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【第一幕 無法の空】

 高度一万m、外気温がマイナス五十℃以下に達する極限の世界。

 空気も薄く、世界一高い山であるエベレストが八千八百mである事を考えれば、どれだけ過酷な環境か分かろうというもの。

 人が生きる事の出来ない、一部の鳥と鋼鉄の飛行機だけが許された、雲の上の世界。

 そこを、一人の老婆が駆けていた。

 飛ぶのでも、跳ぶのでもなく、その両足で力強く宙を蹴り、生身の人間には許されない遥か高き大空を、一心不乱に走り続けていた。

 ただ速く走る事だけを願い、重力の楔にすら打ち勝った怪異なる老婆。

 その名を、ターボ婆ちゃんと言う。

「常識に囚われてちゃ駄目さね。それじゃあ壁は超えられない」

 吐いた息が即座に凍り付く極低温の世界で、ターボ婆ちゃんは小さく呟く。

 人々の想念が噂という方向を得て、形を成した存在である妖怪。

 それは、想いによってエネルギーを生み出す、霊子と呼ばれる物質の塊。

 ならばこそ、強い想いが、鮮烈なイメージこそが、人が空を駆けるという不可能を可能にする。

「足場の構築速度はもう十分かね」

 ターボ婆ちゃんの足が何もない宙に下ろされた瞬間、足の裏から放出された妖力が、そこに不可視の床を形成する。

 それを踏んで一歩進み、新たな不可視の床を作り、またそれを踏んで進みと、同じ行動を繰り返す事で、老婆は何もない空を走り続けていられるのだ。

「問題はこの先さね」

 加速の果てに訪れる、文字通りの壁。

 地上付近だと秒速三四〇m、高度一万mだと秒速三〇〇mに変動するが、どのみち避けては通れない障害。

 音=空気の振動を超える速度を出した時に発生する、凄まじい衝撃波――ソニックブーム。

 ガラス窓を破り、大地を抉る音の爆撃たるそれは、生み出した本人すら傷付ける。

 超音速に達しようと言うならば、それを打破しなければならない。

「やってやるさね」

 ターボ婆ちゃんは威勢良く笑い、前傾姿勢になりながら、前方へ妖力を展開する。

 それは戦闘機の機首を思わせるコーン状になり、彼女の体を衝撃波から守る盾となった。

 準備は万全。あとは己の両足を信じるのみ。

「しっ!」

 気合を入れ、ターボ婆ちゃんの枯れ細った、だが何よりも強靱な両足が宙を蹴る。

 秒速二〇〇m、二四〇、二六〇、二八〇、二九〇――

 水のように重く固くなる空気の壁を、老婆の足が、何者にも屈しない心が打ち砕く。

 そうして、一際強い衝撃が走ったと思った瞬間、世界から音が消え去った。

「これが、超音速の世界……」

 足を緩めず走り続けるターボ婆ちゃんの耳には、一瞬前まで鼓膜を揺るがしていた、風を切る音はもう届かない。

 出る端からそれを追い抜き、置き去りにしていく速度へと達したのだから。

「あは、あはははははっ!」

 己は深い静寂に包まれながら、歓喜の笑い声と衝撃波による轟音を響かせ、白装束の老婆は空を走り続けた。

「また一歩近付けたさね」

 約一時間、千㎞以上、本州を横断するほど走り続けてから、ターボ婆ちゃんはようやく足を緩める。

 その顔は達成感に満ちていながらも、決して満足はしていなかった。

 彼女が目指すのはもっと先、物質の限界速度と言われる光速を超える事なのだから。

「まだ八十万分の一って所かい、先は長いねえ」

 目標は遥か遠く、だからこそやり甲斐が有ると、深い笑みを浮かべるターボ婆ちゃん。

 その後ろから、空を切り裂く音と共に、人の声が響いてきた。

『こちら退魔庁です。そこの妖怪、止まりなさい』

 振り返った老婆の目に映ったのは、青い洋上迷彩が施されたジェット機、航空自衛隊の主力戦闘機F―2B。

 その複座に座る眼鏡をかけた女性が、野球場ででも売ってそうな、安っぽいメガホンを片手に叫んでいたのだった。

 ターボ婆ちゃんは興味を惹かれ、速度を落とし戦闘機の横に並んで話しかける。

「面白い道具だね、それは霊具かい?」

『はい、海中や真空の宇宙でも会話が出来る《念話君》という――いやいや、そんな事より貴方、何でこんな所を飛んでいるんですか!』

 つい説明しようとした女性は慌てて頭を振り、眉を怒らせ叱り付ける。

 すると、ターボ婆ちゃんは不思議そうに首を傾げた。

「見て分からないかい? 走るのが好きだからだよ」

『いや、好きだからなんて理由で、ホイホイと重力に逆らわないで下さいよ!』

 最近、空を駆ける白装束の老婆が目撃されていると聞き、その正体を確認するため走り回っていた退魔庁の職員としては、怒声の一つも浴びせたくなる。

『事故とか直接的な被害は出ていませんけれど、妖怪の存在を世に知らしめるような行為は慎んで下さい!』

「あははっ、空を走る老人なんて奇怪なモノを見て、夢だと思う奴は居ても、妖怪だと疑う奴なんて居ないさね」

『その通りかもしれませんけど、自分で言わないで下さい!』

「そう怒るんじゃないよ、今度からは人目のない夜中に飛ぶからさ」

『なら大丈夫……かな?』

 言いくるめられて納得しかける退魔庁の女性を見て、ターボ婆ちゃんは可笑しそうに笑いながら、再び両足に力を込めた。

「それじゃあ、せっかくアタイを追って来てくれたんだし、いっちょ競争といこうじゃないか」

『いや、そんな事はいいから早く地上に下りて――』

「三、二、一,スタートッ!」

 制止の声も無視し、戦闘機の横から離れたターボ婆ちゃんは走り出し、一瞬で超音速まで加速した。

『きゃあぁぁぁ―――っ!』

 衝撃波で気体が揺れ、思わず悲鳴を上げる女性に、前席のパイロットが冷静に声をかける。

『後を追います、Gに気を付けて下さい』

『えぇーっ!? 私、ただの連絡員だから、そんなのに堪えられるほど体を鍛えてな、いやあああぁぁぁ―――っ!』

 またも制止の声は無視され、パイロットはスロットルを全開にして音速の老婆を追った。

 妖怪老婆と戦闘機、その異種格闘技的なスピード勝負は、互いの体力と燃料が切れるまで続くのであった。


               ◇


 東京都の中心、皇居や防衛庁の近くにある、何の変哲もない民間企業に擬装されたビル。

 そこが妖怪と戦う退魔師を統括する組織、退魔庁の本拠地だった。

 合法非合法を問わず情報を集め、怪異の存在が確認されたならば、即座に退魔師を派遣して然るべき処置を取らせる。

 警察庁や防衛庁と並んで、日本の治安を守ってきた影の組織――と言うと凄そうに聞こえるが、スーツを着た男女が机に向かい、パソコンのキーボードを打ち、電話を受け取り、書類に追われるという仕事風景は、一般的な会社と変わらない。

 そんな退魔庁の職員である眼鏡をかけた女性――()(かわ)(しず)()は自分の席に着き、目の前で美味そうにおはぎを頬張る老婆に怒りを爆発させていた。

「何で直ぐに止まらなかったんですか、おかげで私は酷い目に遭ったんですよ!」

「普通に生きていたら体験出来ない、超音速の世界を味わえたんだ、むしろ貴重な思い出だろう?」

「加速Gで失神&失禁して、おまけにゲロで溺れそうになった思い出なんて、穴に埋めて忘れ去りたいですよ!」

「嬢ちゃん、女の子が失禁やらゲロなんて下品な事を言うもんじゃないよ」

「お生憎様、毎日忙しいお仕事のせいで、気が付けばとっくに女の子と呼べない二十八歳アラサーの独身喪女ですっ!」

 周囲の同僚達から呆れた視線を送られているのにも気付かず、雫奈は半分八つ当たり気味に怒鳴り続ける。

 それを受けるターボ婆ちゃんはあくまで優しく、孫に対するように笑い続けるのであった。

「怒ってばかりだと別嬪さんが台無しだよ。そんなに独り身が寂しけりゃ、今度イイ男を紹介してやるさね」

「本当ですかっ!?」

「あんたより十歳ほど年下だが、可愛らしい顔をした坊主でよければね」

「年下!? むしろウェルカムです! 私は姉さんと違って財力なんて気にしませんから!」

 お説教も忘れて目を輝かせるショタコンは、同僚達から降り注ぐ憐れみの視線に気付かない。

 それに苦笑しつつ、ターボ婆ちゃんが席を立とうとしたその時、雫奈のデスクに乗っていたパソコンの画面が、いきなり真っ黒に塗り潰された。

「あれ? 電源は点いてるのに――」

「おい、何だこれ!?」

「駄目だ、全く反応しない!」

 異変は彼女達の居る部署だけではなく、退魔庁全体に及んでいたようで、あちこちから戸惑いの叫びが響いてくる。

「コンピューターウィルスかい? お国の組織ともあろうものが情けないね」

「くっ、何だか分からないけど、ともかく電源を引っこ抜いて――」

 妖怪老婆に呆れられた雫奈は歯噛みをしつつ、情報の漏洩や破壊を懸念し、物理的にパソコンを止めようとする。

 だがそれよりも早く、スピーカーから美しくも下品な声が響いてきた。

『ハロー、日本の善い子達、元気にしてるかなぁ?』

「何者っ!?」

 雫奈が呼びかけた所で返事がくるはずもなく、声は勝手に喋り続ける。

『俺様の名前は――そう、クラウンとでも名乗っておこうかな。ハッピーでクールな妖怪の道化師さ』

「クラウン……誰か聞き覚えは?」

 同僚達に呼びかけるが、皆揃って首を横に振り、黙って耳を澄ませる。

『このボイスメールは日本の退魔庁と防衛庁、ついでに首相官邸にもお届け予定なんだけど、ちゃんと届いているかい?』

「って事は、これは録音された物かい」

「防衛庁と首相官邸に電話で確認、急いで!」

「もうやってます!」

 頷くターボ婆ちゃんと、その横で動き出す退魔庁の職員を余所に、録音された声は陽気に告げる。

『簡単に言っちゃうと、これは脅迫状だ。十兆円用意しろ、さもなくば核ミサイルを発射する』

「なっ!?」

『嘘だと思うかい? 嘘だと思うよね? ところがどっこい嘘じゃありませ~ん♪』

 どこまでもふざけきった声には、まるで信憑性がない。

 けれど、国家機関の厳重に保護されたネットワークに侵入しているという事実が、それを嘘と断言させるのを躊躇わせた。

『核ミサイルなんて何処から用意したんだよって質問には、こう答えてあげよう。俺様は今、アメリカのバージニア級原子力潜水艦ミシシッピを占拠しているんだけど、これに核ミサイルが詰まれていたって訳。ね~、つまらない話だろ?』

「…………」

 荒唐無稽と思われた話に、現実味を帯びた単語が混じってきて、聞いていた退魔庁の職員達は一斉に凍り付く。

「これ、事実確認は?」

「今、首相が米国大統領に確認をしているそうですが……」

 自国の原子力潜水艦、それも核兵器を詰んでいたモノが何者かに奪われたなんて恥を、アメリカが認めるのだろうか?

 その疑問を予想していたように、声は軽い調子でとんでもない事を告げる。

『これだけ言っても信じない奴が居ると思うから、ミサイルを一発ブチ込ませて貰うぜ。核弾頭は使わないし、何もない海の上で爆発させるから安心しろよ』

「ちょっと、待って下さい!」

 雫奈は再び呼びかけてしまうが、録音された音声に何を言っても無駄。

 彼女達が知るのはもう少し後の事だが、同時刻に東京の東三百㎞の海上で、ミサイルによるものと思われる爆発が確認されていた。

『これでみんな信じてくれたと思うけど、疑われたら悲しいな~。その時は君らの首都に派手なキノコ雲を咲かせるだけだけどな』

 狂気を感じさせるこの声の主ならば、本気で東京を核の炎で焼き払いかねない。

 そう誰もが恐怖に固まるなか、声は嬉々として説明を続ける。

『期限は三日後の午前十時、それまでに十兆円を十等分して、次の口座に送金してね』

 真っ黒だったパソコンの画面に、スイス銀行をはじめとした、守秘性の高い銀行の口座番号が十個も現れる。

『この口座を凍結したり、俺様の居る潜水艦を探そうとしたり、迎撃のためにイージス艦を動かしたりしたら、その瞬間に核ミサイルを打つ。この音声を聞いている時点で、そんな事をするお馬鹿さんは居ないと信じているぜ?』

 つまり、彼には仲間が居て、余計な行動をせぬよう、見張りの目を光らせているという事か。

 それがブラフという確証がない以上、迂闊に動く事は許されない。

『説明はこんな所かな。それじゃあ日本の皆さん、楽しい週末を、けひひっ!』

 下品で不気味な笑い声を最後に音声は途絶え、パソコンの画面も元に戻る。

 だが、人々の胸に刻まれた冷たい恐怖は、決して消える事はなかった。

 それでも、彼らは己の使命を果たすために動き出す。

「首相官邸からの連絡は?」

「まだありません。ですが、米国との話し合いが長引いている事からして……」

「事実なんだろうな。まずはウィルスの発信源から調べる、防衛庁の方にもそう通達しろ」

「私は他国の退魔庁に連絡を取り、クラウンという名前とあの声について調べてみます」

 機敏に動きだした同僚達を見て、雫奈も固い表情で立ち上がった。

「お婆さん、貴方の口が軽いとは思いませんが、家へ帰す訳にはいかなくなりました」

 間違って外に漏れれば、未曾有の大混乱が起きる。

 それを考えれば、事情を知る者の身柄を押さえようと思うのも当然。

「仕方ないね、ゴザくらいは用意してくれるんだろう?」

「休憩室や医務室に、ちゃんとベッドがありますよ」

 あっさり受け入れたターボ婆ちゃんを連れて、雫奈はフロアを出て行った。

 今日は徹夜か、また肌があれるな――と、事の重大さに比べれば小さすぎる悩みを覚えながら。


               ◇


 翌日の早朝、睡眠も食事もろくに取れず、各所への連絡や確認作業を続けてきた退魔庁の職員達は、死体のようになりながらも各々の作業を続けていた。

 そこへ、ふと良い香りが漂ってくる。

「やれやれ、若いからって無茶しすぎさね」

 香りの元を求めた職員達が見たのは、白装束を身に纏った老婆、ターボ婆ちゃん。

 その手に握られたトレーには、湯気を立てる美味しそうなオニギリが沢山乗っていた。

「それ、私達のために作ってくれたんですか!?」

「台所と材料は借りたけど、文句はないだろうね?」

 驚く雫奈にターボ婆ちゃんは笑い返し、素早い動きで一人一人の手にオニギリを握らせていく。

 戸惑っていた職員達も空腹と香ばしい臭いには勝てず、齧り付ついて涙を零した。

「美味え、五臓六腑に染み渡るわ……」

「こういうのをお袋の味って言うのかな」

 今だけは核兵器で狙われている恐怖も、事件解決に向けるプレッシャーも忘れ、ただ美味そうにオニギリを頬張る職員達の姿に、ターボ婆ちゃんは満足そうに微笑んだ。

「それで、何か分かったのかい?」

 食後のお茶まで配り、心が落ち着いたのを見計らって切り出すと、雫奈は相手が部外者の妖怪である事もコロッと忘れて口を開いた。

「アメリカの原潜ミシシッピが、二日前から消息を断っていた事が判明しました」

「あの犯行声明どおり、占拠されたって事だね」

「はい、ですがそれを行った者の正体は依然不明です」

 どんな妖怪が何人で行ったのか。それとも、妖怪というのはブラフで、本当は人間の犯行――潜水艦の乗員が反乱を起こしたという可能性すら否定出来ない。

 まさか、クジラに乗って現れた、たった一体の吸血鬼によって、乗組員全てが洗脳されているなど、可能性として思い浮かべる者は居ても、本気で検討する者は居なかった。

「その潜水艦は、本当に核ミサイルを発射出来るんだね?」

「はい、艦首に垂直発射装置・VLSが十二基装備されており、対地攻撃型トマホーク・ミサイルを発射出来ます。もっとも、アメリカは核弾頭を配備していた事を認めなかったそうですが」

 そう言いながら、雫奈はパソコンの画面に潜水艦の画像を映し出す。

 防衛庁から貰った資料だが、流石にアメリカのガードが堅いからか、それとも退魔庁の下っ端職員には見せる気がないのか、書籍やネットで調べられる程度の画像しかない。

 だが、ミサイル発射装置の位置はしっかりと映っており、それを見たターボ婆ちゃんは目を細めながら、話題を少しずらす。

「ウィルスかハッキングか知らないが、あの犯行声明を仕掛けた奴は見付かったのかい?」

「それが、防衛庁の特殊情報機関――スパイとかの取り締まりを行っているメンバーが何とか探し出し、捕らえる所までは上手くやったのですが……」

「口を割らす前に自害された、って所かい?」

「はい……」

 先読みしたターボ婆ちゃんに、雫奈は沈痛な表情で頷いた。

「目的と仲間のためには命も捨てる。こりゃあ本気だね」

 あのふざけた声のせいで、どこか冗談めいていた脅迫だったが、最早疑いの余地は一片もなくなった。

「で、退魔師か自衛隊か、それとも両方かい。その潜水艦を見付けて叩くんだろう?」

 十兆円なんてふざけた額を払う事も、テロに屈する事も許されぬ以上、全力を以て抵抗するのは当然。

 監視の目があるような事を言っていたが、ならばそれをかいくぐって作戦を進めればいいだけの話。

 そう軽く尋ねたターボ婆ちゃんに反し、雫奈はさらに表情を曇らせてしまう。

「それが、無理そうなんです」

「広い海の中から潜水艦を見付け出すのが、砂漠に落ちた砂金を探すようなものだからかい?」

「それもありますが、アメリカから横槍が入ったのが問題で……」

 奪われた潜水艦はアメリカの物で、乗組員も当然アメリカ人。

「だから、これはアメリカの問題であり、日本は手を出すなと……」

「何時殺されるかも分からない状況なのに、指をくわえて見ていろって言うのかい!?」

 自分達の手で恥を注ぎたいというプライドも、極秘機密の塊である原子力潜水艦を、他国の手に触れさせたくないという思惑も分かる。

 だが、今狙われているのはこの日本。

 自分であり、両親であり、恋人であり、友人であり、顔を合わせた事もない、けれど失ってはならない大勢の人々なのに。

「そいつは、どう考えても道理が通らないだろう!」

 声を荒げるターボ婆ちゃんの前で、雫奈は悔しさを噛み殺すように顔を歪める。

「私だってこんなの許せませんし、政府も猛烈に抗議をしたそうです。けれど、あちらの退魔庁にあたる組織――通称『ヘキサ』が強固にこちらを拒み、余計な手出しをした場合は武力で排除するとまで宣告してきて……」

 五角形=ペンタゴンの形をした建物が有名な、アメリカの国防総省。

 それに似た国防組織であり、対怪物専門というオカルト的な面から、魔法陣にも使われる六芒星=ヘキサグラムの名を冠した、アメリカ合衆国退魔総省。

 陸軍、海軍、空軍、海兵隊、沿岸警備隊の五軍に次ぐ、第六の軍隊と呼べる戦力を保有しているから、ヘキサ=六という説もある。

 霊力を操る伝統的な日本の退魔師とは違い、最新の近代兵器で武装している彼らヘキサは、熱心なキリスト教徒であり、それ故に神の教えに反する怪物の存在を絶対に許さない。

「私も噂でしか知りませんけど、ヘキサの人達は本当に異常なんです。妖怪を殺し尽くすためなら、関係ない人達ごと村を焼き払う事すら平気でするんだそうです」

 八百万の神を奉り、怪異に寛容な日本人には分かりづらいが、一神教は時に排他的で恐ろしいほど無慈悲だ。

 それがどれほどのモノかは、神の名の下に行われてきた虐殺の歴史を紐解けば分かる。

「キリスト教原理主義者って言うんですか? そういう層を味方に付けているそうで、合衆国政府もあまり強く出られないそうなんです」

 特に保守的な南部に多く、それを敵に回す事は、支持者を大きく失う事を意味する。

 次の大統領選挙を間近にした今、同盟国の存続がかかっていようとも、合衆国政府も迂闊にヘキサを刺激する事が出来ないのだ。

「勿論、その非道なやり方に異議を唱える人も多く、ヘキサの権限を縮小しようという働きもあるそうですけど……」

 今はまだ、その力は衰えておらず、日本政府も軽々しく無視は出来ない。

「それじゃあ、このまま黙ってヘキサとやらに任せて、失敗したら核ミサイルを打ち込まれろって言うのかい!?」

「……っ」

 ターボ婆ちゃんが怒りを顕わに叫ぶと、雫奈は何やら思い出したようで、形容しがたい嫌悪を顔に浮かべた。

「何があったんだい?」

「……私が言われた訳じゃなく、直接抗議したウチの長官が、ヘキサのトップに言われたのですが――」

 促された雫奈は、憎しみを呑み込むように一度深呼吸してから呟いた。

「――『いっそ、黄色い猿は死んでくれた方が清々する』と」

「ふざけんじゃないよっ!」

 怒りのあまり本気で振り下ろしたターボ婆ちゃんの拳が、雫奈の机に大穴を空ける。

 だが雫奈本人も、それを横で見ていた他の職員達も、老婆を責める事はなかった。

「肌や目の色が違うってだけで、同じ人間を平然と何十万人も虐殺する。アメリカのやる事はあの頃から何一つ変わっちゃいないのかね!」

「そういう人達ばかりではない筈ですが……」

 けれど、そういった人種差別主義者が居るのも事実であり、彼らが国家権力に深く食い込んでいるのも事実。

 そして、最右翼の集まりである合衆国退魔省庁ヘキサのせいで、日本が身動き取れないのもまた事実だった。

「テロリスト共より、そいつらの方が憎らしくなってきたさね」

「正直、私も同じ気分です。ふぁ~……」

 毒づくターボ婆ちゃんに、雫奈は同意しながら溜息を漏らしてしまう。

 もう一日近く眠らず働き続けていた所に、美味しいオニギリで腹を満たしたものだから、怒りで忘れていた睡魔が今更ながら襲ってきたのだ。

 見回せば、同僚達も眠そうに船を漕いでいる。

「みんな疲れているだね、嬢ちゃんも寝たらどうだい?」

「でも、この一大事にそんな暇、うっ……」

 疲労を意識した瞬間、椅子からずり落ちそうになった雫奈の体を、ターボ婆ちゃんはそっと受け止める。

「悔しいが、今は出来る事がないんだろう? なら、いざという時のために休んでおくべきさね」

「……そうですね。分かりました、一時間だけ寝ます」

 優しい言葉に説得された雫奈は、最後の気力を振り絞って携帯電話に手を伸ばし、アラームをセットしてから机に身を投げた。

 そうして、直ぐに響いてきた寝息を背にし、老婆は一人歩き出す。

「頑張りたいのに、それを許されないってのは辛いもんだね」

 皆が大切な人を守るために、身を粉にして尽力しようとしているのに、大国の圧力がそれを妨げる。

 国家という組織に属する退魔庁や防衛庁の人間に、政治事情を無視した独断先行は許されない。

「なら、アタイがやるしかないさね」

 誰にも何にも所属しない、ただ走るのが得意な一人の妖怪。

 自分が勝手に暴走した事と、全ての責任を背負う覚悟を決め、ターボ婆ちゃんは強く足を踏み出す。

「それでも、迷惑だって責められるかもしれないけれど――」

 己のやろうとしている事が、どれだけ愚行か承知していながらも、彼女の胸に宿った炎を消せやしない。

「この国を、ここで暮らす人々を、二度と核兵器なんて物で焼かせる訳にはいかないんだよ!」

 もう六十年以上も前、まだ人間だった頃、あの地獄をこの目で見ているからこそ、老婆は悲劇を繰り返さぬために両の足で走り出した。


               ◇


 密かに退魔庁から抜け出したターボ婆ちゃんは、真っ先にある人物に電話をかけた。

『私、メリーさん。ただいま留守にしていませんの』

 響いてきた可愛らしい声――とある退魔師少年の家に居候している妖怪少女の冗談に、張り詰めていた気持ちが緩められ、ターボ婆ちゃんはクスッと笑みを漏らす。

「元気そうだね、メリーの嬢ちゃん」

『お婆ちゃんこそ最近ますますお元気で、ついに空を飛べるようになったと聞いたけど、本当なの?』

「相変わらず耳が早いね、本当だよ」

『それは凄いの! 是非、お空のお散歩に連れてって欲しいの!』

「あぁ、一段落したらね」

 可愛らしいお強請りをしてくるメリーさんに頷き、ターボ婆ちゃんは早速本題を切り出す。

「今、ちょいと日本がピンチでね、とある潜水艦を探さなきゃいけないんだが、その手の事が得意な奴を紹介してくれないかい?」

 人見知りのくせに妖怪の友人が多い彼女なら、情報収集に長けた妖力の持ち主も知っているかと思ったのだ。

 そう問うと、メリーさんは少し考え込んでから答えた。

『乗ってる人の顔と名前が分かれば、私がひとっ飛びして調べてくるの』

 彼女が妖怪『メリーさんの電話』として持つ、対象の背後に瞬間移動する異能。

 それを使って調べようという案に、ターボ婆ちゃんは首を横に振る。

「乗員の顔写真は入手出来るだろうが、艦内にどんな危険があるか分からないし、相手に気取られるような真似はして欲しくないから、悪いけどそれは却下さね」

『それじゃあ、サトル君に頼んでみるの?』

「サトル君?」

『私のお友達で、何でも知ってる都市伝説の妖怪なの』

 サトル君――公衆電話に十円玉を入れて自分の携帯電話にかけ、「サトル君、サトル君、おいで下さい」と呪文を唱えると、二十四時間以内にサトル君と名乗る人物から電話がきて、彼は自分の位置を告げながら徐々に近付いてきて、最後には背後に現れる。

 その時、どんな質問にも答えてくれるのだが、質問を用意していなかったり、背後を振り返ってしまったら異世界に連れ去られてしまう――という、ある意味コックリさんの系譜に連なる妖怪である。

「電話と背後に現れるあたりは、メリーの嬢ちゃんと似ているね」

『そうなの。だから仲が良くて、子供妖怪同盟を組んで何時も一緒に遊んでいるの――ネットゲームで』

「……最近の子供は、外でベーゴマやビー玉はやらないんだね」

『私、メリーさん。ベイブレードとビーダマンなら、和樹が仕舞っていたので遊んだの』

 その所有者たる少年は、従妹以外に友達が居なかったせいで、対戦用の玩具で独り遊びをしていたという悲しい逸話があるのだが、それはまた別のお話。

「ともかく、そのサトル君とやらなら、潜水艦の位置なんて簡単に割り出せそうだね」

『そうなんだけど……』

「何か問題があるんだね?」

 特徴的な語尾も忘れた暗い声を出されては、ターボ婆ちゃんでなくともそう気付く。

 促されたメリーさんは、気まずそうにその問題点を語った。

『その能力を使うと二、三日寝込むくらい疲れるから、軽々とは使いたくないそうなの。だから最近は質問を聞く前にクイズを出してきて、それに答えられないと――ネトゲ廃人になるまでアイテム収集を手伝わされるの』

「良く分からないが、死ぬほど辛い仕打ちって事は分かったさね」

 異世界に連れ去られて帰って来られないという意味では、本来の噂話通りではあるのだが。

 ともあれ、他の案も時間もない今、危険があろうとそれに縋る他ない。

「放って置いてもアメリカが解決するかもしれないのに、アタイが勝手に首を突っ込もうっていうんだ、多少のリスクは承知済みさね」

『……そんなに大変な事が起きてるの?』

 覚悟に満ちた声を聞き、心配そうに尋ねてくるメリーさんに、ターボ婆ちゃんは力強く笑い返す。

「何も心配する事ないさ。嬢ちゃん達の――子供達の未来は、どんな事をしても守り切ってみせるさね」

 それだけが、愛する人を亡くして孤独の内に死に、妖怪と成り果てた彼女に残された、最後の願いなのだから。

 何の保証も根拠もなくとも、力強いその言葉を信じ、電話口の向こうで少女も笑う。

『私、メリーさん。なら大人しく待っているから、全部終わったらちゃんと教えて欲しいの』

「あぁ、とびっきりの冒険譚を聞かせてあげるよ」

 ターボ婆ちゃんはそう告げて通話を終え、公衆電話を探しに走り出した。



 メリーさんから聞いた通りの手順を済ませてから二時間後、逸る気持ちを沈めるため、人気のないビルの屋上で瞑想していたターボ婆ちゃんの前で、携帯電話が待望の着信音を鳴らした。

「もしもし、サトル君かい?」

『やあ、今駅前に居るよ』

 幼い少年の声はターボ婆ちゃんの問いに答えず、電話を切ってしまう。

 だが、直ぐにまた電話がかかってきて、ビルに近付いた事を告げる。

 そんな事を何度か繰り返し、電話口の少年はようやく老婆の背後に現れた。

『やあ、今君の後ろに居るよ』

「待ちくたびれたよ。早速聞きたいんだが――」

『おっと、先に僕からクイズを出させて貰うよ。それに答えられなかったら――』

「ゲームのお手伝いだろう、知っているさね」

 そうサトル君の言葉を制した上で、ターボ婆ちゃんは改めて問う。

「聞きたいのは本題に入るための前提、あんたが本当にどんな答えも知っているのか、って事さ」

 あらゆる答え=全知。それは神の力だ。

 島国のローカルな妖怪が振るうには、あまりにも強大すぎる。

 そんな当然の疑問に、電話口の少年は素直に答えた。

『なるほど、先に断っておかないとフェアじゃないものね』

「つまり、あんたは何でもは――例えば、時間を巻き戻す手段や、運命を変える方法なんてものは知らないんだね?」

『うん、知る訳ないよ』

「…………」

 事件とは関係ない、個人的な願望に関わる質問をあっさり拒否され、ターボ婆ちゃんは心の中で僅かに落胆する。

「じゃあ、どの程度なら答えられるんだい?」

『簡単だよ、《人間が知っている事なら全て》さ』

「そいつはまた、とんでもないね……」

 期待は裏切られたが、予想以上の答えが返ってきて、ターボ婆ちゃんも流石に驚き息を呑む。

『集合無意識とかアカシックレコードとか、まあ呼び方は何でもいいけどね、人間が蓄えてきた莫大な知識の宝庫に接触し、必要な情報を引き出すのが僕の能力だから』

「なるほど、数日寝込むのも仕方ない、頭の痛くなりそうな作業さね」

『だから、今現在の事であればほぼ答えられるけど、未来の出来事は全く分からないし、ずっと昔の事も分からないよ』

「過去も駄目なのかい?」

『だって、何百万年も前に人間は居なかったでしょう?』

「そりゃそうだ」

 ターボ婆ちゃんは納得して頷く。

 恐竜の生態や、果ては地球誕生の瞬間を知ろうにも、その時代に観測して知識を蓄える人類が居なかったのではどうしようもない。

 それでも、考古学者なら喜びのあまり卒倒しそうな、数千年前の情報は得られるのだろうが。

『最新の宇宙論とかなら、いくらでも答えられるけどね』

「そんな、何時ひっくり返るか分からないモノに興味はないさね」

 ターボ婆ちゃんが求めているのは、不確定な推測や計算式ではない。

 この妖怪少年ならば答えられる、今現在の確かな情報。

「よし、じゃあクイズを出しとくれ」

『潔い人だね、嫌いじゃないよ』

 確認を終え、覚悟を決めたターボ婆ちゃんに、電話口の少年は容赦のない問いをぶつける。

『問題です、宇宙の果てには何があるでしょうか?』

 そんな答え、誰も知るはずがない。

 だからこそ問う。人類の知り得ない、膨大な知識の宝庫にも刻まれていない何かを得て、久しく忘れた新鮮な驚きと感動を得たくて。

『さあ、宇宙の果てには何があるのかな?』

 諦めを子供らしい意地悪さで隠し、重ねて問うサトル君に、ターボ婆ちゃんは僅かも迷わず答える。

「教えてやるさね」

『えっ?』

「宇宙の果てだろうと何だろうと、この足で辿り着き、この眼にしっかり焼き付けて、あんたに教えてやるさね!」

 騙すつもりも誤魔化すつもりもなく、妖怪老婆は本気でそう言い切る。

「アタイはいずれ光を超え、時さえも超えようって女だよ。今直ぐにとはいかないが、絶対に宇宙の果てを見てきてやるさ!」

『何ですかそれ、答えになってませんよ……』

 サトル君が呆れるのも無理はない。幼稚園児の口にする出世払い並に説得力も根拠もない、前貸しをしろと言っているのだから。

『――けれど、嫌いじゃないですよ』

 嘘で誤魔化す事も、インチキだと誹る事もなく、真っ向から自分の望みを受け止めてくれた老婆の後ろで、サトル君は爽快な笑みを浮かべた。

『いいですよ、今回は貸しにしておきます』

「じゃあ、アタイの質問に答えてくれるんだね?」

『はい、その代わりに絶対、いつか宇宙の果てを教えて下さいね』

「あぁ、約束するよ」

 ターボ婆ちゃんは感謝を込めて、ただ深く頭を下げる。

 そうして、人知の宝庫たる少年に問う。

「妖怪に乗っ取られたバージニア級原子力潜水艦ミシシッピ、その位置を教えておくれ」

 日本を狙う核兵器の脅威、それを自らの足で粉砕するために。


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