれば――と思っていたら、千年級の吸血鬼なんて大物が現れたのでね。もう少し派手に暴れて貰おうと計画を練ったのだよ』
それが、インドネシアまでも巻き込んだ、原子力潜水艦からの核弾頭奪取と、高々度での核爆発によるアメリカ崩壊計画。
「……何故、そんなものに協力した?」
男は絞り出すような声で、沈黙を続けていたインドネシアの所長に問う。
その答えは、実にシンプルなものだった。
『宇宙開発の技術と資金を提供して貰った』
「それだけで、イスラム教徒のあんたが、憎いキリスト教徒共の味方をしたのか!」
『……祖国のためを思うならば、個人的なわだかまりは捨てる。それが上に立つ者の仕事だ』
そう言い切る所長の顔には、男を騙した事への罪悪感と、それよりも強い民への想いが浮かんでいた。
正しく為政者であろうとする彼の姿に、男は怒りの言葉を呑み込み、ミカエルは侮蔑を浮かべながら話を進める。
『我々ヘキサの力をもってすれば、都合の良い核ミサイル搭載の潜水艦に、悟られぬように発信器を取り付けて、君達に位置をリークして誘導するなど、赤子の手を捻るようなものだったよ』
だから、潜水艦ミシシッピはクジラに乗った妖怪達の襲撃を受け、そしてヘキサの特殊部隊に容易く包囲もされた。
その事から、これが全てアメリカ側の陰謀だったと悟り、吸血鬼は絶望と自棄のあまり銀の銃弾に身を晒したのだった。
『そうそう、気付いていないだろうから教えてあげるが、ここまで容易く誘導出来たのは、君達の中に裏切り者が居たからだよ』
「……あいつか」
男の脳裏に過ぎったのは、アメリカへの憎しみが薄い、臆病な人鼠の顔。
思い返せば、インドネシアとの仲介をしたのも、あのドブネズミの手引きだった。
あの時、怨嗟で目を曇らせていなければ、こんな事にはならなかったのか。
そう後悔する男に、ミカエルは素っ気なく付け足した。
『怒る事はない、あのネズミならとっくに我々が処分し、残りの核弾頭も回収させて貰ったよ。汚らわしい怪物とその血を引く子供などに、我が合衆国が移住権など与えるはずもないのに、齧歯類らしい低脳さだったな』
「…………」
嘲笑うミカエルには何も言わず、男は裏切り者の事を思い出す。
あの人鼠は両親を殺され、その恨みを晴らすためだからと言って、自分達の元を訪れた。
おそらく、その言葉は半分が本当で、残り半分が嘘。
両親は殺されたあの臆病者に刻みつけられたのは、彼と同じ復讐心ではなく、死への恐怖と安全への渇望。
だから、死から逃れるために鋭く耳を尖らせ、情報を集めて逃げ回り、文字通りドブネズミのようにしぶとく生き延びてきた。
しかし、寂しさから妻と子供を得て幸福となった事が、より死への恐怖を――失う事への恐怖を増大させ、人鼠から冷静な判断力を奪ってしまう。
そんな時、天敵から甘言を受けて、まんまと乗せられてしまったのだろう。
そう思うと、裏切り者と知っても憎む気持ちは湧ず、ただ哀れだった。
祈るべき神も持たないが、ただ黙祷を捧げる男に、全ての計画者たるミカエルは、最後の種明かしとばかりに告げる。
『さて、ここまで言えば察しは付いていると思うが、君の乗ったロケットが合衆国の上空に到達する事はない』
「だろうな……」
妖怪の危険を知らしめ、ヘキサの権力を強化しようという企みは、原子力潜水艦の占拠と、それを使った日本への脅迫だけで十分だ。
だから、この狂信者であるが愛国者でもあるミカエルが、アメリカに混乱をもたらす理由はない。
『けれど安心したまえ、核弾頭は間違いなく爆発する。合衆国には電磁パルスの影響が届かぬ、三千㎞以上も南の地点でね』
「何だとっ!?」
もはや諦観の極地に達し、驚愕する事などないと思っていた男も、その言葉は聞き逃せなかった。
アメリカ合衆国の遥か南。それは同じアメリカの名を冠する大陸でありながら、その実体は天と地ほども差のある、貧困と暴力と麻薬に苦しむ国々のある場所。
男の生まれ育った、たった一つの故郷。
「な、何故だ……」
核弾頭が邪魔なら、今直ぐ大気圏に落として燃やすか、被害の出ない太平洋のど真ん中で爆破すればいいのに。
なのに、南アメリカの諸国に被害をもたらす理由、それは――
『目障りだからに決まっているだろう? 移民なんて形で犯罪者を押し付け、麻薬をバラ撒くウジ虫共は、我が合衆国のために滅びるべきだ』
――愛国者であるが故に、他国の民を人とも見なさぬ、覇権主義者のエゴ。
「そんな真似をしたら、どうなるのか分かっているのかっ!?」
『電子機器の破壊による社会の混乱。そんな事は君が一番良く知っているだろう?』
悲痛に訴える男に、ミカエルは全て分かっていながら、嘲りを浮かべてとぼける。
陥る状況は同じでも、アメリカ合衆国と南アメリカの諸国では、その後に起こる被害がまるで違う。
アメリカも日本などに比べれば治安が悪いが、それは個人レベルの問題であり、国としては一つにまとまっている。
だが、男の故郷は違う。
反政府組織や麻薬組織が常に牙を尖らせ、隙を見せれば現政権を噛み千切ろうと目論んでいる。
そこへ、電子機器の破壊による混乱が起きれば、待っているのは血みどろの内乱と、それに乗じた隣国からの侵攻。
人も土地も全てが燃やされ、国の名前が地図から消滅事態すら、起きないとは言い切れない。
『せいぜい殺し合い、ゴミの掃除をしてくれればいい。綺麗に燃やしつくされた後で、我が合衆国が慈悲深く救ってやろうじゃないか』
衰弱を待ってからの、国際支援という名の派兵、そして事実上の属国化。
そのために、合衆国退魔総省の長官は、これだけの事件を演出した。
「貴様は……」
湧き上がる激情のあまり、男は声を詰まらせる。
この厚顔無恥な神の使徒は、彼の妹を、親友を、隣人を、罪もないのに妖怪というだけで皆殺しに、そして今、彼の故郷で暮らす人々を、同じ人間だというのに、この世の地獄に突き落とそうとしているのだ。
己の利益を守り、醜いエゴを満たすためだけに。
「貴様はそれでも人間かあぁぁぁ―――っ!」
『これが人間だよ、化け物君』
血を吐き出すような咆吼にも、ミカエルは眉一つ動かさず手元のスイッチを押す。
途端、鋭い激痛が男の背中を襲った。
「がっ……!」
『君が余計な事をせぬよう、宇宙服に致死性の麻酔針を仕込ませて頂いたよ。もっとも、核弾頭には下手に壊そうとすれば起爆する仕掛けを施したから、今更出来る事などありはしないがね』
憎らしい声が響く間にも、背骨に突き刺さった針から出た薬が、男の自由を奪っていく。
『では、残り少ない宇宙の旅を楽しみたまえ』
そう言い残し、通信は途絶える。
身動きする力すら失った男の、果てしない慟哭は、宇宙の真空に遮られて、誰に届く事もなく消えていった。
◇
ターボ婆ちゃんがロケットに張り付いたのは、まさにその時だった。
「扉は……これだね」
丸いハッチを見付けて開けると、船内へと体を滑り込ませる。
「さて、ご丁寧に核のマークでも描いて――うん?」
早速、核弾頭の有無を確認しようとすると、視界の端に宇宙服が過ぎる。
まさか人が居るとは思わず、驚いて身構えるが、宇宙服の人物はピクリとも動かない。
訝しみつつ近付き、押さえ込んだターボ婆ちゃんの目に映ったのは、ヘルメットの中に溺れそうなほど涙の粒を浮かべた、見知らぬ男の顔だった。
「おい、どうしたんだい!?」
絶望に満ちたその表情に、老婆は事情が分からずとも、心配して声をかける。
それは宇宙の真空に遮られ、宇宙服の中まで届かない。
ただ、突然現れた謎の老婆を見て、男はまさに藁にも縋る思いで、痺れてきた口を懸命に開いた。
『この、ロケット……核が詰ま……』
「やっぱり、宇宙で爆発させる気だったんだね」
相手は日本語でなく英語で喋り、しかも音が届かないから読唇術で察するしかないというのに、ターボ婆ちゃんは不思議と意味を理解し、深く頷き返した。
宇宙に出て老婆の感覚が研ぎ澄まされたからか、相手の強い執念が成せた技なのか。
それは分からずとも、男は残された時間と力を振り絞り、短い言葉で全てを伝えた。
自分がアメリカに恨みを持つ妖怪で、今回の主犯である事。
しかし、計画は全て合衆国退魔総省ヘキサの長官が仕組んだ、陰謀だった事。
そして、このロケットはアメリカではなく、その南の諸国に混乱と死を振りまこうとしている事を。
『こんな事を頼む……権利は、ない……』
もう呼吸すら困難なほど、痺れが全身を蝕みながら、男は最後の言葉を紡ぐ。
『だけど、どうか……あの国を、救ってくれ……』
飢餓と暴力と麻薬にまみれた国。滅ぼそうと企まれても仕方のない悪徳の都。
両親に捨てられ、そして己が捨て去った場所。それでも――
『俺の、故郷なんだ……』
良い思い出なんて数えるほどもなかった。今も帰りたいだなんて思わない。
けれど、妹と幼い約束を交わした、あの何処までも続く青い海が、彼らと同じ親に捨てられた子供達の血で、真っ赤に染まる光景なんて見たくはなかったから。
縋る目を向ける男に、ターボ婆ちゃんは力強く頷き返す。
最後の最後に復讐以外を選んだ、人の心に応えるために。
「あぁ、絶対に救ってみせるさね!」
『…………』
男は顔面を微かに緩め、礼の言葉を紡ごうとし、そのまま永遠に動きを止めた。
それに一秒だけ黙祷を捧げ、ターボ婆ちゃんは船外へと飛び出る。
彼の残した願いを叶えるためには、最早一刻の猶予もないのだから。
(壊そうとすると爆発するって話だったね)
下を向くと、ロケットは既にハワイを通り過ぎ、メキシコの西海岸近くまで辿り着いていた。
ここで爆発させてしまえば、男の故郷は救えても、それ以外の国に被害を出してしまう。
(おそらく、起爆装置はタイマー式なんだろうが……)
あと何分も残っておらず、悠長に解体している暇はなく、その技術も持ち合わせてはいない。
「なら、やる事は一つさね!」
真空の宇宙に気合の声を轟かせて、ターボ婆ちゃんはロケットの尻に両手を当てて、全力で足を踏み出した。
人工衛星が地球に落ちる事も、宇宙の外に飛んでいく事もないのは、重力に引かれて落下する速度と、地球を中心に回転する事で発生する遠心力が、ピッタリと釣り合っているため。
これを軌道に乗ると言い、今のロケットもその状態だった。
それを後ろから押し、加速させればどうなるかは、火を見るよりも明らか。
ロケットは軌道を外れ、宇宙の外へ――地上に核爆発の被害をもたらさぬ遠くへと離れていく。
「おおおぉぉぉ―――っ!」
妖力を全身から放ち、彗星の如く輝きながら、ターボ婆ちゃんはロケットを押して走り続ける。
第二宇宙速度・マッハ三十三をも超えたロケットは、高度にして約四万㎞の地点にまで到達する。
静止軌道も越えたそこは、地球圏の外と言ってもよく、もう核爆弾による電磁パルスも地上には届かない。
それを確信し、笑みを浮かべたターボ婆ちゃんの前で、ロケットは白い光に包まれた。
「……生きてる?」
意識が戻った事にこそ驚き、ターボ婆ちゃんはそっと目蓋を開けた。
見渡す限りにロケットの姿はなく、ただ遠くに青い海の星が輝いていた。
「ガガーリンの言ってた通り、地球は青かったさね……」
その美しさに心を打たれ、触れるように左手を伸ばそうとして、肘から先がなくなっていた事にようやく気付く。
首を軋ませて見れば、全身が炭のように黒く焼け焦げていた。
爆発の瞬間、本能的に飛び離れたのだが、その程度で核爆発の熱線から逃れられるはずもない。
人の形が残っているだけでも奇跡だった。
そんな事を思っていると、不意に背中から振動が伝わってくる。
指の残っていた右手を何とか背中に回すと、半分焼け溶けた耐水ケースに残っていた、携帯電話が震えていた。
それは不思議なほど原型を留めており、電波が届くはずもない静止軌道の外でありながら、平然と着信を知らせていた。
焼け焦げた頬に微笑を浮かべ、通話ボタンを押したターボ婆ちゃんの耳に届いたのは、予想通りの可愛らしい少女の声。
『私、メリーさん。お婆ちゃん、まだ生きてるの?』
「メリーの嬢ちゃんかい。あぁ、宇宙に居るけど生きてるよ」
『私、メリーさん。真空の宇宙で平気な事も、携帯電話で普通に話してる事も、どっちも信じられないの』
「なに、人間はね、気合いさえあれば何だって出来るのさね」
自分だって十分非常識な事をしているだろうにと、ターボ婆ちゃんはまた笑いながら話に応じる。
これが、きっと最後になるからこそ、伝え残しのないように。
『私、メリーさん。もしかして、お婆ちゃんも昔は人間だったの?』
「あぁ、嬢ちゃんと一緒でね、未練を残して死んじまって、幽霊になって、気がついたら妖怪になってたのさ」
『…………』
「そして、ただ走り続けた……何かを追うように、なくしたモノを取り戻すように、速く、もっと速くってね。そうしたら、いつの間にか宇宙にまで来ちまったさね」
『お婆ちゃんのなくしたモノ、見付かったの?』
「どうだろうね。走り続けるうちに、草履の裏と一緒に擦り切れて、忘れちまったさね」
嘘だ、忘れるはずがない。
光の速度を超えて物理法則を覆し、時を遡る事で運命を変えて、失った人を取り戻す。
そんな馬鹿げた夢のためだけに、彼女の存在はあったのだから。
「……あんたは、アタイみたいになるんじゃないよ」
『…………』
「いや、余計な心配だったさね。あんたはもう、なくしたモノを見付けたんだから……ゲフッ、ゲフッ!」
『お婆ちゃん、大丈夫なの!?』
「ふっ、残念ながらもう限界みたいさね……敵のロケットに特攻をしかけた時に、左足を挫いちまってね……」
これも嘘。左足は挫く以前に燃えカスとなっている。
けれど、怖がらせたくなくて嘘を吐くターボ婆ちゃんに、メリーさんは気付かずツッコミを叫ぶ。
『ロケット相手でその程度なの!? しかも足を痛めただけで何で吐血してるの!?』
「走れない婆はただの婆、アタイの命もここまでさね……」
そして、これだけは本当。
全身が消し炭となって走る力を失い、今も地球から遠ざかり続ける老婆に、もう生きて帰る術などあるはずがない。
そんな事情を知らぬ電話口の少女は、ただ懸命に励ましの言葉を送る。
『私、メリーさん。そんな弱気な事を言わないでなの』
「いいだよ、嬢ちゃん。あんたや坊主を守れたんなら、アタイの人生も無駄じゃなかった……」
『お婆ちゃん……』
正確に言えば、電話口の少女達が暮らす日本ではなく、南アメリカが狙われていたのだが、罪なき子供達を救ったという意味では同じ事。
だからこそ、老婆は満足して目蓋を下ろす。
「流石に疲れたさね……悪いね、もう寝るよ……」
『お婆ちゃん、死んじゃ駄目なの!』
視界から青い地球も消え去り、漆黒の世界へと落ちていくターボ婆ちゃんに、メリーさんは必死に叫び続ける。
『お婆ちゃんのゴールはこんな所なの? お婆ちゃんの求めたスピードはこれでお終いなの?お婆ちゃんよりもっと速い人が居るかもしれないのに、尻尾を巻いて逃げ出すの?』
――あぁ、それは悔しいね。
『なくしたモノは取り戻せるの! 私も大切なモノをなくしたけど、和樹が大切なモノになってくれたの。だから、お婆ちゃんだって、なくしたモノを取り戻せるの!』
――本当に、あの人を取り戻せるかい?
『諦めない限り、生きてる限り、絶対になの!』
――そうだね、そう信じてアタイは走り続けてきたのさね。
少女の涙声が響く度に、薄れ消えていこうとしていたはずの意識が、少しずつ力を取り戻していく。
彼女は妖怪、ターボ婆ちゃん。
人の想念が生み出した、人成らざる存在。
力の源は意志――意をもって志す強き心。
ならばそれが折れぬ限り、両足も決して屈する事はない。
『だから立ってなの、ターボ婆ちゃんっ!!』
「――違うね」
『えっ?』
否定の声を吐き出し、老婆は力強く目蓋を開ける。
その全身を覆っていた炭は剥がれ落ち、真新しい皮膚が姿を現す。
シワだらけで枯れた、だが何者にも負けず、己の弱気すら蹴飛ばす力強い両足で、虚空の宇宙をしかと踏みしめて、老婆は高らかに宣言する。
「高速を越え、音速を超え、宇宙速度に達したアタイは、言うなれば――ターボ婆ちゃんSSッ!」
『お婆ちゃんっ!』
メリーさんの歓声を聞いて、宇宙速度に達した老婆は、恥ずかしげに左手で鼻を掻く。
その肘から先はとっくに再生し、新たな力に漲っていた。
「嬢ちゃんに説教されるなんて、アタイも焼きが回ったものさね」
『私、メリーさん。太陽風も平気な妖怪が、何を言うのなの』
電話口の少女に強く頷き返し、新生を果たしたターボ婆ちゃんは改めて宣言する。
「そうさ、アタイのゴールはこんな所じゃない、宇宙速度にだって満足しないさね。いずれは光さえ追い越し、時間も空間も走り抜け、目指すは神をも超越する完璧走者!」
『神速老婆なの……』
「いい名だ、気に入ったさね。ならその名に恥じぬよう、大気圏如き右足一本で走り抜けて、嬢ちゃん達の所へ帰らないとねぇ!」
核の炎からすら生還した老婆にとって、大気圏突入の熱などぬるま湯以下。
そう告げ、ターボ婆ちゃんは漆黒の外宇宙に背を向ける。
『私、メリーさん。お婆ちゃんの大好きなおはぎを用意して待ってるの』
「いいね、俄然やる気が湧いてきたよ。さあ、アタイの流星の如き走りを見せてやるよ!」
『ファイトなの、ターボ婆ちゃんSSッ!』
可愛らしい応援も力に変えて、老婆は本当に片足だけで、青い海の星を目指して走り出した。
復讐と陰謀に彩られたこの事件を、真の意味で終わらせるために。