(その十一)教師たるもの、嘘はつきません
「話はそれだけです」
絶句した佐久間を余所に涼は鍵盤へ手を伸ばした。いつもなら授業の伴奏を練習するのだが精神的にそんな状態ではなかった。
薄氷を割ったような一打目。そのまま叩きつけるようにエチュードを描いた。繊細とは程遠い荒々しい旋律。左手の激しいアルペッジオに乗せて和音を奏でる。
観念して佐久間が立ち去っても涼は弾き続けた。
さすがはピアノブランド最高峰スタンウェイ。指先の意思が鍵盤に、弦を叩くハンマーに、そして空気へと伝わり響く。ひたすらに指を滑らせることだけに集中した。
重要なのは情熱ではなく冷静さであることを知ったのはいつだろう。無論、情熱が不要というわけではない。毎日毎日ひたすらに練習を続けるには情熱が必要不可欠。が、演奏面においては情熱的である必要はあっても、情熱は必要ない。むしろ邪魔だ。
では何が音楽家たらしめるのかというと、情熱をコントロールする技術と冷静さだ。情熱的に弾いていながらも、心の一部は冷めていなければならない。人はそれを余裕とも言う。
だから駄目なのだろうな。涼は自嘲した。余裕を残せない。自分のことで精一杯で。それは音楽でも日常生活でも言えることだ。
「先生」
演奏終了の余韻を低めの声が打ち砕いた。金曜の五限目は普通科の音楽だ。天下なら早めに来るだろう。教科書を携えた状態で、ゆっくりと口を開いた。
「俺は迷惑ですか」
聞いていたのか。いつもいつもタイミングの悪い奴だ。笑おうとしたができなかった。こちらを見つめる天下の眼差しは壊れそうなほど儚くて、必死だった。見ている方の息が詰まる。
不意に涼の中でこれまでのことが思い起こされた。
やめろ。目を覚ませ。諭すように拒んではいたが、迷惑だとは言っていなかった。寄ってくるのは自由だ。でも自分は応じられない。傍にいることだけは許していた。
「迷惑だよ」
本心だった。このところ、天下に振り回されてばかりだ。おかげで自分にまで疑いがかかっている。これを迷惑と言わずして何と言う。
「君は情熱だけで突っ走れるからいい。でも私はどうなる? 君の将来とか、世間体とか、自分の職とかを考えなきゃならない私はどうなるんだ」
庇わなくてはならない。護らなければならない。天下が蔑ろにするものを、本人の代わりに――でも、そんなのは惨めだ。
「大変なんだよ、君が傍にいると」
「そんなもん――」
「私にとっては、そんなものじゃない。今まで積み重ねてきたものが崩れてしまうかもしれないんだ。同じだけのものを君は懸けられるのか? 大人に護られているだけの高校生に、そんな真似はできない。してはいけないんだ」
激昂するかと思いきや、天下は冷静だった。表面上は。込み上げてくる何かを堪えるように「そうですか」とだけ呟いて席に着いた。
「ご迷惑かけて、すみませんでした」
学生の席から深々と頭を下げる。机に置いた教科書。その上に模試の参考書が重ねられているのを発見し、涼は目ざとい自分を恨んだ。知らなければ良かった。高校生なりに努力していることなんて、知りたくはなかった。
大変だと言った言葉に嘘はない。天下が傍にいると辛い。輝かしい将来とか、夢とか、あっさりと捨ててしまう天下が憎らしくさえ思えてくる。傍にいると苦しいのだ。
でも、離れてしまうと寂しいのもまた、事実だった。