(その十六)後には引けません
朝の会議等で職員室には毎日訪れるが、音楽科準備室に机があるため、長居はしない。ゆっくり紅茶を飲むのも、授業の準備するのも全て準備室でだ。改めて入室すると、意外に職員室は広く感じた。
教師の数が少ないせいかもしれない。その十数名の視線が一斉に向けられ、涼は面食らった。場所を間違えたのかと一瞬思う。が、その考えはすぐさま消えた。
教師に囲まれている女子生徒がこちらを振り返った。途方に暮れたような眼差し。いつもの小生意気さは鳴りを潜めていた。その隣に立ち尽くしているのは佐久間。それだけで涼が全てを察するには十分だった。
ついに破綻したのだ。
「何事ですか」
白々しいと思いつつも涼は何食わぬ顔で近寄った。
対峙する形で立つ学年主任は無言で写真を突きつけてきた。画像が荒い点からしてケータイで撮ったものだろう。それをわざわざ現像する辺りに悪意が伺えた。しかし、重要なのは誰がどう撮ったかではなく、何が映っているかだ。
どこぞの教室内(空き教室だろう)で抱き合う二人。
もはや言い訳のしようもない。状況が許すなら涼は笑い出すところだ。よりにもよって学校で。電車の中なら「よろけたのを咄嗟に支えました」で誤魔化せたものを。
人気のない校内で制服姿の教え子を抱きしめる教師――適当な説明などできるわけがなかった。
(終わったな)
幕引きだ。古今東西、秘密事が明るみにならないケースは極僅かだ。『ローエングリン』の白鳥の騎士の名だって明らかになるし、トゥーランドットに挑んだカラフ王子だって最終的には自分の名を自ら明かす。オペラの役者たるもの、潔く幕を引くべきだ。涼の小芝居は終わった。
しかし、これはオペラでも小芝居でもない現実だった。『悲劇』の一言で幕が下りるわけじゃない。どれほど悲劇的で苦痛に満ちたものであってもその先を続けなければならないのだ。ならば精一杯足掻くしかない。
「何ですか、これは」
「私が聞きたいくらいです。佐久間先生と矢沢さんが抱き合っているように見えますが、一体どういうことです?」
見ての通りです、学年主任。
ぶちまけたいのを涼は堪えた。許されるものなら逃げ出したかった。遠慮なく注がれる軽蔑と胡乱の眼差し。耐えがたい屈辱だ。それでも涼は折れるわけにはいかなかった。
「お二人は何と?」
学年主任は無言で顎をしゃくった。本人から弁明しろと言わんばかりの態度だ。佐久間は唇を引き結んだまま、何も言おうとはしない。その隣にいる遙香が逡巡の後に口を開いた。
「……先生は、悪くありません」
と、一言。それ以上は何も言おうとしない。本人は佐久間を庇っているつもりなのだろうが、逆効果だ。意味深な態度にますます疑惑は深まる。
「渡辺リョウ先生、あなたはこのことをご存知だったんですか?」
ここで何も知らなかった、と言えば、涼が咎められることはない。交際相手に浮気されたという大恥はかくことになるが、責任を問われることはない。半年近くも隠ぺいに協力した教師も共犯だ。教師ではいられなくなる。
涼から教職を取って後に残るのは、幼いままの渡辺涼だ。母親が秤にかけて捨て去った。その程度の価値しかないものだ。
遙香が切羽詰まった声で弁明した。
「渡辺先生は、関係……」
「存じ上げていました」
涼がそれを遮った。呆れかえる学年主任を正面から見据える。
「九月頃でしたか、彼女から相談されました」