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   (その十三)価値観の押し売りは控えましょう

 その程度の人間だということですよ、榊琴音さん。

 口にしたら最後、烈火のごとく怒り狂うのは目に見えていたので、涼は黙りこくった。人類皆平等なんて嘘だ。琴音のように理解ある両親と兄弟、何不自由ない生活を生まれながらに持っている人もいれば、生まれて息をしただけで不必要と捨てられた人だっている。

 無価値な人間などいない。しかし人それぞれの価値に差はあるのだ。誰が否定しようと厳然と存在する差が。

「人には分ってものがあるんだよ」

「あんたが勝手に作った分がね。自分を卑下するのも大概にしなさいよ。傍から見てて苛々する。涼は昔っからそうだった」

 変わる要素がないのだから当然だ。何年経とうと涼の生まれが変わるわけでもない。

「勝手に分を決めて、そこから出ようとしない。欲しいものがあっても指をくわえて見ているだけ。手を伸ばす前に諦めている。それも全部、自分の分のせいにして」

 誰も決めてくれなかったから、自分で身の程を決めただけだ。

 生まれて最初に覚えたのは、諦めるということだった。自分が力を尽くしても決して手に入らないものがある。それを涼は幼い時から知っていた。同時に、そんな努力をしなくても手に入れられる人もいることも。世の中は、そんな人が大半を占めることも。

「欲しいものがあるなら力を振り絞って掴んでみなさいよ。努力している人に失礼だと思わないの?」

 正論だ。しかし涼には詭弁にしか聞こえなかった。努力さえすれば手に入るものしか欲しがったことのない琴音だからこそ言えることだ。最初から用意されていた側の言い分に過ぎない。

「じゃあ、どんな努力をしたら」

 琴音の言う通りだ。自分は昔から何一つ変わっていない。二十年以上経つのに自分の決めた分から一歩も踏み出せずにいる。涼は悪意を込めて琴音に訊ねた。

「どんな努力をしていたら、私は捨てられなかったんだろうね?」

 自分の失言に気がついたのか、琴音は気まずげな顔をした。

「ごめん。言い過ぎた」

「私も、急に押し掛けてきて悪かったよ」

 会話の終了を示すつもりで涼は立ち上がった。ここにいても琴音も自分も不愉快になるだけだ。鞄を手に取り、コートを羽織った。

「涼」

 途方に暮れたように琴音が名を呼ぶ。

「本当にごめん。私、そういうつもりじゃ」

「知ってるよ」

「でもね、今のままがいいとは思えないの。もっと自信を持ってほしいの。やっぱりおかしいよ」

「わかってる」

 涙を湛えた琴音の瞳は潤んでいて、涼は綺麗だと思った。

 見目の美しさだけない。他人を思いやることのできる心が、だ。残念ながらそのどちらも自分にはなかった。泣くことすら虚しくてできやしない。見ているのも苦しくなって涼は玄関へ向かった。

(なあ、どうしたら君みたいになれる?)

 つい訊ねてみたくなる。榊家に生まれていたら、せめて親に不要もの扱いされなかったら、琴音のようになれたのだろうか。

「大丈夫だよ。君が悪いわけじゃない」

 むしろ原因は自分にある。何でもかんでも生まれのせいにしてしまう卑屈さが涼の全てだった。

「でもな、わからないんだ」

 ドアノブに手を掛けた中途半端な状態で、涼は振り返った。

 琴音は怒って当然だと言う。彼女のふりだなんて、同僚を馬鹿にした行為だと。二年生だという理由だけで主役を降ろされるなんて不当な扱いだと。しかし、当の涼自身は怒りを覚えなかった。

 代用品扱いに天下は激怒した。全国模試百位以内という無謀な試みに挑んでも、自分の将来をふいにしても構わない、とさえ言った。しかし涼はそうは思えなかったのだ。天下が寸暇を惜しんでまでしなくてもいい勉強に励み、待ち構えているであろう輝かしい未来を捨てる。そんなことをする理由が見当たらない。

「自分にそれだけの価値があるとはどうしても思えないんだ」

 スタンウェイのピアノが最高級のものであると価値付けられるのは、生み出した『スタインウェイ&サンズ』が最高の価値を付け、世の音楽家達がその評価を支持したからだ。人間ならば親がそれに相当する。どんな人間であろうと、親にとっては無条件で愛すべき存在であり、最高の価値を付けられる。

 ではその親に不要なものと――無価値であると断じられた自分の価値は、一体誰が決めるのだろう。


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