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線路

作者: 凛音

窓辺に肘をついて外を眺めていると、余りに早く景色が進んでいくせいか、徐々に気分が悪くなっていくような気がした。焦点をずらして出来るだけ遠くの方を見ると、何だか気後れしてしまいそうなほど綺麗な空の青さが、目をまっすぐに射る。

ふと向かい側に座っている老人に視線を移すと、しわくちゃな顔のそのじいさんは正体なく眠りこけていた。古ぼけた帽子が目の上にずり落ち、大きな鼻の穴と、だらしなく開いた口だけが見えている。

僕は窓のブラインドを下ろし、床に屈んで自分の荷物を持ち上げると同時に、先ほどじいさんの膝から滑り落ちたエロ本を拾い上げて、その隣の空席にぽんと放り投げておいた。


がらんとした車内に、朴訥とした優しいアナウンスが響き渡り、次の駅が終点であることを告げる。最後に聞いた時よりも声はずっと低くなっているが、それでも話し方は記憶と変わらない。電車のアナウンス特有のアクセントが、彼の柔らかい声にはよく合っていた。


駅に降り立つと、冬のぴりっとした風が肌を刺すように冷たく吹き付けた。マフラーを巻き直しながら、僕はゆっくりと電車の最後尾の方へ歩いていった。

車掌室から、小柄な青年が出てきた。僕より15cmは背が低い。皮肉なことに、どうやら僕の兄貴は母さんに似たらしい。




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今から18年前、僕の両親は離婚した。

当時5歳だった僕にはよくわからなかったが、それでも明日から家族がばらばらになるのだということだけはわかった。

僕は母さんに引き取られて母さんの実家に向かい、6つ上の兄貴は父さんと残った。

今でも離婚の理由ははっきりとはわからない。わかっているのは、母さんに非があったということだけだ。母さんに聞けば詳細を教えてくれるかもしれないが、まあ今となってはもうどうでもいいことだ。


僕が小学校を卒業した日、父さんが亡くなったという知らせが届いた。あまりにも突然だった。

卒業式が終わるとすぐに、僕は着の身着のままで新幹線に乗せられた。母さんは昔皆で住んでいた家まで僕を送ってくれたが、そこから先には決して入ろうとはしなかった。僕が止める間もなく母さんは立ち去り、入れ替わりに家から出てきた父さんの妹が、僕を中へと連れて行った。


父さんのことは大好きだった。今から思えばほとんど口を利かない人だったが、兄さんと僕を野球場に連れていっては、母さんに内緒で身体に悪い美味しい物を買ってくれた。


人が死んでいるのを見るのは初めてで、僕は棺の中で静かに横たわる父さんが死んでいるとは到底思えず、衝撃のあまり泣くことすら出来なかった。父さんの死を、身をもって実感できなかったのだ。


遺族が焼香をあげるとき、僕は6年ぶりに兄貴を見た。兄貴は当時18歳になっており、葬式では喪主を務めていた。兄貴は泣いていなかった。その代わり、一言も喋ろうとしなかった。ただ茫然自失として父さんの遺影を見つめている兄貴の姿が、やけに強く僕の印象に残っている。




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それっきりだった。僕は兄貴に声を掛けられなかったし、向こうも僕の姿に気づいてさえくれなかったようで、僕らは実の兄弟であるにも関わらず、言葉を交わすことなく再び別れたのだった。


葬式の後、駅まで叔母さんが送り届けてくれた。ホームのベンチにぼんやりと空を見つめて座っている母さんの姿があった。母さんは僕の卒業式に出たままの姿で、自分で作った綺麗なコサージュが胸からずり落ちていた。僕の姿を見ると、母さんはしばらく何も言わなかったが、やがて「お兄ちゃんに会えた?」とかすれた声で尋ねた。僕は母さんを無視して、ホームに滑り込んできた電車に乗った。その時、僕は母さんが憎くてたまらなかった。母さんのせいで僕たちは離れ離れになり、父さんとも兄貴とも会えなくなり、家は貧乏になり、皆が持ってるゲームボーイも買ってもらえず、そして父さんは死んだのだ。全部母さんのせいだと思った。


父さんが死んで一ヶ月が経っても、兄貴がこっちに来ることも、僕たちがあっちに行くこともなかった。母さんの口から兄貴の名前が出ることはそれきりなく、僕も兄貴のことを母さんに聞こうとはしなかった。




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去年の春、大学を卒業すると、僕は製薬会社に就職した。

そして今年の6月に突然、兄貴から手紙が届いた。小さく小さく折りたたまれた1万円が同封されていて、手紙には「無事就職したと聞きました。おめでとう」と丁寧に書いてあった。便箋の線からいくつかの文字が思いっきり逸脱しており、就職の「職」は「識」になっていた。


どうして今頃になっていきなり連絡を寄越してきたのか、僕には見当もつかなかった。就職の件についてはもちろん母さんから聞いたのだろうが、時期が激しくずれている。


僕は母さんには何も言わず、兄貴の住む町へ出かけた。

そして、兄貴の家にたどり着く前に、この小さな私鉄で車掌をしている兄貴を見つけたのだった。


僕が見た時、兄貴は暴れる酔っ払いと格闘していた。兄貴は、自分と似たような田舎っぽい運転手と一緒に、その酔っ払いを必死に抱きかかえ、大声で喚くそいつを電車から連れ出していた。

やっとのことで電車から降りたその次の瞬間、胸糞が悪くなるような呻き声を上げたかと思うと、酔っ払いは兄貴の肩に思いっきり嘔吐した。


券売機に走ると、僕は即座に帰りの切符を買って、向かい側のホームの終電に滑り込んだ。

何に対してなのか解らない悔しさと憤りで、目尻に涙が滲んだ。


来るんじゃなかった。


何度もそう呟く僕の声を、電車は騒々しく掻き消してくれた。




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それなのにどうして再びこの駅に自分が降り立っているのか、自分でも解らない。


僕がじっと見つめていることに気づいたのか、兄貴は僕の方を見た。でも、その目は僕を弟だと認識していなかった。

兄貴は人のよさそうな犬みたいな笑顔を浮かべて、僕に近寄ってきた。


「温泉に行かれるんですか?」

「温泉?」


僕は思わず聞き返した。すると兄貴はあれっというような顔をした。


「あ、失礼しました。この辺なんて有名なものと言ったら温泉しかないんで、てっきりお客さんもそうなのかと」

「いえ、僕は……」


あなたに会いに来たんです、なんて、このシチュエーションで言えるわけがない。

僕は仕方なく方向転換した。


「あの……電車、好きなんで。ただ乗りたくて来たんです」





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厄介なことになってしまった。

まさか兄貴が本物のテツであるとは夢にも思わずに、軽々しくも「電車が好き」などと言ったもんだから、僕は兄貴を大いに喜ばせてしまったのだ。

電車について熱く語る兄貴に圧倒されながら、僕はいつの間にか右手にホットココアを握らされ、ベンチに座らされていた。


兄貴は、元気そうだったし、幸せそうだった。

今年29になるはずだが、結婚はしていないようだ。一人暮らしなのかとさりげなく尋ねると、電車がいれば寂しくなんてないですよと返され、挙句の果てにはおたくもそうでしょうと決め付けられた。

身の上話をする羽目になったのには参った。僕は適当な話をでっちあげたが、年をごまかすのを忘れていたのだ。


「23ですか! 俺の弟とちょうど同じぐらいですよ」


僕がどきどきしているのに構わず、僕が弟であることにも全く気づかないまま、兄貴は僕についてぽつぽつ喋った。もう長い間会っていないこと、連絡を取ってすらいないこと、兄の顔などとっくの昔に忘れ去ってしまっているだろうこと――忘れてるのはあんたの方だろうが、と内心笑いながら、泣きそうになるので困ってしまう。





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1時間に1本来るか来ないかの電車を3本見送った後、兄貴はもうすぐ仕事だからと立ち上がった。


「すみませんね。周りにいるテツ仲間は古い知り合いばっかなんで、新しく出来てつい嬉しくて、べらべら喋っちゃいました」


あの大通りのこのコロッケ屋さんが美味しいですよ、と一方的に僕に勧めると、兄貴はさっさと歩いていった。

その後ろ姿を見送りながら、あんなに人のペースをかき乱す人だっただろうか、と思い、僕は思わず笑ってしまった。



――思えば、こういう再会の仕方のほうが、良かったのかもしれない。

僕は切符を差し出して駅員さんに切ってもらうと、一つしかない改札から外に出た。


そのコロッケ屋さんに行ってみようと、思った。

ほかほかのコロッケを持って、兄貴の家の前で待ち伏せするのだ。寒かったらおでんを食べて待っていればいい。

僕を見た時、兄貴はどんな顔をするだろうか? 通報されてはかなわないから、早く身分を明かしてしまおう。



23歳になった、あなたのただ一人の弟です、と。









                        Fin. 

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