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【第二幕 陰謀の海】

 東京から南東に約千㎞の海上を、ターボ婆ちゃんはGPS片手に走っていた。

「経緯三一・〇六二度、緯度一四五・一〇七度……ここで間違いないんだね?」

 もう片方の手に持った携帯電話に話しかけると、眠そうな肯定の声が返ってくる。

『うん、原子力潜水艦ミシシッピは、そこの海中百mの地点で静止しているよ。ふぁ~……』

「疲れている所、長々とすまなかったね。助かったよ」

『じゃあ頑張ってね、お婆さん……』

 サトル君はそれだけ言うと、能力を使った疲労のせいで、深い眠りについた。

「あぁ、頑張るさね」

 ターボ婆ちゃんは頷いて電話を切り、GPSと共に背中の耐水耐圧ケースに入れ、足下に広がる海を険しく睨む。

 濃い青色で見通せぬそこに、日本に核兵器を向ける敵が居るのだ。

「撃沈できたら簡単なんだけどね」

 決死の体当たりで大穴を空けて、核弾頭もろとも深海に沈めるのが一番簡単かつ確実。

 だが、憎いテロリストの妖怪とはいえ、殺す事には躊躇いを覚える。

「それに、人間が乗っていないとも限らないしね」

 原子力潜水艦の乗員は百名以上。交替なしの不眠不休かつ必要最低限に抑えるとしても、四十名は居ないとまともに動かせまい。

 だが、それほど大人数の妖怪が乗り込んでいるとは考えられない。

 元からの乗員が何割かは脅され、今も潜水艦の中に居るのだろう。

 その者達を犠牲には出来ない――そう結論を下した、ターボ婆ちゃんの考えは正しい。

 実際には乗員百三十名全てが、洗脳され自分が何をやっているかも分からぬまま、鋼鉄の棺桶を動かし続けていたのだから。

「なら、ミサイルの発射管を潰すしかないさね」

 覚悟を決め、ターボ婆ちゃんは海中へと身を投げた。

 仄暗い海の中。それよりも過酷な真空の宇宙へ至り、光速へ辿り着くため、一万mの高々度で鍛えられた体は、水圧などモノともせず、もはや空気さえ必要とせず、水を蹴って深く潜っていく。

(あれだね)

 妖力により強化された老婆の目は、光の届かぬ闇の海中に浮かぶその影を捉える。

 神話の怪物を思わせる巨大な体に、黙示録の破壊力を秘めた、現時点で人類最強の船。

 その上に突き出たセイルの部分から機首の方向にかけて、目標のミサイル発射管は存在した。

(画像で見た通りの数か、厄介だね)

 中央と左右に四つずつの計十二基。

 これを全て破壊せねば、核ミサイルの発射は阻止出来ない。

(問題は時間か……)

 最初の一基を破壊した瞬間、潜水艦内部にこちらの攻撃が悟られる。

 敵は艦を急浮上させ、報復としてミサイルを発射しようとするだろう。

 そのタイムリミットに間に合うかどうか、つまりは速度勝負。

(やってやるさね!)

 ここまで来たら、弱気や不安は足枷にしかならない。

 ただの己の両足を信じ、ターボ婆ちゃんは強く水を蹴った。

 突き出した肘に妖力を集中させ、百五十ノット=秒速七十七mという、魚雷の三倍もの速度に加速した体当たり。

 人間魚雷ならぬ妖怪魚雷と化した老婆の前に、何百トンという水圧に堪えられる潜水艦の装甲さえ、もはや意味を成さない。

 大気中よりも凄まじい轟音が水の中に響き渡り、発射管のハッチはひしゃげて開かなくなり、隙間から海水が侵入した事もあってその機能を失った。

(次っ!)

 ターボ婆ちゃんは肘の痛みも無視して一度距離を取ると、再び加速して体当たりをかます。

 二つ、三つ、四つと、次々とハッチを破壊していく間、幸いな事に潜水艦は動き出さなかった。

 彼女は知らぬ事だが、現在ミシシッピの全権は強力な、だが潜水艦に関しては素人にすぎない一人の吸血鬼に握られており、艦長以下全ての乗員は操られて意志を失っていたため、迅速な対応が出来なかったのだ。

 相手のそんな事情を知るよしも、想像する暇もなく、ターボ婆ちゃんはただ無心に突撃を繰り返す。

 しかし、あと残り二基となった所で、潜水艦から猛烈な勢いで気泡が吹き出した。

(くっ、ついに動き出したかい!)

 バラストタンクの海水を圧縮空気で押し出し、艦を軽くして緊急浮上。

 それは、ミサイルの発射態勢に移行した事を意味する。

(まだだよっ!)

 気泡で視界を奪われながらも、ターボ婆ちゃんは愚直に突撃を繰り返す。

 十一基目への攻撃は成功。だが、最後の十二基目の攻撃が横に逸れてしまう。

「外れた――ぶはっ!」

 失敗の手応えと同時に、周囲の水が弾け飛び、鼻と口に空気が流れ込む。

 一瞬むせて動きが固まる老婆の前で、海面への浮上を果たした潜水艦は、破壊の炎を生み出すミサイルのハッチを、重々しく開こうとしていた。

「やらせないと言ってるさね!」

 距離を取り勢いをつけている暇はない。

 ターボ婆ちゃんは一足で踏み込み、渾身の左回し蹴りを放つ。

 紫色の妖力を帯びた脛が鋼鉄のハッチを打ち、開け放とうと動いていた歯車が悲鳴を上げて砕け散る。

 そうして動力を失ったハッチがゆっくりと閉まり、ついに牙を失った潜水艦の上で、ターボ婆ちゃんは荒い息と共に膝をついた。

「や、やったのかい……?」

 右膝は血塗れになり既に感覚がなく、今の蹴りで左足にも激痛が走っている。

 満身創痍となり、不安の眼を向けるターボ婆ちゃんの前で、ミサイル発射管は何時まで待っても、ただ沈黙を守り続けていた。

「はは……あはははっ、やったよ、守りきったさね!」

 ようやく実感と達成感が追い付いてきて、ターボ婆ちゃんは堪らず歓喜の笑い声を上げる。

 だが、それに呼応するように、背後からも笑い声が響いてきた。

「けひひっ、どこの特殊部隊が襲ってきたのかと思ったら、まさかお嬢さん一人とは驚きだぜ」

 美しくも下品なその声は、昨夜退魔庁に送られた脅迫と同じもの。

 振り返ったターボ婆ちゃんに、セイルの上に立った黄金の青年――クラウンと名乗った吸血鬼は、楽しそうに拍手を送った。

「あんたが潜水艦を乗っ取った犯人だね?」

「そうさ。こう見えてもあんたよりお爺ちゃんな一一〇五歳だぜ?」

 態度はふざけていながらも、その体から発せられる妖気の圧力は、老婆をお嬢さん扱いするのも納得な貫禄を備えている。

 だが、それに気圧される事もなく、ターボ婆ちゃんは鋭い目で睨み返す。

「あんた、何でこんな馬鹿な真似をしたんだい?」

「けひひっ、道化が馬鹿をやらずに何をやるよ?」

 あくまでふざけ続ける吸血鬼に、それでも老婆は言葉を重ねる。

「十兆円だったかい。そんな大金が支払われる訳ないさね」

 例え核兵器で脅されようとも、国家予算の一割近い金額を、テロリストに与えるなど有り得ない。

 見逃せば便乗犯が出るため、国際世論がそれを許さぬし、核による被害ほどではなくとも、経済的に大きなダメージを受けてしまうのだから。

「だいたい、仮に支払われた所で使えやしないだろう?」

 いくら守秘性の高い外国の銀行とて、こんな国家レベルの犯罪に関わった金を、右から左へ黙って流したりなどしない。

 金を下ろせば直ぐに足取りが着いて、お縄になるのが目に見えている。

「十兆円はどうやっても手に入らない、そんな事は分かり切っている。なら、あんたは最初から金に興味なんてなかったのさね」

「ふっ……くくくっ、あひゃひゃひゃひゃっ!」

 ターボ婆ちゃんに指摘された吸血鬼は、今までで一番下品で、何よりも愉快そうに笑い出す。

「お嬢さん、あんた最高だよ。こんな茶番は今直ぐやめにして、一緒にクルージングでも楽しまないか?」

「悪いが、アタイはあの人一筋でね」

 ターボ婆ちゃんはすげなく誘いを断りながら、冗談の中に混じった真実を見抜く。

(茶番か、やはりね……)

 金の要求はブラフ、ならば本命は何だ?

 そう思い、ターボ婆ちゃんがさらに探りを入れようとした瞬間、吸血鬼はふと笑い声を止め、遥か遠くの水平線を睨んだ。

「ちっ、空気の読めない奴らだぜ」

「何の事だい?」

「こっちの話さ。それより、お嬢さんの健闘を讃えて、二つ良い事を教えてあげよう」

 いきなり何を言い出すのか。訝しむターボ婆ちゃんに、吸血鬼は笑いながら付け足す。

「けひひっ、信じなくても結構だが、これから言う事は一言一句の間違いもなく、全て真実なんだぜ?」

「……いいさ、言ってごらん」

 その言葉さえ嘘だとしても、聞いて損をする事はあるまい。

 ターボ婆ちゃんは静かに耳を傾け、吸血鬼は真顔になって告げる。

「一つ、俺様達の目的は、核をロケットで打つ事だ」

「もう一つは?」

「けひひっ、こっちは忠告と言った方が正しいんだけどな――」

 吸血鬼が言い終わるよりも早く、ターボ婆ちゃんの背後から水を切り裂く音が響く。

 何事かと振り返った彼女の目に映ったのは、水中を走る一本の細長い物体。

 それは海面に顔を出した瞬間、水から己を守っていた鎧を脱ぎ放ち、翼を広げ大空へと飛翔した。

「――魚雷管から発射出来るミサイルもあるんだぜ、不勉強だったな?」

 UMG―84・ハープン巡航ミサイル。

 それは老婆の目の前で北西へ――日本へ向けて飛び立っていった。

「なんて事だいっ!」

「あひゃひゃひゃ、最後の鬼ごっこスタートだぜぇ!」

 吸血鬼の不愉快な笑い声を背に、ターボ婆ちゃんはミサイルを追って空を駆ける。

 ハープンの速度はマッハ〇・八と、超音速のジェット戦闘機よりも遅い。

 だが、ミサイル発射管を破壊した時の傷と疲労で、ターボ婆ちゃんの足もレシプロ機並の速度に落ちていた。

「くっ、なんて情けない!」

 英雄気取りで出しゃばり、一人で敵に立ち向かった結果がこのザマだ。

 ターボ婆ちゃんは歯噛みしながら必死に両足を動かすが、前を行くミサイルとの差は開いていくばかり。

 絶望が這い上がってきたその時、ふと背中から聞き慣れた電子音が響いてきた。

「電話? こんな時に誰だい!」

 一秒とて気を抜けぬ今、無視するべきだ。

 そう思いながらも、ターボ婆ちゃんの左手は反射的に動き、背中の耐水ケースから携帯電話を取り出していた。

 液晶画面に映っていたのは、良く知る退魔師の少年――影森和樹の名前。

「よぉ、坊主かい?」

『はい、お久しぶりです』

「数日前に会ったのに、お久しぶりもないさね」

 馬鹿丁寧な和樹の挨拶に、ターボ婆ちゃんはそんな場合でもないのに、ついカラカラと笑ってしまう。

「それで何の用だい? 今は忙しいから、手短に頼むよ」

『ごめんなさい、もしかして競争中でしたか?』

 遠慮した問いに、老婆はふとイタズラ心を刺激され、ありのまま事実を話した。

「あぁ、核ミサイルを追ってる最中さね」

『何があったの!?』

「なに、悪い妖怪が某国の潜水艦を占拠してね、積まれていた核ミサイルでテロを企んでいるだけさね」

『どこのハリウッド映画さそれ! 何でそんな大事にお婆ちゃんが関わってるの!?』

 和樹の心地良いツッコミが返ってきて、ターボ婆ちゃんはつい調子にのって、ヒロイックな台詞を口にする。

「安心しな、二度とこの国を、核兵器なんかで焼かせはしないさね!」

『しかも狙われてるの日本!?』

「坊主、メリーの嬢ちゃんや別嬪ちゃんを泣かせるんじゃないよ……」

『死亡フラグだよそれ! ちょっと、お婆ちゃん? お婆ちゃ――』

 不安になる事だけを散々告げて、ターボ婆ちゃんは電話を切ってしまう。

 今頃泡を食っているだろう和樹の顔を想像すると、心の底から笑いが込み上げてくる。

「あはははっ、坊主には悪いが、本当にからかい甲斐があるさね」

 一頻り笑った後で、ターボ婆ちゃんが視線を前に戻すと、ミサイルは今にも水平線の彼方に消えようとしていた。

 けれど、焦る気持ちはもうない。

 守るべきモノを思い出した今、彼女のやるべき事はただ一つなのだから。

「坊主の、嬢ちゃんの、子供達の未来を奪わせる訳にはいかないんだよ!」

 人の想念から生まれた妖怪。

 それは本来、恐怖や不安という負の心を糧とする。

 だが、陰と陽、人の心は表裏一体。

 恐怖は生きたいという気持ちの現れ、不安は明日を求めるからこそ生まれるもの。

 全てはただ、今を生きたいという、生命の根源から出る願い。

 だから、正も負も全ての想いを力に換えて、ターボ婆ちゃんはただ強く速く空を駆ける。

「おおおぉぉぉ―――っ!」

 咆吼と共に大気が裂け、傷付いた老婆の体が音速を超える。

 マッハ一・五……二・〇……二・五……三・〇……。

 世界最速の高々度偵察機・SR―71の叩き出したマッハ三・三すら追い越し、衝撃波で海を割りながら、前を行くミサイルを追う。

 そして、瞬く間に差を詰め、ついにその真横に並ぶ。

「せいやっ!」

 気合と共に繰り出されたターボ婆ちゃんの右回し蹴りが、ハープン巡航ミサイルを真ん中から叩き割る。

 ロケット燃料が詰まれた後尾は、一瞬の間を置いて爆発。

 そして、残された前半分――問題の弾頭を、ターボ婆ちゃんは左手で受け止める。

「あとはこいつを何とかしないと」

 不気味な沈黙を貫く弾頭が爆発すれば、辺り一帯は核の炎に包まれる。

 幸い、日本列島は水平線の彼方にあり、熱風が街を焼く事はないだろう。

 だが、放射能の雨が決して消えない傷痕を刻んでしまう。

 そして、放射能が届かぬほど、遥か遠くへ運ぶ時間は残されていない。

「なら、方法は一つさね」

 ターボ婆ちゃんは即座に決断を下し、弾頭を左腕で抱えたまま、眼下の海へと身を投げる。

 分厚い水の壁は熱だけでなく、放射能をも閉じ込める。

 何も知らずに泳ぐ魚達には申し訳ないが、もはやこれしか日本を救う手だてはない。

 だから、ターボ婆ちゃんは暗い海の底へと潜っていった。

 深く、深く、たった一人で。そして――


               ◇


「けひひっ、俺様も長いこと生きてきたが、空を走る奴がいるとはビックリだぜ」

 ミサイルを追って老婆が走り去った方向を眺め、金髪の吸血鬼は意地悪だが愉快そうに笑う。

 そして直ぐ、瞳に険悪な色を浮かべ、静かな海面を睨んだ。

「出てこいよ、テメエらのドブくせえ臭いが、海に潜った程度で消えると思ってんのか?」

 鋭い声に応じて、潜水艦ミシシッピを取り囲むように、海中から六つの影が現れる。

 軽自動車ほどの大きさをした黒く丸いそれは、海軍特殊部隊SEALsでも使われる小型潜水艇。

 その中から二名ずつ、計十二人の潜水服をまとった兵士が現れ、防水ケースから取り出した突撃小銃を吸血鬼に向ける。

 彼らのマスクに刻まれていたのは、身に纏う近代兵器とは不釣り合いな六芒星。

 アメリカ合衆国退魔総省・ヘキサ。

 妖怪殲滅を正義と掲げる狂信者達に囲まれ、吸血鬼はただ嫌そうに鼻を鳴らした。

「はっ、たったこの程度とは、俺様も甘く見られたもんだな」

 ヘキサの部隊が持つ銃には、おそらく純銀製の弾丸が込められており、それは不死身の吸血鬼にさえ傷を負わせる事が出来る。

 だが、流れる水も、最大の敵である太陽光さえも克服した彼は、そんな物を数発叩き込まれ程度で滅びはしない。

 そもそも、人体の反応速度を超越した高速で動き回れる彼に、銃弾なんて遅い物は当たらないのだから。

「さあクソったれ共、胴体とサヨナラしたい奴からかかってきな」

 長い犬歯を剥き出しにして凄む吸血鬼を前に、兵士の一人が動く。

 しかし、それは銃の引き金を引くのではなく、掌サイズのケースを彼に向かって投げる行為だった。

「あん?」

 爆弾を投げるしては間抜けすぎる。

 そう判断した吸血鬼は、目にも止まらぬ早さでそのケースを受け取り蓋を開いた。

 中に入っていたのは、ビニール袋で密閉された黒い通信機。

 訝しみながらもビニールを破き、彼が通信機を手に取った瞬間、まるでそれを見ていたかのように、通信機から声が響いてきた。

『まずは初めましてと言うべきかな、吸血鬼君』

 礼儀正しく落ち着いた中年男性の声。

 そこには、人の上に立つ者が持つ、独特の威厳が備わっていた。

 だが同時に、権力者の持つ傲慢と腐敗が、隠しようもなく漂っていた。

「はっ、通信機越しでも鼻がひん曲がりそうな臭さからして、テメエがこいつらのボスか?」

『ご明察だな、私がヘキサの長官を務めているミカエル・アンダーソンだ』

「けひひっ、テメエみたいなクソに名前を使われるとは、大天使様も可哀想になぁ」

『さて、君に一つお願いがあるのだが』

 名前を侮辱された事は無視し、合衆国退魔総省の長官――ミカエルは端的に告げた。

『このまま大人しく、私の部下に射殺されてくれないかね?』

「はぁ? 脳味噌にウジでも湧いてんのか?」

 例えテロリストの妖怪だろうと、大人しく殺されてやる奴が、どの世界に居るというのか。

 間抜けとは会話もしたくないと、吸血鬼が通信を切ろうとした瞬間、小さな溜息と共にミカエルは呟いた。

『そうか、では誠に遺憾ながら、ミシシッピを沈めさせて貰う事にするよ』

「……何だと?」

 聞き捨てならないその宣告に、吸血鬼は緊張した面持ちで問い返す。

「今、この艦を沈めると言ったか?」

『そうだが。君は太陽光さえ克服した千年級の吸血鬼だそうだが、陸から千㎞も離れた地点で海に沈められれば、流石に滅びるのだろう?』

 ミカエルの下したその推測は正しい。

 いくら耐性を得て致命的ではなくなっても、流れる水も太陽光も、吸血鬼の体には猛毒も同然。

 傾いてきたとはいえ陽が出ている今、波打つ太平洋に放り捨てられれば、泳げぬ彼は並の人間以下となって沈み、海の藻屑と化すのは免れない。

 だが、たったそれだけのために、潜水艦の乗員百三十名を犠牲にするというのか。

「ははっ、正気かよ。乗ってるのはテメエのお仲間、アメリカ人だぜ?」

 自ら道化師を名乗る吸血鬼ですら、乾いた笑みしか浮かばぬ凶行。

 だが、妖怪殲滅機関の長官は、全く変わらぬ落ち着いた声で断言する。

『吸血鬼に洗脳された者達など、悪魔に魅入られたも同然。神の御許に送ってやった方が慈悲だと、私は思うのだがね』

「…………」

 ――こいつは本気だ。

 それを感じ取り、無言となった吸血鬼に、ミカエルは重ねて告げる。

『しかし、海軍の連中がうるさいし、こうして運良く君と会談する機会を得られた。なので、せっかくだから君一人で死んで貰おうと思ってね』

 妖怪老婆が現れず、吸血鬼が潜水艦で海中に潜ったままだったなら、いったいどうなっていたのか。

 おそらく、仲間の救出を願う海軍の手前、目の前に居る十二名の兵士を艦内に潜入させるが、それは当然の如く吸血鬼によって全滅させられる。

 だが、その犠牲は予定通り。全力を尽くしたという建前のための生け贄。

 救助は断念、小型潜水艦を運んできた本命の潜水艦が攻撃を開始し、このミシシッピは沈められていたのだろう。

 怪物一人を滅ぼすために、百三十人の乗員を見殺しにして。

 まったく、お嬢さんは素晴らしいタイミングで現れてくれたぜ――とターボ婆ちゃんに感謝しながら、吸血鬼はある疑問を覚える。

 隠密性という点では、ステルス戦闘機すら上回る潜水艦。

 停止して音を消していたそれを、この広い太平洋の中から見付け出すのは、砂漠に落ちた小石を探すのに等しい。

 なのに、こいつらヘキサはどうやって、こんなにも早くミシシッピの居場所を掴んだのか?

 ターボ婆ちゃんですら、サトル君という反則紛いの協力者を得て、初めて知り得たその情報を、最新鋭の兵器を使いこなしているとはいえ、異能を持たない人間達が突き止めたという事実。

 その答えに気付き、吸血鬼はハッとして潜水艦を見下ろしたあと、天を仰ぎ笑い声を上げた。

「あひゃひゃひゃっ、マジで道化にされていたとは、こいつは傑作だ!」

 真相を悟った吸血鬼は、笑ったままセイルの上から飛び降りる。

 そして、老婆の破壊した艦首に立ち、堂々と胸を張り手を広げた。

「さあ、人殺しでロクでなしのテロリスト様が行う最後の善行だ。派手にキメろよ?」

 最早逃れられぬ死ならばと、潜水艦の乗員達を巻き込まぬため、身を晒した妖怪の道化師に向けて、十二名の兵士は一斉に引き金を引く。

 金細工のような髪が、象牙のように白い肌が、ルビーのように輝く瞳が、銀の銃弾に撃ち抜かれて血を撒き散らし、そして力を失った死体は太陽の光で焼かれ、灰さえ残らず消滅した。


               ◇


 吸血鬼が千年越しの死を迎えていた頃、海の底深くへと消えたターボ婆ちゃんは、再び空の住人となっていた。

 ただし、己の両足で飛ぶのではなく、バラバラとうるさいローター音を響かせるヘリコプターに乗って。

「まったく、何て無茶をするんですか!」

 ミサイルの爆発が観測され、UH―60J・救難ヘリコプターに乗って駆け付けた退魔庁の職員、氷川雫奈は文句を言いながらも、安堵した表情でターボ婆ちゃんの傷付いた体に包帯を巻く。

「匿名の電話がなかったら、海にお婆さんが浮かんでいるなんて思わず、助けられなかったかもしれないんですからねっ!」

「電話……やれやれ、メリーの嬢ちゃんかい」

 ターボ婆ちゃんと連絡が取れない事を心配したメリーさんは、その異能で老婆の背後に瞬間移動する。

 するとそこは海の上で、老婆は気を失い海面を漂っていた。

 海に落ちたメリーさんは彼女の体にしがみつき、必死に呼びかけるが目を覚まさない。

 仕方ないので老婆の背負っていた耐水ケースからGPSを取り出し、それで調べた位置を退魔庁へ連絡したという事だろう。

 後でお礼をしなければと、深く感謝する老婆を余所に、雫奈は嬉しそうに喋り続ける。

「でも、お婆さんの活躍で核ミサイルも撃ち落とされたし、潜水艦もアメリカの方で取り返したと連絡が来ましたから、これで事件は無事解決です。ようやくグッスリ眠れますよ!」

 まだ少しクマの残る顔で、雫奈はバンザイと両手を上げる。

 だがその前で、ターボ婆ちゃんは暗く俯き、そして呟いた。

「……なかった」

「えっ?」

「核ミサイルじゃ、なかったんだよ」

「えっ、えっ!?」

 訳が分からず首を傾げる雫奈の前で、ターボ婆ちゃんは両手で顔を覆い考え込む。

 あの時、海中へと引きずり込んだミサイルの弾頭は、浸水して壊れる事もなく爆発した。

 だが、それは十数mを吹き飛ばす程度の、ごく普通の爆弾だった。

 これは後で調べて分かった事だが、魚雷管から発射されたあのハープンは、そもそも対艦用のミサイルであり、核弾頭搭載の対地ミサイルではなかったのだ。

(なのに、何故打った?)

 悪あがきの嫌がらせ?

 あのおふざけが生き甲斐の吸血鬼ならば、十分有り得る話だ。

 実際にはそれに加えて、腐臭と嫌な予感を感じて、愉快で勇敢な老婆を遠ざけたかったからなのだが、その真相をターボ婆ちゃんが知る由はない。

 だが、一つだけ確信を抱く。

「――俺様達の目的は、核をロケットで打つ事だ」

「えっ、何ですって?」

「潜水艦を占拠した犯人が、そう言っていたのさ」

 驚く雫奈にそう説明し、ターボ婆ちゃんは再び考え込む。

 あの台詞は本人が言っていたように、おそらく真実だ。

 思い返しても、犯人の吸血鬼は実にふざけた奴ではあったが、嘘は何一つ言っていなかったのだから。

 ならば、答えは一つしかない。

「この事件は、まだ何も終わっちゃいないのさね」

 夕日が落ち、夜の闇に塗り潰されていく空は、まるでこの先を暗示しているように不吉な色をしていた。


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