(その二)逃げてはいけません
不意に涼は足を止めた。なるほど、これが殺気というものか。思わず振り向いてしまう気持ちもわからなくもない。しかし涼は全く逆の衝動に駆られた。
(……嗚呼逃げ出したい)
どうしてこうもタイミングが悪いのだ。注意深く避けていたというのに。
「リョウ先生?」
鈍感な佐久間は呑気なものだ。
「どうかなさ、」
「いいえ何でもありません」
涼は競歩に近い速さで職員室へ向かった。逃げ込んだと言った方が的確だ。卑怯だと言いたければ言うがいい。これは正当防衛だ。色々な意味で涼は身の危険を感じたのだ。教師の領域に逃げ込んで何が悪い。
安堵のため息をついたところで佐久間に肩を叩かれた。
「あの、呼んでますよ」
「いないと言って下さい」
「こっちを見てますから、さすがにそれは――」
職員室の入り口に立つ生徒を盗み見て、涼は絶望的な気分に陥った。教師達の手前、頭をかきむしりたいのを堪えて、入口へ出頭する。
「何か御用で」
「お時間よろしいですか? 相談したいことがあるんです」
事務的口調。だが、油断は欠片もできなかった。優等生面をしているが相手は鬼島天下だ。
「勉強の相談だったら、担任の先生の方がいいと思うけど」
「佐久間先生は忙しそうですし、俺としては先生の方が都合がいいんです」
微笑さえ浮かべて天下は言ってのける。この似非優等生め。職員室でも不審に思うのは彼の本性を垣間見た佐久間だけだ。その佐久間も触らぬ神に祟りなし対応で見て見ぬふり。涼は完全に孤立無援だった。
「ここじゃできない話か?」
せめてもの悪あがき。が、天下は爽やかな笑顔で退路を断った。
「場所を変えた方が、お互いのためだと思います」