表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/244

   (その六)流されるのも一つの手です

 どれだけ天下が努力に努力を重ねようと、涼は彼の想いには応じられない。天下が問題なのではない。涼が問題なのだ。教師と生徒との恋愛のリスクを思う。それを差し引いても、自分を考える。不釣り合いだ。天下に応じるだけの価値が、自分にあるとは思えなかった。カップラーメンは所詮、カップラーメンなのだ。

 でも――涼は不意に、琴音の声を聞いたような気がした。

 私は好きよ、カップラーメン。

 価値は人それぞれだ。故に芸術が成り立つ。たとえ自分が価値を見い出せなくても、他人が価値あるものと見ているものを否定することはできない。それは、ただの独善だ。

 だから、涼自身が価値を見い出せなくても、天下にとっては違うのかもしれない。

 渋々去ろうとした天下の右腕を涼は掴んだ。怪訝そうな顔をする天下。無視して涼は手を取った。歳下とはいえ男だ。筋張った手は涼のものより大きかった。

「先生?」

 ボランティアだと思え。そう、大した意味はない。意味とか考えるな。事務的に。借りを返すだけだ。

「……どうした」

 天下だって言っていたではないか「大したことじゃない」と。彼がしたことに比べればこれくらいどうというものではない。社交界では挨拶だ。

「俺の手に何かついてんのか?」

 イタリア人よ、プッチーニよ、プラシド=ドミンゴよ、今だけ私に力を。

「おい、せんせ――」

 涼は手の甲に唇を押しつけた。暖房の利いた部屋にいるにもかかわらず、触れた彼の手は冷たかった。つまり、自分はそれなりに熱いということだろう。

 口を離して見上げれば、間の抜けた顔をしている天下と目がかち合う。

「……え…………あ、」

 大きく見開かれた切れ長の眼。掠れた声が薄い唇から出る。

「先生、今――」

 そこまでが限界だった。涼は教卓の上に置いたアライグマ印の消毒液を三回押して、天下の手にすりつけた。

「ちょっ、待て! どういうこったあっ!」

 慌てて引こうとする天下だが、涼は逃さなかった。しっかり掴んで消毒完了。用済みとなった手を解放する。

 消毒液まみれになった自身の右手を穴が開くほど凝視して、天下は悲痛な声を上げた。

「何だ今の……っ!」

「消毒です。雑菌がつくといけませんから」

「どこの世界にキスした直後に丹念に消毒する奴がいんだよっ!」

「二週間前に同じようなことをした馬鹿を私は知っているが?」

 冷静に切り返せば天下は拳を震わせて項垂れた。

「……天国から一気に地獄に突き落とされた気分だ」

 お気に召さなかったようだ。が、残り時間はあと三分。涼は天下の背中を押した。

「さあ満足したろう。帰れ」

「むしろ不満しか残らねえよ」

 未練がましげに天下は右手をじーっと見つめていた。しかし消毒液の匂いしかない。幸いなことに涼は基本的にリップクリームで、口紅をしていなかった。

「全国模試で一位でも、もうやらない。二度とやらない」

 全ての希望を断ち切るように涼は言ってのけた。

「先生」

 それでもまだ諦めがつかないのか、扉をくぐっても天下は振り返った。眉間に皺を寄せ、自身の唇を指差す。

「後生ですから、こっちにしてくださいませんか?」

「帰れ」

 涼は思いっきり扉を閉めた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ