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ギルド受付嬢の新しい暮らし  作者:
物語は始まる

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第19章 足踏みの夜

 カフェの古い木製のドアを押し開けて外へ出たとき、傾きかけた午後の陽光は、すでにそのぎらついた熱を失いかけていた。

 背後で真鍮のベルがチリンと短く鳴り、すぐに静寂の中へと戻っていく。商店街の路面は、駅の改札口を目指して一定の方向へと進む人間の波でまだ埋め尽くされていた。中年のサラリーマンたちが退勤の列に混ざり合って歩く傍ら、数人の主婦が両手にずっしりと重いポリ袋を下げてスーパーの自動ドアから出てくるところだった。

 茜は、少し冷え始めた両の手のひらを薄手のニットカーディガンのポケットへと突っ込んだ。

 初夏の夕方の空気は、昼間のあの突き刺さるような鋭い日差しに比べれば、肌にひどく優しく馴染んだ。彼女は周囲の歩行者たちの歩調に合わせ、急ぐ風でもなく緩やかなリズムで足を進めた。今夜の彼女の頭の中には、自分のアパートへと帰るということ以外に、明確な目的地など存在していなかった。

 規則正しい足取りが単調に繰り返されていた、その時だった。すぐ近くの空間から漏れ聞こえてきた、短い悲鳴のような声が、茜の聴覚を唐突に捉えた。

「キャ……!」

 続いて、薄いビニールが不格好に引き裂かれるような、不快な音が響いた。

 バリバリ、と。

 スーパーの軒先を通り過ぎようとしていた一人の年配の女性が、狼狽した様子でその場に足を止めていた。彼女が胸元に抱き抱えていた透明なポリ袋の一つが、中身の重量を支えきれずに、底のほうから完全に決壊してしまっていたのだ。


 数個のみずみずしいオレンジが、アスファルトの路面の上を滑るようにしてバラバラに転がっていった。玉ねぎの袋が鈍い音を立てて路面に落ち、続いてガラスの瓶に入った醤油の容器が中空へと投げ出された。――しかしその容器は、地面に激突して砕け散る直前に、茜の動かした右の手のひらによって、滑らかな条件反射のままにすんでのところで受け止められた。

「あ……」

「す、すみません……!」女性は慌てて腰を落とし、路面の上で不格好に身を屈めた。

 茜もまた、余計な言葉を発することなく、自然な動作でその場に身を引いた。そして、アスファルトの上に無秩序に散らばった食材の断片を、手際よく一つずつ手元へと回収していった。

「本当にありがとうございます……。お急ぎのところを、こんなに遮ってしまって申し訳ないわ……」女性は、残された僅かな荷物を抱え直しながら、何度も小さく首を縦に振った。

 茜は特に表情を変えることもなく、静かに首を横に振った。「いいえ、気にしないでください。大したことではありませんから」

 茜の視線は、無惨に引き裂かれたポリ袋の底の破れ目へと向けられていた。その破れ目はあまりにも長く、そして深く広がっていた。もしこのまま同じように持ち上げようとすれば、アパートの玄関に辿り着くよりも前に、中身は再び路面の上へと雪崩を打って脱落してしまうことは明白だった。

 茜は一呼吸の間だけ静止し、その袋の状態をじっと見つめた。

 それから、彼女の左手は、今朝から自分の左手首に巻かれていた、飾り気のない一本の黒いヘアゴムをさらりと外した。彼女はポリ袋の引き裂かれた端のビニールを、両の手指を使ってきつく一本の細い紐のようにねじり上げると、そのヘアゴムを二重に巻き付けて硬く縛り上げた。きわめて簡素な、その場しのぎの応急処置に過ぎなかった。しかし、そのゴムの締め付けは、袋の中に残された残りの荷物を支えるには十分な強度を持っていた。


 年配の女性は、新しく形を変えた自分の袋の様子を、目を丸くしてしばらく見つめていた。「……あら」

 彼女の疲弊しきった顔に張り付いていた焦燥の皺が、潮が引くようにして消え去り、そこには偽りのない静かな安堵の色が浮かんでいた。「これなら、まだちゃんと持ち歩けそうね」

 茜は小さく、しかし確実な動作で肯いてみせた。「家に着くまでは、十分に保つと思います」

「どうもありがとう、お嬢さん。本当に助かったわ」女性は再び、丁寧にお辞儀をした。

 茜は自らの表情筋に馴染んだ、いつものプロの微笑をかすかに浮かべると、ゆっくりと背筋を伸ばし、地下鉄の改札口へと続く元の道へと自分の身体を戻していった。歩道のただ中で起きたその些細な出来事は、またたく間に都会の喧騒のなかに霧散し、彼女の頭の中から完全に消え去っていった。


     *


 都会の空の色が、完全に深い初夏の夜の色彩へと塗り替えられた頃、彼女を乗せた列車は、自分の住むアパートの最寄り駅へと滑り込み、完璧な静止を迎えた。

 そこから自分の部屋へと続く残りの路地の間は、いつもの日常と何一つ変わらない単調さのまま消費されていった。劇的な出来事など何一つ起きはしないし、紙の上に書き留めるべき美しい情景が目の前に現れるわけでもない。けれど、その退屈なほどの正確さのなかに身を置いているからこそ、今日という一日の終わりは、彼女の心にとってひどく自然で、地面に足がついているように感じられた。

 茜はアパートの古い木製のドアを押し開け、鍵穴を静かに回した。いつもの静まり返った薄暗い空気が、玄関の床の上でただ静かに主の帰還を迎え入れた。

 彼女はキャンバスバッグをいつもの定位置へと下ろし、履き古したパンプスを脱ぎ捨て、朝から自分の身体を守ってくれていたカーディガンを壁のハンガーへと掛けた。数分後、狭いユニットバスの向こう側から、温かいお湯の流れる小気味よい音が響き渡り、室内の静寂を穏やかに破った。熱い湯の流れは、朝から彼女の皮膚や髪の毛の先にきつく張り付いていた、あのブラジル・サントスの深いカフェインの残香や店の熱気を、ゆっくりと洗い流していった。

 身体を清め終えた茜は、濡れた黒髪の先を、白いタオルを使って慣れた手つきで拭き上げた。髪にまだ微かな冷たい湿り気が残っている状態のまま、彼女はキッチンエリアへと二歩進み、自分自身のために一杯の温かい緑茶を淹れた。

 磁器のカップを手に取り、窓際の折りたたみ机へと歩く。彼女が机の上のボタンを小さく押し下げると、ノートパソコンの液晶画面は即座に発光を開始し、薄暗い部屋の中央に、白い均一な光を鋭く放ち始めた。画面のただ中には、昨夜彼女がそのままにして閉じた、あの未完成の物語の最新のページが映し出されていた。


     *


 新しく書き始めるべき章の題名が、画面の最上部に、一行の記号として冷たく浮かび上がっていた。

『第十三章』

 その文字列のすぐ下で、小さな黒いカーソルが、規則正しい周期を保ちながらただ静かに明滅を繰り返している。それは何も喋らず、主の指先が最初の一文字をキーボードの上に刻み込む瞬間を、いつまでも待ち続けているかのように見えた。

 茜は両の手の手のひらをキーボードの定位置へと添え、打鍵のための構えをとった。

 しかし――彼女の指先は、中空で静止したまま一ミリメートルも下へと降りることはなかった。

 彼女は肺の底に溜まっていた重い息を、一度に吐き出し、強張っていた肩の線を落とした。この足踏みの状態は、彼女が急に怠惰になったからでも、シーナたちの物語に対する執筆の情熱を失ってしまったからでもなかった。現実の彼女の内側に起きた変化はその真逆であり、今の彼女の胸の奥は、この物語をさらに前へと進めたいという、狂おしいほどの欲求で満ち満ちていたのだ。書きたい、と。本気でそう願っていた。

 けれど、自らの頭が新しい言葉を紡ぎ出そうと試みるたびに、彼女の意識の焦点は、いつも決まって同じ箇所でぴたりと停止してしまうのだった。

 茜はキーボードの上から両手を引っ込め、それを自らの膝の上で静かに重ね合わせた。

「……どこかで」茜は発光する画面のガラスに映る、自分の疲れ切った顔を見つめながら、低い声で呟いた。「……私が気づかないうちに、大事な細部を見落としてしまっているのかもしれないね」


 彼女は、自分を圧迫し続けている第十三章の真っ白な空白のページを凝視し続けることをやめた。代わりに、彼女の指先はマウスを動かし、これまで自分が積み上げてきた原稿の束を、上へと向かってゆっくりスクロールさせ始めた。物語の時間を、過去へと巻き戻していくために。

 第十二章。

 第十一章。

 第十章。

 彼女の両目は、液晶の上を流れていく無数の文章を、一定の速度で追いかけ始めた。しかし、今夜の読書において、彼女は物語の作者という都合のいい特権を完全に手放していた。彼女はただ、自分が作り上げてしまったフィクションの構造の中に生じた、目に見えない微小な歪みの位置を突き止めようとする、一人の冷徹な観察者の視点を持ってテキストを見つめていた。

 キャラクター同士の対話の行を、一文字ずつ、恐ろしいほどの遅さで読み解いていく。時折、彼女の指先はマウスを止め、文章を数行だけ上へと戻しては、その同じ段落をもう一度、言葉の響きがちゃんと地についているか確かめるようにして静かに反芻した。

 画面の右下に表示されたデジタル時計の数字は、主の都合など一切無視して、その数字を淡々と変化させていった。

 21:18

 22:46

 23:57

 机の上に置かれた陶器のカップの中の緑茶は、いつの間にか温かい湯気を放つのをやめ、夜の時間の経過とともにゆっくりと冷めきっていった。しかし、茜の脳内には、その温度の下落を物理的な重さとして知覚するだけの余白など、最初から一滴も残されてはいなかった。彼女のすべての視線と網膜の焦点は、自分が作り上げたあの底の知れない物語の迷宮の内部に、完全に囚われてしまっていたのだ。


「一体、どこで……」茜は、自分の耳にすら届かないほどの小さな声で呟いた。「……私の言葉は、その歩幅の正確さを失って、足踏みを始めてしまったんだろう」

 彼女が今夜追い求めているのは、助詞の使い間違いのような、あるいは文章の収まりの悪さといった、表面的な技術の不手際などではなかった。そうではなく、物語という肉体のなかに、いつの間にか音もなく忍び込んでいた、静かな機能不全の場所。言葉の血流が、唐突にその循環を停止してしまっている、その決定的な一箇所の暗闇を、彼女は自らに要求していたのだ。

 読み返すページが増えれば増えるほど、彼女の頭の中には、自らを責めるような新しい問いの数々が容赦なく湧き上がってきた。しかし、彼女の思考の歯車がどれほど凄まじい速度で回転を続けようとも、彼女が本当に必要としているその明確な答えの形は、白く発光するモニターの表面には、最後までその素顔を晒そうとはしなかった。


 意図したわけではなかったが、彼女のまぶたは、時間の経過とともに、耐え難いほどの重みをその皮膚の上に定着させ始めていた。深夜の境界線を越えて思考を動かし続けたことで、彼女の肉体のエネルギーは、完全に底を突こうとしていた。

 茜の頭部は、自らの首の筋肉の制御を失い、ゆっくりと下へと傾いていった。彼女の右の手のひらは、ノートパソコンのタッチパッドの上に、力なく重ねられたまま静止している。目の前の精密機械は、主の眠りを無視して変わらない白い光を放ち続け、その閉ざされた顔の輪郭を、無機質に照らし出していた。彼女が付き合い続けてきた未完成のファンタジーの原稿は、一文字の変更もないまま、画面の上に大きく口を開けたままだ。

 その静まり返った四畳半のアパートのただ中で。小さな黒いカーソルだけが、液晶の端で、規則正しいリズムを刻みながらただ静かに明滅を繰り返していた。主の意識が戻り、新しい言葉が産み落とされるその瞬間を、どこまでも辛抱強く待ち続けるかのように。

 閉ざされたガラス窓の遥か向こう側では、都会の夜の時間は、人間の都合など最初から一滴も考慮に入れることなく、ただ定められた一本の時間の上を、冷徹に前へと進み続けていた。


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