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第一話:三百五十八円の絶望と、銀髪のメンヘラ神

「……あと、三百五十八円」


 埼玉県の小江戸、川越。蔵造りの町並みが夕日に焼かれ、情緒たっぷりの一番街。観光客が「インスタ映え」を求めて黄金色の芋けんぴを頬張る傍らで、宝生幸ほうじょう さちは、使い古された百円ショップの財布を覗き込み、血を吐くような思いで呟いた。


 財布の中身は、今月の支払いをすべて終えた後に残った、彼女の「全財産」だ。


(電気代が先月より二百円上がった。原因は分かってる。あのボロ長屋の隙間風だ。ガス代は極限まで削った。風呂は二日に一回、カラスの行水。食事はバイト先の賄いと、スーパーの特売で見つけた見切り品のモヤシ。それなのに……それなのに、どうして私の残高は、常に絶滅危惧種みたいな数字なのよ!)


 二十二歳の幸にとって、人生とは「いかに一円を笑わずに生きるか」という過酷な格闘技だった。

 父親は蒸発し、母親は病気がちで寝たり起きたり。幸が土産物屋と居酒屋を掛け持ちして稼ぐ金は、右から左へと生活費と薬代に消えていく。彼女の脳内に存在するのは「推し」ではなく「節約」という名の宗教。お金こそが、彼女にとって唯一裏切らない「神」だった。


「お疲れ様でしたー」


 土産物屋のシフトを終えた幸は、満面のビジネススマイルを脱ぎ捨て、泥のような疲労感を背負って店を出た。

 本来なら、川越の小粋なカフェでラテアートでも楽しみたい年頃だ。だが幸にとって、菓子屋横丁から漂う甘い香りは「誘惑という名の出費」に過ぎない。彼女は、駐輪場の隅に停めてあった愛車の「ポチ(中古で三千円だったボロ自転車)」に跨った。


(神様、仏様、誰でもいい。もし本当にいるのなら、私に玉の輿をください。白馬の王子様なんて贅沢は言わない。ただ、ブラックカードを持っていて、私に一兆円くらいポンと渡してくれる、健康で短命な大富豪を連れてきて!)


 不敬な祈りを捧げながら、幸はペダルを漕ぎ出した。川越のシンボル「時の鐘」が、ボーン、ボーンと夕暮れに響き渡る。その音さえ、幸には「カネ、カネ」と催促する督促状の響きに聞こえた。


 その時だった。


 いつも通りの「時の鐘」の下。そこだけ、空気の密度が違う場所があった。

 道の中央に、一人の男が立っていた。人混みの中で、彼一人だけが静止画のように動かない。


「ちょっと、どいて! ぶつかる……ッ!!」


 幸は慌ててブレーキを握りしめた。キーーーッ! と、悲鳴のような金属音が石畳に響く。

 ポチの車体が激しく揺れ、幸は咄嗟に地面に足をついて踏ん張った。心臓が口から飛び出しそうなほど激しく脈打つ。


 だが、怒鳴りつけようと顔を上げた幸の言葉は、一瞬で凍りついた。


(な……何、この、生き物……?)


 そこにいたのは、人間というカテゴリーに分類していいのか迷うほどの、圧倒的な「美」だった。


 透き通るような銀髪が、夕日に染まって淡い紫を帯びている。肌は陶器よりも白く、伏せられた睫毛は信じられないほど長い。

 何より目を引いたのは、その装いだ。

 身に纏っているのは、水に一滴だけ藍を落としたような、消えてしまいそうなほど淡い「瓶覗かめのぞき」色の着物。しかし、裾に向かってそれは「藤鼠ふじねずみ」の色へと、美しいグラデーションを描いている。


 その布地には、地紋として風に舞い散る「桜」と、「すすき」が織り込まれていた。


 男は、停止した幸の自転車のすぐ前で、まるで最初からそうすることが決まっていたかのように、騎士のような優雅さでその場に跪いた。

 泥だらけのタイヤのすぐそば、汚れなど微塵も気にしていないかのような、気高い所作。


「……やっと、見つけました。私の、運命の人」


 その声は、春の風のように心地よく、しかし心の奥底まで浸透してくるような不思議な響きを持っていた。


(……は?)


 幸の思考が、一瞬で真っ白になる。

 運命の人。この、現代の川越において、最も使い古され、かつ最も胡散臭い言葉が、目の前の「超絶美青年」の口から飛び出した。


(何、この不審者。新手のキャッチ? それとも……撮影か何か? じゃないと、こんな格好いい男が、私みたいなモヤシ娘の前に跪くわけがないし)


 幸は困惑し、本能的にハンドルを握る手に力を込めた。だが、至近距離で見る彼の着物の生地、その質感。明らかに一着数十万、いや数百万は下らない代物だ。


(……待って。このオーラ、この気品。もし、もし万が一、この人が本当に『本物の大富豪』で、何かの間違いで私に一目惚れしたんだとしたら……。これって、私がさっき空に向かって叫んだ『玉の輿案件』が、秒速で叶っちゃったってこと!?)


 困惑が、一気に「期待」と「欲望」へと塗り替えられていく。幸の脳内電卓が、パチパチとありもしない祝儀を弾き出し始めた。


「あの、ええと……人違いじゃありませんか?」


 少しでも「可憐な女」を装おうと、声を一段階高くして問いかける。

 男は、さらに深く、世界を浄化するかのような聖母の如き微笑みを浮かべた。


「いいえ。人違いではありません。僕はシオン。……あなたを、幸せにするために来ました」


 その瞬間。


 幸のポケットの中で、パチンッ!! と派手な音がした。


(……え?)


 恐る恐るポケットに手を入れる。そこにあったのは、さっきまで「三百五十八円」を守っていた百円ショップの財布の、なれの果てだった。

 金属の口金が、何の前触れもなく真っ二つにへし折れている。貴重な硬貨たちが、まるで意思を持っているかのように、パラパラと地面にこぼれ落ちた。


「あ、あわわわわ!! 私の、私の全財産が!!」


 必死で拾おうとした幸だったが、小銭たちは排水溝の格子に向かって一直線に転がっていく。まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように。


 チャリン。チャリン。


 残酷な音が響く。さらに、愛車「ポチ」のチェーンが突如として断裂し、蛇のように暴れて幸のズボンの裾をズタズタに引き裂いた。


「…………は?」


 呆然と座り込む幸の前に、シオンは依然として跪いたまま、あの美しい笑顔を浮かべていた。

 だが、幸の視界に妙なものが映った。シオンが笑った瞬間、近くの自動販売機の明かりがチカチカと点滅し、返却口からジャラジャラと小銭が吐き出され――そして、そのすべてがシュルシュルとどこかへ吸い込まれて消えていく。


「……ねえ。今、何が起きたの?」


 シオンはうっとりと幸の手を包み込んだ。その手は、凍えるように冷たかった。


「驚きましたか? 大丈夫ですよ。お金なんて、もう必要ないんです。これからは、僕だけが君の側にいるから。……僕は窮鬼。人間は親しみを込めて、こう呼びます。……『貧乏神』と」


 幸の頭の中で、鐘の音が響いた。それは「時の鐘」ではない。彼女の人生が、玉の輿という天国から、更なる底なしの地獄へと転落したことを告げる死の宣告だった。


「……び、貧乏……神?」


 幸の喉から、乾いた砂を吐き出すような掠れた声が漏れた。

 シオンが立ち上がる。淡い「瓶覗」色の着物が、さらりと音を立てて揺れた。その袖口から覗く白すぎる手首は、触れれば折れてしまいそうなほど細い。


(逃げなきゃ)


 生存本能が叫ぶ。幸はチェーンの外れた自転車を捨て、蔵造りの通りを全力で走り出した。

 菓子屋横丁の迷路のような路地裏に飛び込み、建物の陰に隠れて息を整える。


「……はぁ、はぁ、……なんなのよ、あいつ! あんなキラキラした見た目で『運命』なんて言っておいて、やってることは私の財布の破壊じゃない! 顔がいいだけの歩く大恐慌なんて、お断りなんだから!!」


 膝が笑っている。心臓が耳元でうるさいほど鳴っているのは、走った疲労のせいだけではない。つい数分前まで「玉の輿」という淡い期待を見せられ、その直後に「全財産喪失」という漆黒の闇に叩き落とされた、現実離れした恐怖のせいだ。


(なんなのよ『貧乏神』って。冗談にしても笑えない。今は令和よ? 特殊な磁石か何かで小銭を吸い寄せてるの? それとも私が疲れすぎてて、ついに頭が沸いて幻覚を見てるの!?)


 幸の脳内電卓は、必死にこの事態を「科学的な理由」で説明しようとしていた。だが、財布の口金が真っ二つに折れ、自転車のチェーンが弾け飛んだ事実は、理屈を超えて彼女の心に絶望を刻んでいる。あれは、物理法則を無視した「悪意」そのものだった。


「……ふふ。そんなに激しく鼓動を奏でて。僕に追いかけられるのが、そんなに嬉しいですか?」


「ひっ……!?」


 唐突に耳元で、冷ややかな、しかし甘い声がした。

 幸は飛び上がり、背後の壁に背中を打ち付けた。衝撃で肺の空気が押し出される。


 そこには、いつの間にかシオンが立っていた。

 逃げたはずだ。あんなにがむしゃらに、迷路のような路地裏を駆け抜けたのに、彼は呼吸一つ乱していない。淡い「瓶覗かめのぞき」色の着物は、夕闇の中で発光しているかのように白く浮き立ち、裾に描かれた枯れすすきの地紋が、まるで風もないのに不気味に蠢いて見えた。


「な、なんで……なんでついてくるのよ!」


 怯えて叫ぶ幸を見て、シオンは困ったような、しかし愛おしいものを見つめるような聖母の微笑みを浮かべた。


「嫌がっているふりなんてしなくていいんですよ、幸さん。君が必死に逃げ回って、無駄な体力を使うほど、君の心からは『余裕』が削れていく。……お金も、体力も、頼れる場所も全部なくなって、君が僕以外に何も持たなくなったとき、君は本当の意味で僕だけのものになる」


 シオンは、細く白い指先で自分の頬をなぞり、恍惚とした表情で囁いた。


「君をどん底に突き落として、僕なしでは生きていけない体にしてあげる。……それが僕の愛し方なんです」


(……本物だ。本物の、話が通じないタイプのヤバい奴だわ!)


 幸は背筋に冷たい氷を這わされたような戦慄を覚えた。この男の言い分は、要するに「お前を無一文にして、俺に依存させてやる」という最低の宣言だ。


「……ちょっと待って。一回整理させて。あんた、さっき自分のこと『貧乏神』って言ったわよね?」


「ええ。窮鬼、とも呼ばれますね」


「……あのね。仮に、百歩譲ってあんたが本物の神様だとしてよ? 神様ならもっと、こう……雲の上でどっしり構えてるとか、人間に利益をもたらすとかあるでしょ! なんでわざわざ、残高三百円ちょっとの女子の財布を狙い撃ちにして、ストーカーみたいな真似してるわけ!? 神様のくせにやってることがセコすぎるわよ! 暇なの!? 営業ノルマでもあるの!?」


「……ノルマ? いえ、これは僕の純粋な恋心ですが」


「それを世間では『迷惑』って言うのよ!!」


 幸はシオンを突き飛ばすようにして、再び走り出した。

 今度は大通り、クレアモールの方へ。人が多ければ、あんな目立つ格好の男は自由に動けないはずだ。そう信じて、がむしゃらにペダル……ではなく、自分の足でアスファルトを蹴る。


 だが、現実は残酷だった。


 幸が通りかかるたびに、街中の街灯がバチバチと火花を散らして消えていく。

 コンビニの前を通れば、店内のレジから「ピーーー!」というエラー音が鳴り響き、店員が真っ青な顔で立ち尽くす。

 銀行のATMコーナーのシャッターが、彼女の目の前でガガガッ! と音を立てて閉まった。


(……何これ、本当に呪われてるの!? 偶然にしては出来すぎじゃない!)


 シオンは、走る幸のすぐ隣を、まるで散歩でもするかのような優雅な足取りで並走していた。

 着物の裾を乱すこともなく、はかない表情で、しかしその歩みは一歩たりとも遅れない。


「幸さん、見てください。あそこで幸せそうに笑っている恋人たちを。……あの男性、さっき投資で大失敗したみたいですよ。もうすぐ、あの女性にも捨てられるでしょうね」


 シオンが、すれ違った幸せそうなカップルを指さして慈愛に満ちた微笑みを向ける。

 その瞬間、男性のスマホが震え、彼は液晶画面を見た瞬間にその場に膝をついて絶叫した。


「……あんた、最低ね!! 人の生活をぶち壊して、何が幸せよ。救いようのない嫌がらせじゃない!!」


「嫌がらせ? いえ、これは慈悲です。お金なんていう『偽りの安心』から彼らを解放してあげたんです。……さあ、次は幸さんの番ですよ」


「大きなお世話よ!! 余計な慈悲で私の食い扶持を削るな!!」


 幸は叫びながら、夜のバイト先の居酒屋へ辿り着いた。しかし、そこには無情にも『本日をもって廃業』という貼り紙。


「嘘……っ。あそこの賄い、私の貴重なタンパク源だったのに……! 来月の家賃の足しにするはずだったのに!! ねえ、ちょっと! 私のバイト先を返してよ!!」


 幸は、貼り紙の前で膝から崩れ落ちた。

 財布は空、自転車は故障、バイト先は消滅。

 数時間前まであったはずの、ギリギリながらも平和だった日常が、たった一人の「貧乏神」によって粉砕された。


「これで、もう逃げる場所はありませんね。さあ、一緒に帰りましょうか。心ゆくまで、絶望について語り合いましょう」


 シオンが、座り込む幸の肩にそっと手を置いた。

 その手は、凍えるように冷たい。まるで冬の墓石に触れた時のような、一切の体温を感じさせない冷気。


「……ねえ、幸さん。どうしてそんなに悲しい顔をするんですか? もしかして、僕以外の『何か』をまだ愛しているんですか? お金とか、生活とか、……未来とか?」


 シオンは幸の前にしゃがみ込み、そのアメジスト色の瞳で彼女を覗き込んだ。


「もしそうなら、徹底的に壊してあげます。君が僕を見つめるしかなくなるまで、僕は何度でも、君の世界を破産させてあげますよ。……君には僕がいればいい。僕には君がいればいい。それ以外のすべては、ノイズに過ぎないんです」


 幸の脳内電卓が、パチパチと音を立ててショートした。

 計算不能。

 損失、無限大。

 今日一日の稼ぎどころか、積み上げてきた努力も、明日への希望も、この「歩く大恐慌」の笑顔一つで消し飛ばされたのだ。


(ふざけないで。ふざけないでよ……! なんで私が、見ず知らずの貧乏神の変態的な趣味のために、人生を詰まされなきゃいけないのよ!)


 普通なら、ここで心が折れるだろう。

 だが、宝生幸は雑草のような女だ。絶望が極限を超えた時、彼女の中で燃え上がったのは、煮え滾るような「生存本能」だった。


「…………いいわよ。そこまでやるって言うなら、受けて立ってやるわよ、このメンヘラ貧乏神!!」


 幸はガバッ! と立ち上がり、自分より背の高いシオンの胸ぐらを掴もうとした。――が、あまりに布地が上質で高価そうだったので、万が一傷をつけて「弁償代」が発生することを瞬時に危惧した彼女は、寸前で指を丸め、彼を力強く指さした。


「あんたが私の人生をめちゃくちゃにするっていうなら、私はあんたを利用してでも、失った分の元を取ってやるわ! あんたのその顔か、その不思議な力か、なんだか知らないけど……全部使って、失ったお金を全部取り戻してやるんだからね!!」


 川越の夕空に、幸の魂の叫びが響き渡った。

 シオンは一瞬、呆然とした後……。


「……ああ。やっぱり、あなたは最高だ。……もっと、もっと壊したくなってしまいました」


 シオンは今までで一番、嬉しそうに微笑んだ。

 街灯が完全に消え、暗闇が二人を包み込む。


 こうして、ただの貧乏女子・幸と、彼女を自分依存にしたい執着メンヘラ窮鬼・シオンの、最悪な戦いの日々が幕を上げた。

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