(その二十二)嫌いになるには理由がいります。
唇から発せられた不穏な言葉に涼は眉を寄せた。
「心中?」
「死なば諸共、道連れにしてやろうと思ったんです」
その意味を咀嚼する。涼が民子を告発するとでも思っていたのだろうか。だとすれば杞憂だ。怪文の件を涼が言おうものなら、民子だって佐久間と遙香の件を黙っているとは思えない。お互いに弱みを握り合っていて拮抗状態だったはずだ。
「私は、誰にも言うつもりはありませんでしたよ?」
「違います。職を追われることではありません」
ややむきになって民子は言い返した。
「愛の反対は何だとお思いですか?」
突然そんな哲学的な質問をされても答えようがない。そもそも愛の解釈は人それぞれであって、何世紀もの間数多の哲学者が研究に研究を重ねたが未だ明確な答えを導き出せていない。そんなものを音楽教師が論じる方がどうかしている。
「無関心ですよ」
最初から涼の答えは期待していなかったのか、民子はあっさりと言った。
「憎まれた方がまだマシです。私は気にかけてすらもらえませんでした。彼にとって私は、路傍の石同然です。食事に誘っても、こっそりチョコレートを机の上に置いても、彼は全く相手にしてくださいませんでした。いつも困ったように苦笑するだけ。はっきりと断ってもくださいませんでした。無視に等しいですよ」
そんな軽薄な無神経野郎を好きになったのは民子本人だ。たしかに、佐久間の曖昧な態度は褒められたものではないが、それを咎める権利はないはずだ。民子だって正々堂々としていなかったのだから。
「だから、いっそ憎まれてやろうと? 社会的心中を図ったわけですか」
「彼が最初に私を踏み躙ったのですよ」
燃えるような瞳で民子は断言した。
「私だって苦しかったのです。よりにもよって教え子と交際するなんて……眠れない夜が何度続いたことか。校長に報告するべきか、佐久間先生に忠告するべきか、別れるよう諭すべきか、考えて、悩んで――その間も彼は教え子と一緒にいると思ったら気が狂いそうになりました。どうして、私ばかり……」
嫉妬だ。それが歪んで逆恨みに発展した。涼は冷めた目で自分の正当性を訴える民子を見た。全く同情できなかった。
「佐久間先生を好きになったのは渡辺先生。二人の関係を知って気にしたのも渡辺先生。全てあなたが勝手に思い描いただけですよ。頭の中で何を考えようと咎めはしませんが、他人に押し付けるのは間違っています」
その前に恨みがあるなら本人に言え。他人を巻き込むな。涼の心を悟ったのかどうかはわからないが、民子は目を眇めた。
「私、やっぱりあなたの事を好きにはなれませんね。澄ました顔で他人の急所を掴んで握り潰す方なんてごめんです」
「奇遇ですね。私もです」
「でもあなたがどうして、他人を見抜くことに長けているのかは、想像つきますよ」
民子は満足そうな笑みを浮かべた。
「自分が秘密を抱いているからですよ。だから暴かれる前に他人のを暴こうとするんです」
可哀想に、と民子は呟いた。
「自分を守るために他人を攻撃せずにはいられない。これから先、あなたはずっとそうやって生きていくんですね」
可哀想に。静かに発せられたその一言は粘質の毒の如く涼の中に染み込み、いつまで経っても薄れる気配を見せなかった。
お読みいただいてありがとうございます。これで六章も終了。終章へ突入いたします。
で、似非優等生の試験結果も出てくるわけですが……活動報告の通りにいたしますので、とんでもない順位になります。これはフィクションですので。実在の人物、団体とは関係ありませんなので、その点はどうかご容赦ください。




