《修正版》星の語り手
『異世界風土記〜諸国漫遊が仕事〜』の後日談になっています。こちらから読んでも問題ないように書いたつもりですが、あえてまっさらな状態で読みたい方は、あとから読むことをおすすめします。
秋の森は、一年で最も鮮やか。それはこちらの世界でも全く変わりはない。
しかし視覚的な賑やかさとは裏腹に、夏に比べれば活気そのものはあまりないように思う。鳥のさえずりや獣の足音は少なく、時間の流れが少しだけ重みを持ったようにのったりしている。
「ユキーー! これって食べられるよねーー?」
絶え間ない落葉の向こうで、元気の良い声がする。燃えるような朱の地面を進んで行った先の彼女――――――レイカは、真っ白な…………白いキノコはあまりに地雷過ぎないだろうか。
「……これを食べてる地域は見たことないな」
エルフが薬膳に使っていたようなそうでもないような。確かあれは便秘に効くからどうのとか。エルフは食が常軌を逸して細いし、消化に時間をかける。便秘薬とか言っていたが多分用途は毒薬に近いやつだろう。
「ダメだ。腹を下したくないならやめといたほうがいい」
「了解!」
そーい!と間抜けな掛け声で、遥か遠くにソレをぶん投げると、さらりと一つに結んだ焦げ茶色の髪が揺れた。なるほど、これは確かに馬の尻尾と呼ばれるわけだ。
「キノコは結構ヤバイのが多いから、できれば木の実とか果物を中心に集めてくれ」
冬になると食べ物も高くなるし、人里離れたところでは食べ物がない。結局、今の季節に自分たちで作っておくのが最も効率が良かった。
「りょーかい!」
もうすぐ日が落ちる。もう少ししたら二人で小屋に帰ろう。冬になれば野宿も厳しくなる。今の季節に拠点になる廃屋を見つけらたのは、随分な幸運だったと思う。
街から随分と離れた森の中。彼女と二人で、もうニ年は旅をしている。放浪よりも逃避行という言葉が似合う旅路で、何かを知るよりも忘れるための旅路。街を発ってから荷物の量はそう変わらないが、何故か、得たものより失せ物のほうが多いような気がする。
「ねえ」
暖炉の火を見つめながら、彼女は穏やかに話しかけてきた。しばらく前に暖炉の前にぶら下げた秋の実りは、もう既に揺れることなく、炎に照らされて明滅した。
「……ううん、なんでもない」
そう言葉を切ると、先刻までの無言の時間が帰ってきた。
それでいい。彼女の目に映った火の揺らめきを眺めるほうが、話しているよりもずっと気楽だ。旅の時間は長く、話しているよりも黙っている方が自然なのだし、それに彼女がこうやって話しかけるときはいつも――――――。
「まだ忘れないさ」
一瞬、絹を束ねたような髪が、頬をなでたような気がした。
やめてほしい。
解ってしまう。彼女が俺の何を心配していて、それにどう触れていいか迷っていることも。それだけでない、俺に向けられた感情も。
そんな暖かくて真っ白な感情への触れ方はわからない。それでも、それに応えないでいるのは、断罪されているかのような痛みを伴う。だから自分の感情を言葉に出してしまう。それしか贖罪の方法はわからない。
「ごめん。俺の未練は多分…………。
あのときの俺にこうやって着いてきてくれたのが、心配だけじゃないってことも、薄々わかってる。でも、今の俺には――――――」
絹の髪。淡い赤。穏やかな寝息。低い背。幼さの残る陽色の笑顔。――――――「 、 」。あの声も。
まだ忘れられない。苦しい。どこにもあるはずのない、唯一つの亡くしもの。そんなものを探しているから、他に持っていたはずのものを、たくさん失くしていくのだろう。
「……ふふ、また泣いてる。
外に行こう」
涙を拭ってくれた手は、今度は腕を掴んで、外への扉に引っ張っていった。
空に散りばめられた極小の宝石たち。幾星霜を超えて瞬き続ける神様のコレクション。昼間の森からは視覚的な生命力も失われ、ここにいるただ二人より他は眠りについた。
「あれは竪琴。奥さんを忘れられずに冥界までも旅して、もう一度大切なものを亡くす、悲しいお星様」
旅を始めて知った。この娘がこんなに星に詳しいなんて。幼い頃にたくさん読んだ本の知識だというけれど、それは同時に、彼女の孤独すら物語っている。
「見つけるたびにちょっと悲しくなるんだけど、わたしはこのお話がすごく好き。でもやっぱり、この人は最後まで悲しいの」
独り書架で、分厚い本を手に彼女が識った奏者。死者に魅入られ、自らも死地へと向かった優しいひと。
生きているうちは、生きている人を見つめなければならない。そんな教訓。
この娘はたぶん、独りが苦しいんだろう。独りになりたい俺とは違う。……いや、独りが嫌だからこそ、そんな俺を独りにしたくないのだろう。
「ユキ」
「ん?」
「冬に一回だけ王都にもどろう。それで、また星読みの祭りに行くの」
ずっと俺を見つめている。
「うん」
涙が溢れてきたことに、今度は自分で気がついた。
穏やかな新年を祝う祭りの中、星が滲んだ。あのときから、彼女は神話を語っている。
知らず知らずのうちに握りしめていた空っぽの左手で、涙を拭う。
「あのときは全然回れなかったけど、食べ物だっていっぱい売ってるから……って、また泣いてる」
自分で拭う、もう助けはいらないと伝えたつもりだったのに、彼女の暖かな手が、今度は背中をさする感触がした。
すぐそばで寝息が聞こえる。竪琴は既に大地の果てに落ち、夜空ではまた新しい宝石が神話を囁く。
星の降る夜の幻影を追う。あの細い身体を抱きしめようとして、目の前にある顔かたちが、いつかのそれとは全く違うことに気がついた。
手を引っ込める。今の俺には彼女を愛せない。死者に魅入られた人間の旅路に、生者を巻き込むわけには行かない。
――――――目を閉じる直前、二人で集めた山菜が目に入った。俺は判断ばかりで、ほとんどは彼女の拾ったものだ。
彼女の生命力の証。
彼女は大丈夫だ。俺を見ていることで、彼女が引きずられることはない。
そうか。ずっとそうだったんだ。俺を人の営みに繋ぎ止める楔だった。この手が、生きるために必死に食べ物を集めた手が、俺の失くしたものをすべて持ってくれている。ああ、そうだ。彼女には俺が必要なのかもしれない。でも、
俺の方がずっと、彼女を必要としてるんだ。
まだ、抱きしめることはできない。これがあと何年続くだろうか。それでも――――――。
身体のそばに落ちた彼女の右の掌に、自分の右の掌を重ねる。これが今の俺の精一杯。
夢うつつの中、彼女が手を握ってくれたのを感じた。
二人には広すぎる家の中に、優しい記憶が佇んでいる。全ての人の、何より俺の幸せを願った彼女が、優しい闇の中、あの陽色の笑顔で微笑んだ。