(その十二)説教は親と教師だけの特権ではありません
「あんたが悲しいのはよくわかったわ」
とりあえず最初の一時間は黙っていた琴音だが、ついに堪忍袋の緒が切れたらしい。音楽雑誌を閉じて、半眼でこちらを見る。
「だからって私の家に来ないで」
涼は指先に力が入らないことに気が付いた。普段あまりピアノを弾かないせいだ。授業での伴奏はともかく激しいタッチの曲を弾き続けられるほど鍛えられてはいない。
「疲れただけだ。悲しくはない。むしろ安堵しているね。これで私の平穏が戻ってくる」
「じゃあウチに上がり込んで延々ピアノ弾き続けないでよ。しかも何? さっきから『革命』ばっかり。ショパンになんか恨みでもあるの?」
「今、エチュードでまともに弾けるのこれだけなんだよ」
専攻はあくまでも声楽。ピアノは副科だ。自宅にピアノを置けるほど裕福でもなければ必要性も感じなかった。が、衝動的に演奏をしたくなると不便だ。琴音の家へ行くしかない。兄から受け継いだスタンウェイのグランドピアノ――は絶対に触らせない琴音だが、隣に置いてある電子ピアノは自由に弾かせてくれる。今のように多少乱暴に扱っても、目を瞑っていてくれる。
「面倒な子ね、涼ちゃんって」
琴音は深々とため息を吐いた。
「自分で振っておいて傷ついていちゃ世話ないわよ」
「少しセンチメンタルになっているのは認める。けど、決して傷ついているわけじゃない」
「それを世間では傷心って言うの」
涼は鼻を鳴らし、鍵盤を軽く拭いた。電子ピアノとはいえ立派な楽器だ。扱いが変わるわけではない。スタンウェイだろうと中古のピアノだろうと楽器だという一点で尊重すべきものになる。それは琴音も一緒だ。
しかし、彼女にとってスタンウェイだけは別だった。高級ブランドであるのも理由の一つだが、一番は兄が愛用しているものだからだ。帰国の際は必ず弾いているという。敬愛する兄が使うピアノ――それだけでグランドピアノは琴音にとって特別な価値を持つ。
「成長ないわよね。『カルメン』の時だってそう。自分が犠牲になればいいとか、格好いいこと考えて勝手に諦めるの。そのくせ、いちいち傷ついて」
黒光りするグランドピアノが視界に入る。どうしてだろう、と涼は思った。同じピアノなのにどうして差が出てしまうのだろう。
「価値がわからないんだ」
涼は呟いた。選ばれた理由がわからない、と。
「きっかけはたしかに先輩に反対されたことだけど、理由は別だ。私がカルメンをやることで波紋を呼んでいる。それでもなお私がカルメンをやることに意味を見い出せなかった。私がやろうと他の誰かがやろうと変わらないと思った。私じゃなければいけない理由が見当たらなかった。だから降りた。それだけ」
偽善でもなんでもない。いつも最善の方法を考えてきただけだ。『カルメン』だって琴音が主役を全うしてくれたおかげで成功を収めた。間違ってはいなかった。誰も傷ついていない。
「でも本当はやりたかったんでしょ? カルメン。一生懸命練習してたじゃない」
口調は責めるものだったが、それを言う琴音は苦しげだった。
「鬼島君は別にあんたが嘘を吐き続けているから責めているわけじゃないのよ? 自分を蔑ろにしてるから怒ってんの。正直、私も呆れてる。クビになるからだか何だか知らないけどね、普通同僚に『僕はあなたのことは好きでも何でもないですが、僕らの都合上彼女のふりをしてください。好き合っているふりをしていてください』なんて頼まないわ。どんだけ他人のこと馬鹿にしてんのよ」
愛しのお兄様が表紙を飾る音楽雑誌。それの上に琴音は音が出るほど乱暴に手を置いた。
「でね、普通は頼まれてもそんな馬鹿げた頼みは引き受けないの。プライドってもんがあるじゃない。たとえ生徒の一生に関わることでも断るの。身勝手極まりない小芝居に休日返上で付き合ったりはしないの、普通は」
一気に言って肩を落とす。琴音は興奮と息を落ち着かせた。が、苛立ちは消えていない。兄に似て整った眉は寄せられたままだった。
「そうじゃなきゃ惨めじゃない。涼は一体何なのよ? 散々利用されて、悩まされて、好きでも何でもない男のために苦労する涼は一体何なの?」