【幕間 夢の小波】
彼の生まれ故郷にあったのは、飢餓と貧困と暴力と、そして麻薬だけだった。
気が付いた時にはもう両親は居らず、同じように捨てられた子供や、親の虐待から逃れてきた子供達と共に、路上で暮らし窃盗を繰り返していた。
仲間達が餓えや病気で死に、警官や麻薬組織に撃ち殺されていくなか、彼が生き残れたのはひとえに、顔もしらぬ親から引き継いだ異能のおかげ。
そして、ずっと彼の横に寄り添っていてくれた、たった一人の肉親、妹の存在だった。
「ねえ、お兄ちゃん。この海の向こうにはね、とっても豊かな国があるんだって」
腐敗し淀んだ街を背に、ただ鮮やかな青色が広がる海の前に立って、幼い妹はそう告げた。
「お腹が減ったり、病気で苦しんだり、怖い大人に追われる事もないんだって。まるで夢みたいだよね」
先進国と呼ばれる場所で生まれた者達にとっては、当たり前で特別の価値もないモノ。
平和と安全、それを言葉でしか知らぬ彼らにとって、海の向こうにあるその国は、まさに夢の楽園だった。
「何時か行けるといいね」
幼い妹はそう言って無邪気に笑い、足下の小波とじゃれ合い始めた。
明日の命も知れぬ浮浪児が、そんな叶いもしない希望を抱いた所で、虚しいだけだと人は笑うだろう。
けれど、その笑顔に救われてきたから、幼い彼はただ純粋に誓ったのだ。
「僕が連れて行ってあげるよ。何時か、絶対に」
そのために、この手をどれだけ汚す事になろうとも。
結論から言えば、その夢は叶えられた。
自分達とは違い、餓えても窃盗する事を拒み、残飯を食らい病気となって倒れた妹を救うために、彼はその身を売った。
仲間達を銃と薬で何十人も殺してきた、憎むべき麻薬組織に。
ただ、異能を持って生まれた彼にとって、それを有効活用できる裏の世界は、これ以上ない天職だったのだが。
麻薬や武器の密輸、敵対組織の要人暗殺。
そんな事を繰り返し、手を血で赤く染める度に、真面目に働いていたら一生手に入らない大金が転がり込んでくる。
そして金さえあれば、医者に病気を治して貰う事も、温かく美味い飯を食べる事も、雨露を凌げる家も、羨み続けた全てが容易く手に入った。
彼は有頂天になり、直ぐに罪悪感など忘れて犯罪をおかし続けた。
妹はそれを見て酷く悲しそうな顔をしていたが、兄をそこに追いやったのが、非力なくせに清廉潔白であろうとする、卑怯な自分のためである事を知っていたから、何も言えずにいた。
そうして二人は歳を取り、何時しか嫌っていた大人になった頃、彼は唐突に麻薬組織から足を洗う。
組織は当然、彼の能力を惜しむと共に、機密保持や面子の問題から、足抜けを許そうとしなかったが、女も博打もやらずに蓄えてきた莫大な金を献上されては、流石に嫌とも言えなかった。
そうして軽い身となった彼は、残った金で綺麗な戸籍とパスポート、船のチケットを二つずつ用意して、妹の元へと向かう。
幼い頃の約束を、数十年越しに果たすために。
「兄さんは、本当に馬鹿ね」
全てを理解した妹は涙を流し、あの日と同じように無邪気に笑った。
故郷を去り、豊かで平和で自由な、海の向こうにある夢の国へと向かう二人。
結論から言えば、その夢はあっさり裏切られる事となる。
新天地で二人を待っていたのは、人種差別という非情な現実だった。
肌の色、言語の違い、犯罪者の巣窟で生まれたというレッテル。
学がなかった事も災いし、どれだけ必死に訴えようとも、彼らを雇ってくれる者は居なかった。
結局見付かったのは、危険な現場での工事作業。
何時、深刻な怪我をするかも分からないのに、健康保険にすら入れぬ低賃金しか支払われない。
毎日汗だくになって働いては、治安の悪いスラム街のアパートに戻り、遊ぶ金もなくただ寝るだけの日々。
それは、生まれ故郷と大差のない世界だった。
豊かさも、平和も、自由も、一部の金持ちにしか与えられない幻想に過ぎなかったのだ。
そして、移民として差別されている彼らに、まともな手段で大金を得る事など不可能。
絶望し、再び犯罪に走り駆けた彼を止めたのは、やはり妹の言葉。
「兄さんがもう、悪いお仕事をして苦しまずに済むなら、それだけで私は幸せよ」
この手で殺してきた何百人という亡者に追われる悪夢から、悲鳴を上げ飛び起きた彼の頭を、妹はクリーニング屋の仕事で荒れた指で撫で、変わらぬ優しい笑みを浮かべる。
それに励まされ、真面目に働き続ける事を誓った彼に、転機はとても唐突に訪れた。
仕事帰りに汚い酒場で安い酒を飲んでいた時の事、場違いなスーツ姿の紳士が入ってきたかと思うと、彼の元に歩み寄り単刀直入に告げた。
「貴方、人間ではありませんね?」
正体を見破られ驚き固まる彼に、紳士は安心しろと言うように笑みを浮かべ、長すぎる犬歯を――彼と同じく、人間ではない証を見せつけた。
「お仲間と会うのは初めてですか? 一部の国を除き、我々のような存在は忌み嫌われ、発見された瞬間抹殺される事もしばしばですから、仕方のない話ですが」
宗教のせいもあってか、この国は特に厳しいですしね。
そう付け足してから、紳士は本題を告げた。
「私は主の命を受けて、貴方のような者達を集めているのです。今よりも良い賃金と住居を用意しますから、どうか一緒に来て頂けませんか?」
あまりにも話がうますぎ疑っていると、紳士は苦笑いして告げる。
「主は道楽者でして、失われていく種族を一目見たいだけなのです。他意はございません」
金持ちの動物園に珍種として飼われろ、そういう事なのだろう。
プライドと生活を天秤に掛け、彼は結局後者を選ぶ。
判断の基準だけは、手に血の臭いが染み込む前の、幼い頃から何一つ変わっていない。
大切な妹を幸せにしたい。
その願いだけを胸に、彼は怪物の巣へと足を踏み入れたのだった。