カタカナ
というところで、ここ数日で我々の人生に急激に干渉してきているダンジョンがまさかの感情にまで干渉してきていると思われることについて改めてみんなと相談していこうと思う。
三人寄れば文殊の知恵とも言うしね。
こういう時にブレインストーミングだのフェルミ推定だのという言葉を持ち出してくる人がいるが、とかくカタカナ言葉を使ってマウントを取ろうとしてくる人は苦手だ。
中にはちゃんとその意味を判らないで使っている人もいるから余計にたちが悪い。
会社で働いてる時にレジュメのつもりでアジェンダを要求してきてる間抜けな上司がいて、アジェンダは出してるのに何言ってんだこいつってなっちゃったんだよね。
向こうは向こうでこれのどこがアジェンダなんだよって言い張るし、さっぱり噛み合いやしない。
言葉の意味をちゃんと理解できていないくせにイケてるビジネスマン気取ろうとして雰囲気だけで使うから余計な恥を晒すんだよ。勘弁してくれ。
それ使い方間違ってるよって指摘するのも間柄によっては憚られるし本当に厄介だよね。
テレビのニュースでも日本語で表現できるのに外来語をそのまま使うことが増えているのもすごく気になる。
新型コロナウイルス関連のニュースでもそういう言葉がこれでもかと飛び交ってたよね。
クラスターやロックダウン、パンデミックにオーバーシュートって使った後に所謂なんとかって言うぐらいなら最初から所謂の方だけでいいじゃないかと常々思っている。
その所謂もここ最近は言わなくなってしまったところも多いけど、そんなに一般化してないんじゃないかなと思うのは私だけだろうか。
クラスターなんて、本来の「房、群れ、集団」っていう意味も、報道で意図していた「集団感染」の意味もどっちも覚えていなくて、「あぁ、クラスターね」って曖昧になってる人が多いんじゃないかな。
恐ろしいのは日本語で説明すると長ったらしくて面倒くさいからとそのままカタカナで通用させようという思惑を感じなくもないメディアのいい加減さだね。
新型コロナウイルス関連で挙げるならソーシャル・ディスタンスだろうか。
ソーシャル・ディスタンスを意識しましょうとか言われても、最初は「何それ?美味しいの?」か、私たち世代だと「星空の下のディスタンスは500マイルぐらい離れればいいの?」状態だったよね。
だったら、排他的感染予防領域とかにしてくれた方がすんなり受け入れられたと思うのだがどうだろう。ダメ?
幕末や明治時代には西欧文化が急激に押し寄せたことで、多くの翻訳者が活躍して翻訳文学や和製漢語が生まれたんだよね。
有名なところでは福沢諭吉が「自由(liberty)」、「経済(economy)」、正岡子規は野球のルールや用語の「打者」、「走者」、「直球」といった言葉を生み出して現代にまでしっかり定着させている。
夏目漱石の「I love you」が「月が綺麗ですね」の話もあちらこちらでよく取り上げられていたりするよね。
まあ定着せずに消えていった言葉の方が多かったんだろうけど、ちゃんと日本語にして理解しようとした先人の功績は称えるべきだと思う。
一方、現在はというとネットが一般に普及していることもあり、日常生活に外来語が氾濫している状況であり、余程の権威が後押ししない限り新造語を定着させるのは難しいと思われる。
だが、それでもメディアが安易にカタカナ言葉のままで流布させるのは無責任すぎると思うので、どうか独自で構わないので日本語で伝えようとする努力を怠らないでほしいものだ。
「「天の声」が聞こえる人と聞こえない人がいるのはなぜなのでしょう。」
「今のところ聞いた人は、私とお父さんと安藤さんなのよね。」
「残念ながら聞いた覚えがないのですわ。」
「妄想の中では多田さんがいつでもこれでもかと責め立ててくれるんだけどね。」
「そういうのいいから。新しいスキル貰った時とかに聞こえるんだっけ。ガチャしてもらった時も聞いた覚えがないわね。」
「聞いた人と聞いてない人それぞれの共通点でも挙げてみる?」
この後、紀香と安藤さんが声を聞いた時の状況をもう一度根掘り葉掘り聞かれて何かを導き出そうと試みていたようだが徒労に終わりそうだ。
多分、そういう個人の状況や手順を踏んで条件を満たすようなものじゃない気がしてるんだよね。
私としてはそれより意思とは無関係にキーワードに反応して降伏が成立するということを聞いた時に既に思い至っていたことがあり、感情の増幅のことが確認できたことでそれと結びつき、それが間違いじゃなかったと確信に近くなっている。
それが何かというと、「天の声」は誰もがもれなく備わっているというか寄生されているだろうということだ。
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