第30章 完
夜の帳が完全に払われるよりも遙か前、まだ世界の底に冷ややかな薄闇が澱んでいる時間帯に、茜はノートパソコンの画面を静かに押し上げた。
四畳半の狭い室内は、いまだ深い静寂に包まれている。液晶画面が放つ青白い直線的な光だけが、折りたたみテーブルの表面を孤独に照らし出す唯一の光源だった。その頼りない明かりの届く範囲には、おびただしい数の修正線が引かれた小さな手帳や、カッターの裁断ラインが歪んだ不格好な紙の残骸、端的に言ってとっくに熱を失って冷めきったマグカップが、昨夜の地続きのままそこに転がっている。
茜はその散乱する生活のディテールに一瞥もくれることなく、ただ画面の中央で点滅する黒いカーソルの動きに全神経を集中させていた。数時間前に、彼女が脳の細胞を絞り尽くして書き換えた、あの決定的な一行のすぐ後ろがその定位置だった。
――ミナミの足は、最後に、あの少女を最初に拾い上げた川の土手へと向かっていた。
その文字列の下には、まだ一枚の汚れもない真っ白なデジタル画面の空白がどこまでも広がっている。茜はその深淵のような空間を、ずいぶんと長い間じっと見つめ続けていた。
始まりの川の土手。異世界からやってきたシーナという不器用な少女が、見知らない現代世界の手触りに初めて触れた場所。怠惰な日常を貪っていたミナミという男が、彼女の頑なな瞳を最初に発見した場所。二人のちぐはぐな生存の方程式が、奇妙に噛み合って回り始めたあのすべての境界線。 今――二人の足跡が、自らの意志で再び巡り合うべき宿命の舞台。
茜は深く、ゆっくりと胸の奥の空気を吐き出すと、キーボードの上に自らの両手を構えた。
「……よし。終わらせよう」
暗闇に向かって低く呟き、彼女の人差し指が最初のキーを力強く押し下げた。新しく削ぎ落とされたクオリティの文字列が、堰を切ったように画面の上に溢れ出ていく。
ミナミは、夏の終わりの微かな冷気を孕んだ川の土手の上に真っ直ぐに直立していた。
濁流の流れる音は、昨日までと全く同じ単調なリズムで鼓膜を叩いている。そこに劇的な奇跡の予兆は何一つ存在していなかったし、この場所で自分の退屈な人生のシステムが根底から組み替えられたのだという事実を証明するような、もっともらしい記号もどこにも転がってはいない。真夏の生ぬるい風が、草の匂いを巻き込んで水面を緩やかに撫でていくだけだ。ミナミは両手のひらを、シャツのポケットの奥へと深く忍ばせた。
自分自身、この場所で一体どんな都合のいい展開を期待しているのか、彼自身にも分からなかった。シーナがそこに佇んでいるかもしれないし、あるいは、もうとっくに別の世界の果てへと運ばれていってしまった後かもしれない。
だが、彼の思考がそれ以上の絶望の変数を検索するよりも早く――彼の目は、ある一つの具体的な輪郭を捉えた。
数十メートルほど離れた下流の岸辺に、一人の少女がぽつんと佇んでいた。その長い髪の先端が、風の呼吸に合わせて緩やかに揺れている。ミナミの足の動きが、その場でピタリと完全停止した。
世界から、すべての雑音が消失したかのような、奇妙な錯覚が彼の神経を支配する。ミナミはただ、その不器用な後ろ姿を見つめ続けた。
少女がゆっくりと首を巡らせた。二人の一対の瞳が、空間の真ん中で真っ直ぐに交差する。
空に劇的な光の亀裂が走ることもなければ、世界の理がひっくり返るような魔法が発動するわけでもない。ただの、名前も知らないありふれた街の片隅で、離ればなれになっていた二人の生々しい人間が、再び同じ地面を踏みしめて立ち尽くしている。ただそれだけの、不格好で具体的な現実の景色だった。
シーナはいつも通りの硬質な歩調で、一歩ずつこちらへと歩み寄ってきた。
「どうして、あんたがここにいるのよ」
彼女の声のトーンは平坦で、そこに親愛の情も動揺の色も一切浮かんでいなかった。
ミナミはすぐには言葉を返さなかった。自分の喉の奥から、どんなもっともらしい言い訳のセリフを引っ張り出すべきか、彼の脳内のデータベースは完全に混乱していたからだ。
「……探したんだよ、あんたのこと」
「知っていたわ」
「何でだよ」
シーナは軽く両肩をすくめてみせた。
「さあね。そんなの、ただの勘よ」
ミナミの唇の端に、かすかな苦笑が浮かんだ。彼はあと数歩だけ進み、彼女との距離を縮めて足を止めた。
喉の奥まで競り上がってきている言葉の山は、それこそ星の数ほどあった。アイツが去った後の四畳半の部屋がどれほど不格好に広く感じられたかということ。生活費を維持するためのお金の方程式の厳しさ。自分が新しく始めた、倉庫の泥臭い肉体労働の過酷さ。 自分がどれほど過保護な停滞の中に身を浸し、他人の善意を貪るだけの疾患に冒されていたかという、その恥ずかしい自覚のすべて。
だけど、いざ彼女の深い瞳をまっ正面から見つめ返した瞬間、彼の唇の隙間からこぼれ落ちたのは、たった一言の、最も飾りのない短いセリフだけだった。
「……悪かった」
シーナは言葉を返さなかった。ミナミは視線をわずかに落とし、木目の床の傷を見るような目で地面を見つめた。
「俺……ずっと、昨日までと同じ日常が、何もしなくてもそのまま都合よく回り続けるって思い込んでたんだ」
彼は喉の奥から、自嘲の笑いを低く吐き出した。
「何気ない不条理が起きたって、時間が経てば勝手にシステムの側で解決してくれるだろってさ。……だけど、そんな美味い奇跡なんて、どこにも転がってねえんだな」
少女は沈黙を維持したまま、身動き一つしなかった。ミナミはもう一度、顔を上げた。
「俺、仕事始めたんだ」
シーナの深い瞳が、驚いたようにわずかに見開かれた。
「……え?」
「パートだけどさ、倉庫の荷出しの仕事をやってる。毎日、筋肉痛で死にそうだけど」
「どうして……そんな泥臭い真似を始めたの?」
ミナミは少しだけ目を泳がせた。そのあまりにもシンプルで直球な詰問は、自らのプライドにとって最も答えるのが難しいものだった。
「……だって、あんたの言ってたことが、完全に正しかったからだよ」
シーナは静かに視線を足元へと落とした。ミナミは言葉を止めなかった。
「自分がこの数日間の生活で、劇的に賢い大人の人間に成長できたかどうかなんて、俺には全然分かんねえ。多分、まだ中身は空っぽのままだ。だけど――俺のこの足で、ちゃんと生活の地面を踏みしめて歩き回ってみたいってことだけは、本気で思ってるんだ」
静寂の中で、数十秒の時間が流れていく。シーナは胸の奥から、長くて重い吐息を深く吐き出した。
「……本当に、手のつけられない大馬鹿野郎ね、あんたは」
ミナミは堪えきれずに、クスクスと低い笑い声を漏らした。
「ああ、知ってるよ」
「私は、あんたに今すぐ完璧な人間に変われなんて、そんな無理な命令は出してないわ」
「分かってるよ」
「自分の本質をへし折って、世界の好む別の記号になりきれなんて、そんな不誠実な要求もしてない」
「分かってるって」
シーナは再び顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「だったら、どうして私を呼び戻しにきたのよ。理由を聞かせて」
ミナミはもう躊躇わなかった。彼の知性のロジックは、今度こそ迷うことなく、最も誠実な一行のセリフを喉の奥から引っ張り出してきた。
「あんたに、あの部屋へ帰ってきてほしいからだよ」
シーナの唇が微かに動いたが、言葉にはならなかった。ミナミは声を少しだけ低くして、自らの魂の願いを真っ直ぐに告げた。
「昨日までと同じ、あの過保護で退屈な日常に巻き戻したいから言ってるんじゃない。今度は……あんたという一人の人間と一緒に、全く別の新しい生活のルートを、俺自身の足で一から組み立ててみたいんだ」
シーナは長い長い沈黙の中でミナミの顔を見つめ続け、やがて、諦めたように視線を斜め下へと滑らせた。
「……本当に、これ以上ないほどに迷惑な男ね、あんたは」
「かもな」
ミナミは穏やかに笑った。
二人がこの未開の荒野の地で再会を果たして以来初めて、シーナの頑なな唇の端が、ほんのわずかに、柔らかな本物の笑みの形へと歪んだ。
茜はキーボードを叩く指の手を止めた。液晶画面の上に並んだ二人の会話を、冒頭の一行から丁寧になぞり直す。
彼女の右手は、無意識の反射のように再びキーボードへと近づき、その二人の微笑みの描写のすぐ後ろに、さらに抒情的な説明の文章を肉付けしようとした。シーナの胸の中にどれほど劇的な救済の光が満ち溢れたかということ。ミナミの精神の檻がどれほど美しく解き放たれたかということ。お互いが抱く名もなき感情の動機を、もっともっと分厚い段落にして、世界に向かって親切に証明してあげなければならないと、アマチュア作家のエゴが彼女の脳の神経を激しく誘惑する。
しかし、茜は静かに首を横に振り、自らの両手を膝の上へと引き戻した。
――いいえ、必要ないわ。
シーナはすでに、自らの不器用なセリフで答えを出している。ミナミも自分の流した汗の質量を使って、胸の中にある最も誠実な一行を告げ終えている。これ以上の美辞麗句を肉付けして、読者の耳元で説教を重ねるなんて、それこそ小説の生命法則に対する最悪の裏切りだ。沈黙という名の美しい空白を、一人の読者の想像力へと委ねなければならないのだ。
茜は液晶画面の上で滞っていた二行の蛇足の説明を選択すると、消去キーを叩いて綺麗さっぱり消し去った。そして、次のページの階層を開き、二人の生活が新しく動き出す、地味で具体的な次の場面の執行へとプロットを進めた。
二人はすぐにアパートへと引き返したわけではなかった。傾きかけた陽射しが土手のススキの穂を淡い黄金色に染め上げる中、並んで腰を下ろし、他愛のない世間話をしばらくの間続けた。
ミナミが新しく始めた倉庫の荷出し業務について語ると、シーナは彼が本当に自らの意志で働く肉体を獲得したという事実に対して、心底驚いたような目を向けた。ミナミが全身の強烈な筋肉痛を大げさにこぼしてみせると、少女はめずらしく、低く鈴の鳴るような笑い声を零した。
「結構なことじゃない」
「何が結構なんだよ」
「身をもって労働の本質的な痛みを味わうのは、あんたの怠惰な脳組織にとってこれ以上ない薬よ」
「まるで俺の敗北を祝ってるみたいに聞こえるな」
「まさにその通りだからよ」
ミナミは重苦しい溜息を深く吐き出した。
二人の会話は、その後も淡々と続いていった。そこには、将来の大きな成功の方程式も、明日からの生活が劇的に快適になるような甘い約束も何一つ並んではいなかった。ただ、これまで過保護な停滞の中で見落とし続けていた、徹底的に些細な生活のディテールについてだけを、二人は静かに確かめ合っていた。
朱色の夕日が水面の向こう側へと沈み始める頃、ミナミがゆっくりと腰を上げた。
「……帰るか」
シーナは彼を見上げた。その瞳の奥には、かすかな、しかし動くことのない覚悟の色が湛えられている。
「本当に、いいのね?」
ミナミは小さく、しかし確かな動作で首を縦に振った。
「あんたがその気ならな」
シーナも土手の草を払って立ち上がった。二人は、同じ家路に向かって歩調を合わせた。近すぎることもなければ、遠すぎることもない。ただ、今度の彼らの二本の足は、間違いなく同じ一つの境界線の内側を目指して真っ直ぐに動いていた。
茜はキーボードの上で指先を滑らかに走らせ続けた。室内の静寂を刻むようにして、一定の打鍵音が心地よいリズムを伴って響き渡る。
その後の日々も、四畳半の世界が突如として完璧な楽園へと変貌するような美味い展開は訪れなかった。ミナミは相変わらず倉庫の現場で初歩的な失敗のログを積み重ねては叱責を浴びていたし、買い出しのメモを忘れて台所の棚の前で立ち往生することも珍しくはなかった。疲れ果ててシャツも脱ぎ捨てずに床に沈没する夜だって、何度も繰り返された。
シーナもまた、ある朝目覚めた瞬間に、すべてを許容するお淑やかな聖女に急成長していたわけでは決してなかった。彼女は相変わらず不器用なほどに規律を重んじて眉をひそめ、ミナミの大雑把な行動に対して長々と四角四面な小言を垂れ流し、彼からすれば長すぎるほどのハウスルールを几帳面にノートに書き殴り続けていた。
だが、昨日までの地続きの日常と、今朝のフロアの空気の間には、たった一つだけ決定的な違いが存在していた。
二人は、それを「言葉」にして話し合うようになっていたのだ。
手順を間違えたなら、自らの手のひらを使ってその場で修復すればいい。意見が衝突したなら、テーブルを挟んでお互いのロジックを納得がいくまでぶつけ合えばいい。片方の備蓄が底を突きそうなら、もう片方が自らの汗を使ってそれを補えばいい。それは、二人が完璧な人間に変われたから起きた奇跡ではなかった。ただ、他人と共に生きるということは、相手を自分の都合の良い記号に変形させることではなく、お互いの不格好な歪みをそのまま認め合うことから始まるのだという事実を、彼らの知性が静かに観測し始めたからだった。
四畳半のアパートは相変わらず狭く、台所のシンクは小さく、毎月の家賃の方程式は彼らの財布を圧迫し続け、毎日の労働は肉体を激しく消耗させた。しかし、その不合理な生活の重みこそが、その空間をただの檻から、彼らの本物の「家」へとゆっくりと熟成させていくのだった。
茜は打鍵の手を一瞬だけ止め、液晶画面の文字の連なりをいくつかめくり直した。プロットを回すための劇的な対立など、もうこのお話には必要ない。彼女の直感は、次のチャプターの執行へと迷いなくギヤを進めた。
ミナミが商店の倉庫で働き始めてから、最初の満額の給与袋を受け取る日がやってきた。
彼はテーブルの前に座り、自らの労働の対価が収められた小さな茶封筒をじっと見つめていた。その数値は決して派手なものではなかったが、彼はその紙の重みを、壊れ物を扱うような手つきで大切そうに手のひらの中に包み込んでいた。
シーナがそのすぐ隣に立ち、淡々とした声で訊ねてきた。
「その労働の成果、一体どんなシステムで分配するつもり?」
ミナミは少しだけ考えた。
「まずは、家賃の更新費用。それから光熱費の支払いだろ」
シーナは満足のいくように、小さく首を縦に振った。
「結構ね。残りの変数は?」
「あとは……」
ミナミは古い財布を手繰り寄せ、その中に数枚の紙幣を格納しながら言った。
「……理香に、何か美味いもんでも奢ろうと思ってさ」
シーナは少しだけ意外そうに瞳を丸くしたが、やがて唇の端にごく薄い、優しい微笑みを浮かべた。
「どうして彼女を優遇するのよ」
「だって、アイツがいなきゃ、俺は今でも川の土手でただの抜け殻みたいに立ち尽くしてただろ。一番迷惑をかけた日常の観測者だからな。感謝の気持ちくらい、ちゃんと言葉にして手渡さなきゃ嘘だろ」
シーナは小さく笑った。
「そうね。その誓いのログ、絶対に忘れないことね」
「ああ、忘れるわけねえだろ」
ミナミは確かな重量感を持って、首を縦に振った。
茜は画面の前で、自らの唇の端に微かな笑みが浮かぶのを感じていた。そして、物語の最も美しい最下段、最後のチャプターの執行へと指先を滑らせた。
真夏の陽射しがその最盛期を越え、街に秋の微かな冷気が混じり始める頃、理香の強引な介入によって、三人は近所の神社の夏祭り(盆祭り)へと足を運ぶことになった。
最初のうち、シーナの頭脳のデータベースには「お祭り」という現代世界の娯楽の概念が何一つ登録されておらず、彼女は怪訝そうに眉をひそめるばかりだった。ミナミの説明も徹底的に要領を得ないものだったため、結局は理香が「いいから黙ってついてきなさい」と二人の手を引っ張って、露店の並ぶ境内へと連れ去っていったのだった。
理香の手によってあてがわれた、生まれて初めての浴衣という名の伝統的な布地は、シーナの運動神経を大いに困惑させた。彼女は慣れない裾の裁断ラインに足を取られ、何度もその場で不格好にすくみ上がって立ち往生した。
着付けの部屋の外で待っていた理香が、その様子を見て可笑しそうに声を弾ませる。
「ちょっとシーナちゃん、そんなにロボットみたいにガチガチに硬直してちゃ歩けないわよ!」
「私は、軍務の規律に従って真っ直ぐに直立しているだけよ」
「それが動きすぎだって言ってるの!」
「ただの、位置の維持よ」
「それも移動の変数に入ってるの!」
たたきの上で所在なさげに待っていたミナミも、戸越しに聞こえてくる二人の他愛のないやり取りについ吹き出してしまった。しばらくして、障子が開いてシーナがフロアへと姿を現した。
ミナミは開いた口が塞がらないまま、その藍色の布地に包まれた少女の輪郭をじっと凝視し続けた。シーナは居心地悪そうに自らの帯の結び目を弄りながら、彼を真っ直ぐに見つめてきた。
「な、何よ。私のこのレイアウト、そんなにおかしいかしら」
「……いや、別に」
「あんた、今絶対に何か言おうとして唇を動かしたわよね」
「何でもねえって」
後ろから出てきた理香が、それを見て大声で笑い始めた。
「あはは! ミナミくん、嘘をつくときの目の泳ぎ方が完全に素人レベルね!」
「うるせえな、何が見えるってんだよ」
ミナミは不満そうに肩をすくめ、吐息をもらした。
三人はそのまま、夜の喧騒が満ちる境内の人波の中へと混じっていった。参道沿いには無数の赤い提灯が吊るされて温かい光の帯を描き、香ばしい露店の匂いが夜の空気を 濃厚 に満たし、人々の他愛のない話し声が、中央の舞台から響く太鼓の単調なリズムと心地よく融和していた。
シーナは生まれて初めて口にする甘い綿菓子に目を丸くし、水槽に浮かぶ小さなゴム風船を釣り上げる単純なゲームのシステムに何度も敗北しては悔しそうに瞳を燃やし、その都度ミナミから「下手くそだな」と笑われては、徹底的に冷ややかな視線で彼を睨み返していた。理香はその二人の隣で、安物のスナック菓子を口にもぐもぐと放り込みながら、ただ楽しそうに彼らの足跡を見守っていた。
その夜、彼らの日常を脅かすような巨大な不条理のイベントは何一つ起きなかった。異世界からの怪物の襲撃もなければ、世界の命運を賭けた壮絶な闘いも、誰かの命を救うためのヒロインのような大真面目な決断も、どこにも転がってはいなかった。ただの、真夏の夜の、どこにでもある平凡なフィクションの景色だった。
そして、この見知らぬ現代世界に生まれ落ちて以来初めて――シーナの胸の奥から、自分がどこか遠い世界の果てで迷子になっているのだという、あの嫌な恐怖の疾患が、完全に消失していることに彼女は気がついた。
提灯の光に照らされながら、自分の不器用な足跡が確かにこの地面と噛み合っている。私はもう、世界の異分子ではない。私はただ、自分の帰るべき家へ向かって歩いているのだ。
夜の時間はさらに深度を増し、お祭りのピークも静かに引き潮へと向かい始めていた。三人は騒がしい人混みの動線から少しだけ離れた、境内の一角にある古い石段の影に佇んでいた。
ドン、と。
不意に、夜の帳の遙か上空で、最初の一発の打ち上げ花火が鮮烈な轟音を響かせて炸裂した。光の亀裂が一瞬にして夜空を真っ白に塗り潰し、シーナの一対の瞳の奥を鮮やかな色彩のレイアウトで満たした。
「綺麗ね……」
彼女の唇の隙間から、消え入りそうな細い呟きが零れ落ちる。
ミナミはその横顔を見つめながら、穏やかに微笑んだ。
「ああ、そうだな」
続いて、二発目、三発目の地鳴りのような重い鉄音が夜空に響き渡った。シーナは網膜を焦がすような光の色彩をただじっと見上げ続けていたが、ミナミの視線は、その隣に佇む彼女の静かな横顔から一歩も動こうとはしなかった。
彼の喉の奥まで競り上がってきている言葉のデータは、それこそ数え切れないほどに並んでいた。あの雨の朝、濁流のほとりで初めて彼女を拾い上げた最初のチャプターの記憶。二人がこの狭い四畳半で積み重ねてきた、すべての不格好な衝突の歴史。彼女が突然アパートのドアを閉めて去っていった、あの嵐の夜の絶望。そして、家というものは単に肉体を格納するための箱ではなく、誰かと共に日常の呼吸を紡ぎ続けるためのシステムなのだという、その動くことのない自覚のすべて。
だけど、この大音響の轟音に包まれた世界の真ん中で、彼が自らの本質的な言葉として選択したのは、たった一言の、最もシンプルなセリフだけだった。
「……ありがとう」
その直後に炸裂した巨大な花火の爆音の波が、彼の低い音声の周波数を綺麗さっぱり呑み込み、夜空の彼方へと消し去ってしまった。シーナは光の残響の中で不意に首を巡らせ、彼を見た。
「え? あんた、今何か喋ったかしら。花火の音でシステムのログが聞き取れなかったわ」
ミナミは上着のポケットの中で両手を握りしめたまま、ただ穏やかに首を横に振ってみせた。
「ううん、何でもねえよ」
シーナは再び、満足のいくように顔を夜空の彼方へと戻した。ミナミも自らの首を巡らせ、同じ暗闇の上空を見上げた。光の粒子は絶え間なく、彼らの未完の夜をどこまでも美しく塗り潰し続けていた。
茜はキーボードの上から、すべての指の力を完全に抜いた。
液晶画面の上に並んだ、最後の二人のシルエットの描写を、彼女の目はじっと見つめ続けた。一度。そして、もう一度。
もはや、この白い画面の上に書き足すべき説明の文字列は、どこを探しても存在していなかった。彼らがこの花火の夜の後、一体どんな具体的な人生のルートを歩んでいくのか、その詳細な答えの用紙を作者がしゃしゃり出て手渡して回る必要などどこにもない。重要なのは、彼らがこの世界の中で、自らの足で歩き続けるための「帰るべき場所」を確かに見つけ出したという、その動くことのない事実だけだった。
茜はカーソルを動かし、次の行の新しい階層を開くと、エンターキーを一度だけ力強く押し下げた。そして、自らの意志の執行として、大文字のインクの記号をその空白の真ん中へと真っ直ぐに刻みつけた。
――TAMAT (完)
彼女の指が、キーボードの上で完全に停止した。茜はその五文字の記号を、長い長い沈黙の中でただじっと見つめ続けた。
完。
この数ヶ月の間、自らの生活のエネルギーのすべてを削り、時に焦燥感の泥に塗れながら夜明けまで向き合い続けてきた、シーナとミナミの物語が――今夜、この四畳半の部屋の中で、正式にそのすべての役割を執行し終えたのだ。
静まり返った室内の空気の中には、劇的な拍手の音もなければ、彼女の自尊心を慰めてくれる誰かの賞賛のセリフも何一つ存在していなかった。ただ、パソコンの排気ファンが放つ低い微風の音と、ガラス窓の向こうから時折聞こえてくる遠い自動車の排気音だけが、変わらない夜の停滞を刻んでいた。
茜は身動き一つしなかった。この数ヶ月のタイムラインの記憶が、その小さなたった五文字の記号の奥へと、一気に吸い込まれて収束していくような奇妙な錯覚に襲われていた。自分がこれまで歩んできた、すべての不器用な足跡の軌跡。ただ数ページの原稿を書き上げるだけで指先が冷たくすくんでいた最初の日々。佐藤から編集部の一室で突きつけられた、自尊心をズタズタに切り裂くようなあの冷酷な洗礼。自分の頭の神経を苛み続けた、あの「私は一体、ここで何をしているんだろう」という底なしの絶望の問いかけ。
そして――しおりちゃんが差し出してくれた、あの不作法で合理的なラーメンの食べ方。カッターの刃が歪み、糊の手際が悪くてバラバラに自壊してしまった、あの真夜中の不細工な紙の工作の山。自らの手で印刷のデータベースを貪り読み続けた、あの 頑固 な夜の周期。そして、夕べ決済のログを通して発信した、世界で最初の一冊の発注ボタンのクリックの響き。
シーナたちの冒険は、これで本当に終わったのだ。
茜はゆっくりと両手をキーボードから引き離し、自らの膝の上へとぽつんと落とした。彼女の瞳から涙がこぼれ落ちることもなければ、狂ったような達成感の笑いが漏れることもなかった。彼女はただ、折りたたみ椅子の背もたれに自らの体重を預け、胸の奥に溜まっていた重苦しい塊を、すべて洗い流すようにして長くて深い呼吸を一つ吐き出した。
「……終わったんだ」
暗闇の静けさに向かって、彼女は低く呟いた。
茜の唇の端に、かすかな、しかし温かい本物の笑みが浮かんだ。指先を動かし、上書き保存のコマンドを完全にロックする。 Ctrl + S。カチリ、とクリックの音が響き、未完だったフィクションのデータは、安全なフォルダの階層の中へと正式に格納された。
しかし、今夜の彼女は、いつも通りのルーティンに従ってすぐにノートパソコンの画面を押し下げるような真似はしなかった。彼女の目は、キーボードのすぐ脇に静かに佇んでいる、あの小さな革手帳の表面へと向けられていた。そこには数日前、自らの手のひらをインクで汚しながら刻みつけた、あの絶対的な誓いの文字が今も真っ直ぐに残されている。私は、このお話を、自らの意志で出版する。
茜は細い指先の先端を伸ばし、その手帳の文字の凹凸を、そこに残る微かな熱量を確かめるようにしてそっと撫でた。
液晶画面の向こう側にいたシーナやミナミは、今夜のチャプターの終了をもって、確かに自らのすべての任務を執行し終えた。彼らはもう、白い画面の上で迷子になって身悶えする必要はない。だけど、作り手である茜自身にとって――この原稿の完了という名のログは、決してすべての問題の終わりを告げるゴールテープなどではなかった。
シーナたちの物語は、ここで完結した。
だけど、一人の人間としての、茜自身の本物の闘いの方程式は――まさにこの 夜明け の光の向こう側から、その最初の一歩を踏み出すのだ。
これからの自分のルートの前方には、まだ自分の頭脳が答えを持ち合わせていない、おびただしい数の具体的な仕事の山が立ち塞がっている。
茜は手帳をパタンと、静かな、しかし確かな重量感を持った音を立てて閉じた。
「……よし」
彼女はノートパソコンの画面を押し下げ、完全にシャットダウンの処理を実行した。プラスチックの合わさる小さなクリックの音が、部屋の壁に跳ね返る。
「……ここからが、本番ね」
光源の消え去った室内は、一瞬にして元の完全な暗闇へと塗り潰された。しかし、ガラス窓の向こう側では、真夏の澄み切った 夜明け の朝焼けが、都市の巨大なコンクリートの輪郭を静かに、そして美しく白く照らし出し始めていた。




