(その二十)タダほど高いものはありません
見覚えのある背中と遭遇したのは昼休みだった。購買のパンを無造作に持ち、行く先はおそらく教室だろう。人気のない渡り廊下を歩いていた。
「鬼島君」
咄嗟に涼が声を掛けると、天下は足を止めた。
「今朝は……え?」
涼は言葉を失った。
振り向いた天下の白皙の頬。その片側には腫れがあった。定番の手形ではなかったが、その赤さは衝撃を物語るには十分な色合いを持っていた。
「振られたのか」
「こっちから願い下げだ」
殴られてやったんだ、と天下は顔を顰めた。
「矢沢だって佐久間との関係がバレるのは困る。利害が一致してたんだよ。あいつもそれを理解した。だから、一発殴るだけで水に流すってさ」
それはまた、なんとも遙香らしい言い草だ。容赦なく引っ叩いた遙香を思い、甘んじて受けた天下を思い、涼の口元には自然と笑みが浮かんだ。
「君が汚れ役を引き受けることはなかった。あの二人の関係がバレたら加担してた私も多少叱責は受けるだろうが、それだけだ。下手に処罰すると騒ぎが大きくなってしまう。学校側としても内々に終わらすつもりだったろうに」
「でも、確実に佐久間と矢沢は引き離される。それだけなら別に構わねえが、噂は確実に広まるだろうな。好奇の視線にさらされて――二人だけの問題じゃなくなる」
それこそ、涼が一番懸念していたことだった。矢沢遙香の両親はどうなる。娘が教師とデキてたなんて知ったら。大人には世間体というものがある。何よりも、これからも学校に通い続けなければならない遙香本人は。彼女がこれから送るであろう学校生活は一体どうなる。
「同情したのか?」
「まさか」
天下は薄く笑った。
「俺は連中が周囲から白い目で見られようが、二人で思いあまって掛け落ちでも心中でもしようが、どうでもいい。自業自得じゃねえか。それを承知で付き合ってたんだろ? なら、リスクも負うべきだ」
淡々と言う天下の口調に迷いはなかった。
「でも、あんたは違う。どうしようもねえ奴らだが護ろうと必死になってた。だから俺も陥れるような真似だけは絶対にしたくはなかった。あの程度の汚れ役だってやるさ」
馬鹿だな。今まで優等生として教師達の信頼を築き上げていたじゃないか。こんなことのために捨てることはなかった。口を開きかけて涼はすぐさま閉ざした。
こちらを見る天下の目がいつになく穏やかなものだったからだ。
「あんたが大切にしてたもんじゃねえか。護りたいと思って何が悪い」
涼は目を逸らした。いたたまれない。必死で護ってなんかいなかった。逢引現場を目撃したから叱った。巻き込まれたから手を貸した。その場しのぎの言い訳を繰り返し、破綻しそうになったら一番最初に投げ出した。天下の言う通り、涼は中途半端なのだ。
でも天下は違った。無関係なはずのこの青年だけが、最後まで諦めなかったのだ。
「私は、結局君のために何一つできなかった。家庭の事情に首を突っ込んで、かき回しただけだ。手を差し出しておきながら、いざ危うくなったら無責任に放り出した」
「でも勝手に帰った俺を探してくれた。俺の話を聞いてくれた。一緒に年越ししてくれた」
「君の事を迷惑だと言った。それも一回じゃない。関係を聞かれる度に、何度も、何度も」
「俺だって、あんたがお袋のことで首を突っ込んできた時、迷惑だって言った。本当は、すごく嬉しかったんだぜ? でも、あんたは公園まで追いかけてくれた。自分の職懸けて抱きしめてくれた。挙げれば沢山ある」
もういいじゃねえか。天下は肩を竦めた。
「キリがねえよ。俺は借りとか考えてやったわけじゃねえ。あんただから、勝手にやっただけだ。迷惑で面倒だって? 上等じゃねえか。それでもあんたがいいんだよ」
自惚れてもいいのだろうか。自分にそれだけの価値があると。涼が口を開こうとした丁度その時に「きじまあ」と間延びした声が降ってきた。見上げると、三階から手を振る男子生徒数人。
「早くしろよ。もう食ってんぞ」
天下は肩を落とし「うるせえ。今行く」と怒鳴り返した。
「先生、俺――」
「さっさと行け。君はもう少し歳の近い子と仲良くした方がいい」
ひらひらと軽く手を振って涼は送り出した。天下は不満げに眉を寄せ、それでも教室の方へと足を進めた。が、校舎内に上がるか上がらないかの場所で振り返った。唇を引き結んでいるものの、目は物言いたげで。溢れてくる何かを必死に押し止めているようだった。様々なものが織り混じった焦燥感。見ているこっちの息が詰まる。
「天下?」
「本気なんだ」
天下は少し顔を横に逸らした。
「……本気で、好きなんだ」