【幕間 現実の津波】
住民が全て怪異の村。
ホラー映画のような光景を想像し、身構えていた彼と妹が見たのは、黄金に輝く麦畑がどこまでも続く、牧歌的な田舎の風景だった。
そこで暮らす者達もまた、普通の人間と変わらない、むしろ人間よりも人間らしい、温かな笑みを浮かべている。
村民勢揃いの歓迎パーティーに招かれ、妹が素直に喜び料理の手伝をするなか、戸惑い立ち尽くす彼に、銀髪の青年が近付いてきて言った。
「君も迫害されたり利用されたりして、人を信じられなくなっているみたいだね。けど安心しなよ、ここに居るのはみんな『人』じゃないんだからさ」
冗談っぽくそう言って、頭頂に三角形の耳を生やしながら青年は笑った。
そこから先は、本当に夢のような生活だった。
慣れない農作業で泥だらけになり、生活用品は日に一台トラックが運んでくるだけで、遊びに行こうと思ったら車で三時間は走らないといけない田舎暮らし。
それに心底辟易しながら、彼もそして妹も、生まれて初めて心の底から安らぎを感じていた。
どれだけ力や大金を得ても、自由や平穏を得ても、心の隅に根深く巣くっていた、人間ではないという疎外感と劣等感を、ここでは感じる必要がないのだから。
混血吸血鬼の少年と共に逃げた鶏を追って、暑いと愚痴る雪男と川へ水浴びに行き、夜はセイレーンの美しい歌声を肴に皆と酒を飲む。
自分が麻薬組織の殺し屋だった事も、酷い差別を受けていた移民だった事も忘れそうになる、ただ穏やかで幸福な毎日。
「ずっと、こんな日が続けばいいね」
そう言って笑った妹に、彼も素直に頷いた。
けれど、心の何処かで思っていたのだ。
闇から生まれた醜い怪物が、陽の下で幸せに暮らすなんて事を、どこまでも残酷で不平等な神が許す筈はないのだと。
彼の予感通り、幸福な生活はその頂点に至ったと同時に崩壊した。
不幸へと突き落とす、その落差を築くためだけにあったと言うように、呆気なく、何の容赦もなく。
その日、彼はオンボロの自動車を運転して、半日かけて町まで買い物に出掛けていた。
買ったのは綺麗なクリスタルの食器。妹への婚約祝いだった。
昨夜、村へ来てから最初の友人となった狼男の青年が、緊張した面持ちで家を訪れたと思うと、急に金の指輪を取りだして妹に求婚してきたのだ。
彼女も青年の事を想っていたらしく、泣きながら笑ってそれを受け取った。
彼も喜んでそれを認めたが、やはり心の支えであった妹を取られる寂しさは深く、祝い酒を飲み過ぎ酔っぱらい、つい青年を殴ってしまった。
怒った妹に追い出され、謝罪とお祝いのプレゼントを買って帰った彼を出迎えたのは、大切に育てた黄金の麦畑が、夕日よりも赤い炎で燃える光景だった。
何処から火が出たのか、早くヘリコプターで消化剤を撒かないと。
そう慌ててアクセルを踏んだ彼は、少し進んでそれがただの火事ではなかったと知る。
道の端に、血だらけになった混血吸血鬼の少年が転がっていた。
慌てて抱き上げたその体は、無数の銃弾で穴だらけになり、もう息をしていなかった。
いったい誰が、こんな事を。
怒りと悲しみに暮れながら、妹の居る村へ駆け出そうとしたその瞬間、彼の左腕に穴が空いた。
遅れて届いた銃声を聞いて、自分が何者かに撃たれと気付いた瞬間、焼けるような激痛が襲ってくる。
悲鳴を上げてのたうち回る彼の元に、誰かが歩み寄ってきた。
四十代後半くらいの男で、金髪に青い瞳の典型的な白人。
胸に六芒星のバッチを着けたその男は、まるで汚物でも見るような目で彼を見下ろし、手にした拳銃を突き付ける。
「君が化け物ならば主の敵である。君が人間ならば主の敵に手を貸した罪人である。即ち、どちらにせよ死にたまえ」
正体を確かめる事すらせず、男は銃の引き金を引き、そして彼は意識を失った。
気が付けば、空は星一つ見えない暗雲で覆われ、激しい雨が彼の頬を叩いていた。
身震いして起きあがった彼は、左腕の銃傷に顔を歪め、あれが夢ではなかったと知る。
ならば、何故自分は生きているのか?
その疑問に答えが出るよりも早く、彼は妹の事を思い出して駆け出した。
雨で火が消えた村は、全てが真っ黒に焼け焦げていた。
雪男らしき肉塊から目を逸らし、血で染まったセイレーンのハープを跨ぎ、ようやく辿り着いた彼の家も、元の姿が思い出せないほど焼け落ちていた。
彼はどうか居ないで欲しいと願いながら、まだ僅かに熱の残る、炭となった家を掻き分ける。
だが、それは直ぐに見付かった。
火炎放射器で骨まで焼かれ、消し炭となって混ざり合い、永遠に一つとなった二人分の焼死体。
その左薬指と思われる部分には、半分溶けた金の指輪がはめられていた。
触れた瞬間ボロボロと崩れ落ちた妹と親友の遺骸を、彼は両手で抱き集めて慟哭を上げる。
何故、妹を殺した!? 何故、俺ではないのだ!?
自分は殺されても仕方ない、それだけの罪を犯してきた。
けれど、妹は何もしていない。
餓えて残飯を漁ろうとも、盗みを働こうとはしなかった。
兄が人を殺し麻薬を売り捌くのに、ずっと心を痛めていた。
白人ではないからと差別され、移民だからと迫害されても、決して誰も恨まず生きてきた、本当の意味で強い人間だったのに。
そう、人間だった。
例え体は妖怪であろうとも、彼のように異能を悪用する事なく、ただ一人の人間として静かに暮らしていただけなのに。
血の涙を流し訴える彼の元に、背後から答えが響く。
「化け物だから。それだけで、この国の人間共には十分なんだぜ?」
ふざけているのに欠片も笑っていない、そんな冷たい声に彼は振り返る。
そこに立っていたのは、まるで月の欠片で作られたような黄金に輝く青年。
その青年こそが自分達を集め保護していた、道楽者の吸血鬼とは知る由もなく、彼は吠えるように問う。
「化け物なら罪を犯していなくとも、殺していいって言うのか!?」
「自由と平等と幸福の権利は、人間にしか与えられてねーんだよ」
少なくとも、この国ではな。
そう吐き捨て、吸血鬼は顔には出さず深く悔やむ。
あと少し、彼の帰りが早かったら――妖怪への対応が甘い、とある島国へ移住させる準備が整っていたら、こんな事にはならなかったのに。
移住地とそこでの仕事先を用意し、当局に悟られぬよう少しずつ移り住む計画がまとまって、ようやく戻ればこの様。
妖怪を憎悪する狂信者達の目と腕は、千年を生きた吸血鬼よりもずっと長かったのだ。
「お前、どうしたい?」
生き飽きた自分に貸した最後の仕事。
それを潰され、全ての気力を失った吸血鬼の問いに、彼は溶けた金の指輪を握り締めて吠える。
「この国にとって、俺達は化け物でしかないと言うなら――化け物らしく、その腑を引き裂いてやるっ!」
「……けひひっ、いいぜ、面白そうじゃねえか」
黒い憎悪で身を燃やし、本当の意味で化け物と成り果てた彼に、吸血鬼は僅かに憐憫の視線を送った後、愉快そうに笑い出す。
それが、今も覚めぬ悪夢の始まり。