あの子の名前を呼んだ日
「ぼく、犬が嫌い、なんです……」
ウチの病院に初めて診察に訪れたユーリ君は深く荒い息を苦しそうに吐きながら、そう言った。
嫌いと言いながらも近寄られることよりも"触られることが嫌そうな感じ"だった。
僕は診察室にいたボブを外に出し、扉を閉める。
「ごめんね、ちょっと大きくて怖かったかな?
あの子は傍に来ないようにさせるからね」
あの頃の日本ではまだ本格的ではなかったが、海外で話題になっているアニマルセラピーの試験導入がウチの病院では行われていた。
ラブラドールレトリバーの"ボブ"が彼に近寄ってくると、ユーリ君は大げさな反応を示し、酷く嫌そうな顔をしていたことを今でもよく覚えている。
(犬が嫌いな子どもだっているよな、やっぱり導入は慎重に行うべきだったんだ……院長や理事会はそーいうことをあまり深くは考えないからなぁ……)
少し怖がりな子なのかな、それがあの子の第一印象だった。
そして、僕にとっては専門医資格を取得して初めてのクランケだ。
それからも来る度に自分の症状よりもボブのことが気になるらしく、少しでも近づくと身を構えて怒ったような顔をしていた。
そんなユーリ君を初めて診察したのは彼が5歳の時だった。
初期症状は風邪に似ており、顔色が良くない。初見で一つの疾患と症例が思い浮かんだ。
「この子、最近保育園でも元気が無いみたいなんです。
みんなが遊んでいても気怠そうにしていたり、うたた寝もしているみたいで、風邪かもしれないと保育園の先生に言われて受診しに来ました」
「疲労感……ですか……」
「体臭も少し変わってる気がして……」
「疲れや感染症で代謝が落ちている時はそういうこともありますよ。特に幼児期はまだ消化器系なども未発達ですから」
親御さんの手前、様々な原因が思い付いても迂闊な診察は出来ない。
僕は不安な顔つきを隠すように口角を上げるようにして必死に笑顔を作り、いつもより大きめの声を張った。
「風邪も色々ありますからね、少し検査してみましょうか!」
十数分後、僕は頭を抱える。
「インフルエンザも陰性……あとは尿検査……」
小児科に入って6年、前任の先生の元で経験値を積んで独り立ちしてまだ半年だぞ。
「IA(※初期観察・イニシャルアセスメントのこと)では、ほぼ"一型"で間違えない! しかも状態から見て高血糖状態に陥りかけている、下手したらケトアシドーシス(※通称DKAと呼ばれる。糖尿病の重症化状態・最悪は死亡や脳機能障害を引き起こす危険な状態)になってもおかしくないぞ!!」
「先生、落ち着いて。先生が焦ればご家族や患者さんに不安が伝わります、ここは一度深呼吸を!」
「分かってます! 症例だって何度も見てきた、緊急性が高いのも理解してます!
ですが、僕にはまだこの診断は"重すぎる"んです。
まだ半年やそこらのひよっ子があの人達の"これから"を背負うなんて無理ですよ!」
うろたえる僕の肩を看護師さんが少し荒っぽく掴んだ。
「それでも! そこまで分かってるならもう迷ってる場合じゃないよ、生方先生!
朦朧とした状態なのに“ボブを寄せ付けない”って、あの子は何か強い気持ちで意識をつなぎ止めてるんだよ。
これは看護師としての私の勘!
わたし達も支えるから、怖がらないで──あの子の"いま"をつなぐのは、先生の判断だよ」
「カナメさん……」
2つ年上の看護師、上村カナメさんの声を聞いて小児科に初めて来た時の休憩時間を思い出す。
(小児科は未来を繋ぐ科であると同時に"助ける人が最も多くなる科"だよ。
そこにはご家族のケアも含まれる、私達と変わらない歳の親御さん達の不安も背負うことになる。
不安になったら私のことを名前で呼んで、そうしたら私は必ずアナタを助ける支えになるから!
患者と家族を支えるのは医者でいい、私達は"医者を支えるドレーンであればいい"!
これ、私の先輩の言葉! なんて、ちょっとくさかったかな?)
そう言ってあの時、気恥しそうに笑っていたカナメさんの目を見ると、僕は自然と頷き、大きな深呼吸した。
「尿検査を実施し、血糖値とケトン値の確認をしましょう!」
そこから一週間は忙しすぎてハッキリとした記憶がほとんど無い。
なにをするにも初めての判断に迫られ、生まれてたった5年の命を繋ぎ止めるということは僕の経験値では死に物狂いしか武器が無かった。
ユーリ君が何とか一命を取り止め、退院した時は退院日の後に合わせた有給で三年分くらいを一気に寝た気分だったよ。
足りない知識をその場で埋めながら何度もみんな助けられて、ユーリ君が「ありがとう、せんせ……」と言ってくれた時は胸の奥が焼けるような匂いがしたんだ。
途方もない、これから何十年と付き合っていく"アレ"についてユーリ君はどこまで理解しているのだろう。
ご家族だって、説明されたって理解が追いつくハズもない。僕達でさえ何年も"あの光景"を見て、味わって、初めて分かる"一型糖尿病の怖さ"を記憶の底床に刻み込まれるんだ。
知識として知っている糖尿病と降り掛かってくる症例の重さは決して等価とは限らない。
退院していく彼の背中を病院の玄関から見送った帰り道、僕は荒れていた。
「あと何回、僕はあの子のありがとうを聞かなくちゃいけないってんだ!クソッタレぇええ!!」
アパートと駅の間にある帰り道の小さな公園のベンチに座り、飲み足りずにコンビニで買い足したビール缶を一気にあおると、ソイツを地面に叩きつけた。
その辺にあったゴミ箱を蹴飛ばして右足の親指の爪が割れると、じんじんと痛んだ。
底冷えするような秋風が何度も吹き抜けて、割れた爪から溢れる血でべちゃべちゃになった足の裏が冷える。
「治せない病気があるなら医者なんてならなきゃ良かったんだ!」
そんなことは医学生の時から、研修医の時から知ってたさ。
治せる病気はほんの一部だって、治せない病が増えていくほどに治せる病気の数は減っていく。
割合で見たら医者なんて――。
「――役立たず、だ」
そのままズルズルと地べたに座り込み、背中によく冷えたベンチがひやりと当たる。
「生方先生、なにやってるんですか?」
「うえむらせんせい、ですか……」
「ユーリ君、治ってよかったですね。
明日は保育園でおいも掘りだって!
私達においも持ってきてくれるって言ってましたよ」
彼女がからからと笑い、ベンチに座った彼女の襟首を僕は無意識のうちに掴み、無理やり立たせて吠えていた。
「アンタぁああ!! どこが治ったんだよ! どこが良くなったんだよ!! ユーリ君の何が治ったってんだよ、言ってみろよ!!!!」
しばらく住宅街にあるこの公園に僕の声が響き、僕の耳小骨を震わせ、半規管の揺動で苦い記憶達が反照する。
「先生、医者や私達が病気を治すなんてことできるワケないじゃないですか」
カナメさんはつまらなさそうに目を横に逸らすと、ぽそりとそう呟いた。
「あ……」
彼女の服が僕の指からスルスルと零れ落ち、大事なことを思い出す。
僕達が絶対に忘れちゃいけない大事な言葉――。
『医者は症状を抑えることができても、病気を治すことができるのは患者さんだけ』
たぶん、口に出てしまっていたのだろう。
カナメさんがこくりと小さく頷くのが視界の下に見えた。
「よかったですね、ゴミ箱の中に空き瓶とか感染源になりそうなモノが無さそうで。
ユーリ君がおいもを持ってきてくれても先生が居なかったら、きっとあの子は泣いちゃいますからね」
僕が彼女と入れ替わるようにして力無くベンチに座り込むと、彼女は僕の靴を脱がして割れた爪に処置を始める。
「すみません」
彼女は栗毛色の髪を少しふるふると振るわせて言った。
「血には慣れてますから。それに第三者がやる方が適切な処置が出来ますし」
「そうじゃなくって、その……さっきのこと……」
「私の方が年上よ? キミとは場数が違うわ」
「2つしか変わらないじゃないですか、上村さんとは」
「生方くぅーん?」
カナメさんは顔を上げると少しむくれた顔をしてこちらを見上げた。
「あ、カナメさん……」
「素直でよろしい! まあでも私が言いたいのは場数とか歳じゃないのよ、ホントのところはね」
「と言います、と?」
彼女は包帯をキュッと結んでマッキーで包帯に"おバカさん"と書いて笑う。
「アナタの抱える立場は他の誰にも変われないし、その気持ちを分かることはないわ。
なら、私は頑張る後輩くんの背中を押すお手伝いをしたい
そーゆー関係でしょ、私達とアナタ達は?
そうじゃないと、ユーリ君の焼き芋が美味しく食べれないじゃない」
笑った口から白い息が優しく風に流れ、すぐに消えて闇の中に混ざっていく。
「そうですね、いずれは一人で何とか出来るように頑張りますよ」
「アナタ、わかってないじゃ――」
カナメさんの頭をゆっくりと抱くと、彼女の手が僕と彼女の体の間に割り込んで、どっちの心臓かは分からないけどゆっくりと響いた。
「ちょ、ーー!?」
「カナメさん無しでも"一人前"ならなきゃ、そう思いました」
「なに言って――」
「そうじゃないと――……。
いや、この先はまだ言えませんね」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ユーリ君と過ごして三年目。
病院の外を何気なく歩いていると、彼が黄色い旗を持って病院前の横断歩道を下の子達を連れて下校しているのを見かけた。
僕に気が付いた彼は嬉しそうに手を振りかけて、少しだけ気恥ずかしそうにしてその手を引っ込める。
そのまま、足早のユーリ君につられるように、彼らは向こう側に歩いていった。
「ユーリ君じゃないっすかぁ! センパイ、声かけてあげればいいのに!」
後輩がそう言って明るく笑いながら彼に手を振る。
「よしてやれよ、お兄さんがカッコつけてんだからそっとしといてあげなよ。
それに今日は"遊びに来てくれる日"だから後でたくさん話すさ」
あの時は彼の気持ちと僕の気持ちが少しだけ繋がったような気がしたんだ。
休憩時間の終わり頃、僕は病院の売店に足を運んだ。
「生方せんせ! まーた、チョコ買うんですか?」
「安心してください、エリスリトールを使ってるヤツですよ。大きい病院に勤めて感謝すると言ったら、こういうのが手に入るところですね」
そこで彼の好きなチョコレートを手に取って、もちろん低糖質のやつ。
そんなところをカナメさんに見つかると、彼女はいつもの分かりきった顔をして朗らかに笑う。
「なかなか市販されてませんからねぇ〜」
「上村さん、"今はまだ"を付けてください。そのうちきっとあの子達や親御さんが安心してお手軽に買える日が来ますよ、とはいえ要相談の必要性が無くならないのは苦々しいものですけどね」
購入したソイツをポケットの中に突っ込んで、僕は持ち場に戻ることにした。
しばらくすると、ユーリ君が定期診察にやって来る。
「生方先生、さっき見てたでしょ?」
「もちろん」
「ごめんね、無視して……」
「気にするなよ。一年生達のことちゃんと見てなきゃ、だったんだろ?」
まあ、単純に恥ずかしかったとか病院の先生と仲良しだと知られるのが嫌だとか色々な感情もあったんだと思う。
子供は大人が考えるよりも色々を見てるし、大人の話をちゃんと聞いている。
僕達は彼らが口にすることのないその声をしっかりと聴いてあげなきゃいけないと思ってる。
"かわいそう"――、そう言われることがどれだけこの子達の心を折ろうとするか。
悪気なく言われたその言葉をこの子達は、自分達は欠陥品だと思ってしまうこともあるんだ。
だから、頑張ろうとか絶対に治るとかは言えない。
その保証はキリスト像の前で問いかけたって答えてはくれないのだから――。
「そうだ、ユーリ君。チョコを食べるかい?」
「いいの!?」
僕がポケットからチョコを取り出して渡すと、ユーリ君はぴりぴりと包装紙を破いて手のひらにのせたチョコを僕達の前に差し出してくれた。
「はい、生方先生!」
「ありがとう」
「はい、ママ!」
「私にもくれるの?」
「うん」
彼は僕達にチョコを手渡したあと、ほんのちょっとだけ間をとってカナメさんにもチョコを手渡す。
「……はい、上村先生」
カナメさんの手のひらに乗った僕らより多い数のチョコを見て、僕とお母さんは思わず目を合わせて口角を持ち上げてしまう。
「ありがとう、ユーリ君!」
カナメさんがハグするとユーリ君は得意そうな顔をして笑った。
「上村先生、今日はちょっと長いかもしれません……」
僕が声をかけると、彼女は心得たように診察室の奥にある遊び場へとユーリ君を連れて行った。
「お母さん、落ち着いて聞いてください」
「はい」
お母さんが少し緊張した声色で返事をする。
「最近、ユーリ君の状態はとても安定しています。が、少し数値の悪化が気になります。
とは言っても、ほんの少し。
誤差の範囲で収まりそうな数値ではあるんですが、彼はそろそろ成長期になりますからね」
言葉を出せずにただただ頷くお母さんの理解テンポに合わせてゆっくりと少しずつ言葉を続ける。
「子供は少しの変化が大事になることもあります、注意して見てあげてください。
大丈夫です、もし万が一のことがあれば僕も上村先生もすぐに駆けつけますから安心して当院の救急センターに連絡してください」
「ありがとうございます」
「ここからが一型糖尿病の第二関門になります。経験不足の僕では不安もあるかもしれませんが、やれることは死にものぐるいでやるつもりです。
どうかよろしくお願いします、ユーリ君の成長に僕も付き合わせてください」
それから数時間後、最後の外来患者が診察室を出て大きく息を吐き出す。
あの秋からすでにユーリ君の容体はじりじりと悪化していることが僕の脳内の大半を占めていた。
棚にある資料をどかりと机の上に出すと、カナメさんが呆れたような顔をしてコーヒーをパソコンの前に置く。
「また調べ物ですか?ほどほどにしないと先に生方先生が倒れちゃいますよ?」
「今までやれるだけのことはやって来てます。だけど、何か他の病気で行われている処置がヒントになるかもしれません」
「私もお手伝いしましょうか?」
「いや、カナメさんは……」
僕がそう言いかけると、彼女は僕の頬を両手で挟み、無理やり僕の首を捻った。
彼女の顔が至近距離に映ると、近すぎてピントが合わずぼんやりとする。
「ほら、目がぼんやりとしてる。
ピントが合わないのは疲れてる証拠!
そんな時に無理してもロクな成果を得られないわ。今日はもう止めときなさい、生方くん」
「は、はい……」
熱々のコーヒーをゆっくりとあおり、彼女のカップと自分のカップを洗って棚に仕舞う。
「か、帰りましょうか」
「ええ。帰りましょう」
にこにこと笑うカナメさんが妙に不気味で居心地が悪いというか、座りが悪いというか。
裏口から守衛さんの前を通って、従業員駐車場まで来たところで僕は目も合わせずにクルマのドアを開けた。
「生方先生、クルマ通勤は慣れましたか?」
「終電後も通退勤出来て便利ですよ。というか、電車通勤って何年前の話ですか」
「いや、まあ……生方先生ってお仕事以外は生活がダメダメそうなイメージあるから……」
「ひどい! そんな目で見てたんですか!?
まあ、いいんですけど仰る通りですからね。
それじゃあ、また明日。お疲れ様でした、上村先生」
クルマにキーを差し込み、エンジンをかけて少し煩いアイドリングを聞きながら不意に視線を感じて横を見やる。
窓を開けて声をかけた。
「あのー、上村先生は帰られないんですか?」
彼女は笑ったまま、返事もしない。
ちょっとだけ、アイドリングが落ち着くまで彼女は僕の顔を見たまま立っていた。
エンジンの音が落ち着いたそんな時――。
「ハッピーバレンタイン、生方先生!」
彼女が運転席に半分くらい乗り込んで僕の胸にチョコを置いて笑って――ない。
少し恥ずかしそうにしてる、これはちょっと演出を凝りすぎて自爆してる時の顔だ。知ってる、初めての休憩時間の時と同じ顔してる。
なんなら、置いたチョコをそそくさと手に持ち直して顔を逸らしてる。
「ぎ、義理だからね?」
「ええ、分かってます」
「無理はほどほどに、ね!」
「はい、気をつけます」
「時間があっても夜更かししちゃダメだからね?」
「……そうしますよ?」
そんなやり取りを三回すると気まずい沈黙が流れた。
もはや、カナメさんが人の膝の上でネコみたいに丸まってる。
「……カナメさん」
「ひゃ、ひゃい?!」
「風邪、引きますよ? そんな短いスカートで外にいたら」
返ってこない返事を少し待って、無言のままチョコを持ってうずくまる彼女に声をかける。
「時間ありますし、ご飯でも一緒にどうです?」
次の日の朝、この出来事をバッチリと同僚に見られていて、終日イジられているカナメさんの赤い顔がとても印象に残った。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
そして、ユーリ君と過ごして10年が経った。
「ユーリ君……15歳の誕生日おめでとう……」
ICUのガラス越しに彼が人工呼吸器を装着してゆっくりと呼吸しているのが見える。
「去年までは元気だったのに――」
「上村先生……」
「先週だって私達の似顔絵を描いてくれたのに」
カナメさんが横で泣きそうな声を出して掠れながら呟く。
『生方先生! 生方先生と上村先生を描いてみたよ!』
『ユーリ君、本当に絵が上手くなったね!』
『ずっとヒマだからさ。時間もたくさんあるし、母さんが色んな本を買ってきてくれるからずっと練習してるんだ!』
『今のうちにサインをもらっておいた方が良さそうだな、こいつは』
彼の描いてくれた"僕達"の絵が意識が朦朧とする彼の周りにいくつも、いくつも飾られていた。
その中にボブによく似た犬が二匹で遊んでる絵もあった。
他にも家族や院内で共に過ごすみんなの絵もある。
下を向く彼女の代わりによくよくそれらを見回していると、あることに一つ気が付く。
「上村先生、ほらユーリ君の横にある棚を見て……」
僕がそう言うと、彼女は顔を上げる。密閉された袋に入る黄色い液体の入った小さなボトルを見つけてカナメさんは泣いたまま笑った。
「私がオススメした香水……あの子、体臭のことを気にしていたもんね……」
砂糖をまぶした傷のような、重たく甘ったるい――果物と血が同居する、そんな不自然なあの匂い。
「みんなに気を使う彼らしいね、とっても」
僕がガラス向こうにいる彼に手を添えるようにして指を震わせると、カナメさんが手を重ねた。
彼女の指は縋りつくようにして、僕の左薬指にはまる銀の指輪を爪で掻きながら同じように指を震わせ絡ませる。
ボブが少し離れたところで僕達を見ていたが、不意に背筋を張って小さく低い声を上げた。
「くぅーん……」
「ボブ……?」
ボブの反応から数秒も置かずにご家族が到着した連絡が僕の元に届いた。
あらかじめ組んでいた段取りをもう一度、スタッフと確認し、隣接された家族控え室に移す準備を行う。
「看護師長、隣室を押さえてくださってありがとうございます」
「当然のことよ。だけど生方先生……」
「分かってます、リスクが高いって言うことは」
少しすると、ユーリ君の危篤を聞きつけた家族が病棟の角までやって来る。
その家族の一人を見て、僕とカナメさんは驚いた。
首輪の色までボブにそっくりなラブラドールレトリバーがお父さんとお母さんに連れられていたのだ。
「この子も一緒に、いいですか?」
少しだけ驚いて一瞬だけ呆けてしまった僕は慌てて軽い会釈をして付き添いの看護師に確認を取る。
「消毒や衛生管理は?」
「来院時にご家族と一緒に衛生管理と健康チェックは済ませました。
ご家族の方が事前に獣医さんの元で健康診断を受けて下さってたので健康状態に問題は無いかと思われます。
今のところ不意に吠えたり暴れたりするような傾向は見られません、とても大人しいワンちゃんですよ」
「まあ、最悪はクビか……始末書で済めばいいけどね……」
看護師長と一瞬だけアイコンタクトを交わす。
「事前のグルーミングと健康状態の確認はOKです。
動き回らないようなリード管理、後は接触後の手指衛生、これだけは外さないようにしていきましょう。
接触は一瞬、直後に清拭——後は念の為に口輪は待機。
ボブが使っているヤツがあるハズです、それを持ってきておいて。
それでいいですか、看護師長?」
「こちらは問題無いわ、生方先生」
僕はユーリ君のもう一人の家族に目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだ。
「もちろん、大丈夫ですよ」
あの人達はここに来るまで何回泣いたのだろうか、丸めて疲れ切った背中が少し離れた椅子の背もたれから見える。
家族控え室に移送されるユーリ君の"思い出達"を僕とカナメさんは背筋を張って見送り、ICUで眠るユーリ君も細心の注意を払いながら伺う。
たくさんのメンバーが丁寧に、そして手馴れた手つきで、迅速に移動を終えていく。
平静を装うのに少し軽口を挿む。
「元担当看護師の同席、飼い犬の同席、たくさんの医療スタッフの動員……独断専行が多すぎてこれは本当に後始末が大変だなぁ……」
「生方くんらしいじゃない」
「カナメさんがまだウチの病院のスタッフだったらなぁ。
そうしたら、一つは無罪なんですけどね」
淡々としているのにどこか厳かで、病院の日常の一つがとても神聖な儀式のようにも見える。
ボブにそっくりなその犬は状況を理解してるのか、していないのか。
ご両親の顔をチラチラと見上げながら、小さく早いテンポでしっぽを振っている。
言葉にならない何とも言えない感情が僕の胸に込み上げ、喉のすぐそこまで出かかった言葉を飲み込む。
飼い犬をそんな様子を見やっていたカナメさんはとうとうヒザをついて泣き崩れ、すすり泣くようにして言った。
「だから、あの子は……ユーリ君は……」
しゃくり上げる声は掠れ、途中で詰まってしまったその言葉を僕は続ける。
「あの子がいるからボブを近くに寄せ付けなかったのか。あの子が大事だから、だからボブと距離を置いていたのか」
「なんて優しい子なの、あの子の為に他の犬の匂いをずっと付けないようにしていたのね」
家族が来たことが分かったのか、ガラスの向こうでユーリ君が目を覚ましたのが見えた。
カナメさんの方を見やると彼女と目が合う。
遠巻きから冷静にモニタに映るバイタルを確認して、その時の為に備えて僕も準備を始める。
後はユーリ君だけだ――。
僕がICU室に入る時に少しだけ振り返ると、ボブも少しだけ寄ってこようとしたが、すぐに立ち止まり座り込んだ。
「ユーリ君、少し揺れるけどガマンしてね。移動したら喋れるように呼吸器も外してあげるからね」
僕が彼に声をかけると、彼は小さく頷き返してくれる。
一度大きく呼吸をする。
看護師長を前、僕と看護師が左右で支えて彼の乗ったストレッチャーを動かす。
ICUを出ると、ボブはナースステーションの入口前に移動しており、背筋を伸ばし、じっとユーリ君の姿を見送っていた。
家族控え室の扉の前でもう一呼吸。
彼の両親が、彼の大好きなあの犬がリードを短くして待っている。
「――最終チェック。
モニタは携行、酸素はポータブルに切り替え。
今の酸素濃度が1.0。控え室に入室後は0.5にして容態を見て微調整を。
合図で一斉に動いて"ご家族の時間を一秒でも長く"しましょう。
幸い、ご本人の意識はしっかりしてます。
このメンバーなら大丈夫、我々は最大限のサポートを行いましょう!」
看護師長を始めとしたメンバーが小さく頷く。
僕はうなずき返し、静かに扉を開けた。
たった数メートルの距離を慎重に移動するこの時間が一番長く感じる。
家族控え室に入室し、ストレッチャーからベッドにユーリ君を慎重に手早く移動させる。挿管されたチューブを手早く外してHFNC(※高流量鼻カニュラの略、抜管後の呼吸補助に用いる)と呼ばれる装置を装着する。
「流量"50"で。SpO₂は"94"から"98"を目標に保持。落ち着くようならFiO₂を0.5から少しずつ段階的に下げてください」
「はい!」
「バイタルチェックお願いします……OKです……」
「数値安定してます、問題ありません」
「加温加湿OK、カニュラ装着良し!」
「はい、鈴木先生ありがとうございます。バイタルチェック、二人体制で確認しましたか?」
「はい!」
彼の身体の様子を入念にチェックしながら口頭でのやり取りを交わし、ユーリ君の細い腕を露わにする。
「見えなくて不安だよね。ごめんね、ちょっとだけチクッとするよ」
抜管の直後は呼吸をするのもしんどい。
僕は彼の呼吸が辛くないよう、少量の鎮痛薬とほんの少しの鎮静剤を投与する。
「終わったよ。見えないかもしれないけどカーテンの向こうに上村先生も居るからね、ユーリ君」
本当に小さな声でそう伝えて処置を終え、看護師に促されてご家族が入室する。
カーテンを閉めると少しだけ遅れて「かたん……」と扉の閉まる音がした。
「父さん、母さん。心配させてごめんね……来てくれてありがとう……」
辛うじて聴こえるか細い掠れた声にご両親は泣きながら首を振って彼の手を握る。
そのあと、ユーリ君は見えるハズもない壁の向こうにいるボブの位置を正確に目線だけで見やった。
「ボブもごめんね、今まで……」
初めてボブに向けてその名前を呼び、少しだけ申し訳なさそうな顔をしている。
(愛着が湧くのが怖かったんだね。ずっと"レオ"と"ボブ"を重ねないようにしていたんだね、ユーリ君……)
本当のところは分からない。分からないけどきっとたぶんそうだったんだと僕は思った、そう思わずにはいられなかった。
「ねぇ、母さん?」
「なに、ユーリ?」
ユーリ君は不意に何かを探すように手を振り、明るい声で言った。
「母さん、レオはそこにいる?」
その優しい呼びかけに、掠れても弾む声に、ユーリ君にとって"レオ"との時間はどれだけ大切なものだったのかがよく分かる。
ユーリ君が力無く手を振ると"レオ"と呼ばれた犬が近付いて指先をぺろりと一瞬だけ舐める。彼はレオの頭を撫でて優しく笑った。
「レオ、来てくれてありがとうね」
看護師が彼らの視界に入らないようにしながらも彼の指を拭き取っている。
首を動かせない彼の為、僕とお父さんはレオを持ち上げて顔を見せてあげる。
ユーリ君はまた嬉しそうに笑った。
彼は笑いながら少しだけ寂しそうな顔をして、少しずつゆっくり辛そうに口を動かす。
「生方先生、上村先生。ありがとうね、ずっと優しくしてくれて……先生達のおかげで僕は一回も怖いって思ったこと、なかっ、た……よ……」
しばらく心電図のやたらと高い音が室内に響き、僕は腕時計を見た。
「2022年1月22日、00時03分58秒……桐谷ユーリ君の死亡を確認しました……」
カーテンに仕切られた向こう側でカナメさんの抑えた泣き声が確かに聴こえた。
―――――――――――――――――――――――――――――――
ユーリ君を襲った突然の発熱と倦怠感。
そして、最善を尽くしたが処置は間に合わなかった。
詳細は伏せることにしよう。
そんなもの、誰がどうしたって、今さら彼が戻ってくることはない。
彼のいた病室の片隅、ボブはただじっと立ち尽くして彼のベッドを見やっている。
その横にある棚に一つだけ片付け忘れられたチョコがあった。もちろん、エリスリトール使用のヤツさ。
ボブと僕はこっそりと目を合わせて、そいつをポケットの奥に押し込んだ。
病室を出て左のポケットに手を入れると、チョコがかつんと指輪に当たる感触があった。
彼は亡くなる直前にボブの方をちらりと見た気がする。
ほんの、ほんの少しだけだったんだけれども。
──あの瞬間だけは嫌悪の顔じゃなかった。
僕はボブにそれを見せてあげたかったんだ。
ーおしまいー
「ありがとう、大好きだよ」
ハジメマシテ な コンニチハ!
たかーらです。
今回は特別編、そして初の二次創作作品となります。
……とはいえ、もはやこれは“二次創作”と呼んでいいのか分からないほど、私自身の妄想と想いが詰まったストーリーになりました。
それでも、どうしても形にして届けたくて、拙いながらも筆を取りました。
少しでも、何か心に残るものがあれば幸いです。
⸻
少しだけ、真面目な話を。
一型糖尿病──それは、現代医療では「100%治ることのない病気」です。
どんなに状態が安定していても、どんなに希望が見えていても、“完治”という言葉は今のところ存在しません。
しかも、発症はある日突然やってきます。
昨日まで元気に走っていた子が、今日には重症化している──そんなことが本当に起こる病気なのです。
だからこそ、少しでもこの病気の現実を知ってもらいたい。
ほんのわずかでも、誰かの理解につながれば──その想いでこの物語を書きました。
⸻
元となった作品のイメージを借りてしまったこと、
また、ご本人の気持ちに反するかもしれない形での創作になってしまったことについては、心よりお詫び申し上げます。
でもどうしても、届けたかったんです。
“生きる”ということの重みを──、“続ける”ということの奇跡を。
読んでくださったあなたへ、心からの感謝を。
そして、糖尿病とともに生きるすべての方が、少しでも幸せでいられるように──祈りを込めて。
続いて、作品の解説を入れたいと思います。
この作品最大のミスリードは"レオとボブ"です。
姿形の似た犬に対してユーリ君の抱いていた感情はとても複雑でした。
ここで出てくるのが、"医師と看護師"・"飼い犬とセラピー犬"という対比構図です。
いつだって関わる存在としてウェイトが大きいのは、『レオ』なんです。
ですがその裏で彼らを支える『ボブ』もまた確かに一緒にいます。
犬はとても嗅覚の鋭い生き物です、私達が知覚することの出来ない些細な匂いで彼らは"察すること"ができます。
ボブがユーリ君の感情に気が付いていたのも、レオが自分じゃない人達やどこかで自分の代わりにユーリ君を見守っていたのも彼らは決して気が付いていないなんてことないと思います。
私達、人間の方が遥かに鈍感なのかもしれません。
この物語の最終回答に辿り着くヒントは最序盤に出てきた"患者と家族を支えるのは医者でいい、私達は医者を支えるドレーンであればいい"です。
医療にはたくさんの人間が関わります。
薬を開発する人・医療機器を生み出す技師・現場で命を繋ぐ人……多くの方々が支え、私達は病院で安心して治療を受けることが出来るのです。
最終盤で出てきた"ボブによく似た二匹の犬の絵"と"生方先生と一緒に描かれた上村先生"はここで繋がります。
そして、ユーリ君が初恋のまま言えずに終わってしまった恋の相手は"上村先生"です(これはチョコのくだりや彼女のオススメした香水を買ってつけていたなどの描写から読み解けます)
ボブと上村先生にユーリ君の伝えたかったこと、それは『"ありがとう"と"好きだよ"』だったんです。
この想いは医療を支えるすべての皆さんへ治療を受けることの出来る私達から贈る言葉だと私は考えます。
近年までは多くの作品でも取り上げられてきたように医師以外の立場はとても低いものでした。
ここでもう一度、スポットを当てた作品を作りたくなったんです。
それと一つ言い忘れましたが、上村先生の呼び方が揺れるのもシーン毎の立場や小児科の特異な立ち位置、生方先生やユーリ君達との関係性もあります。
(例:小児科では児童に合わせて先生呼びをする。距離感を測りかねて生方先生が上村さん呼びする。など)
そして、最後に
レオである皆さんへ、そしてボブである皆さんへ
今日もありがとうございます。
それでは、またどこかで〜 ノシ




