(その十)ごまかせないこともあります
トゥーランドットが駄々をこねる声で涼は目が覚めた。時計を見れば既に年は明けている。
馬鹿デカいテレビではちょうど、カラフ王子もといプラシド=ドミンゴが見事トゥーランドットの個人的極まりない謎かけを解き明かし、民から賛歌を浴びていた。約束では、トゥーランドット姫は謎を解いた者の妻になるはずだった。が、彼女はいざカラフ王子が全ての謎に答えると「私は誰のものにもならぬ」と我儘を言いだすのだ。
なら最初からそんな条件出すなよ、と涼はトゥーランドットの必要以上に長い髪を掴んで説教をかましてやりたかった。謎に答えられなかった求婚者は次々と斬首しておきながら自分は破るんかい。
「ん?」
そこでようやく、涼は自身の肩にジャケットが掛けられていることに気がついた。ほのかな煙草の匂い――未成年喫煙だ。
「まだ帰ってなかったのか」
「泊まっていけと言われましたから」
悪びれもなく天下は涼の隣に腰掛ける。その手には缶コーヒーと緑茶。近所のコンビニで買ってきたのだろう。
「喉渇いてんだろ?」
妙に気の利く奴だ。コタツに放置しておいたワイングラスも山積みだったミカンの皮も跡形もなく片付けてある。一人暮らしのせいか、それとも長男気質と言うべきか。
涼は財布から百二十円を取り出して天下に渡した。
「別にこれくらい」
「生徒に奢られてたまるか」
天下は愁眉を顰めた。
「学校じゃあるまいし」
「残念ながら教師は二十四時間年中無休なんだよ」
渇いた喉に冷たい緑茶が沁みる。天下もプルタブを開けてコーヒーを一口。約束は守るべき、と周囲に諭されるトゥーランドットに、カラフ王子が優しく手を差し伸べる様をぼんやりと観ていた。
「琴音は?」
「ついさっき寝室に」
「客を放置して、さっさと寝床に入ったのか」
薄情な奴め。風邪をひいたらどうしてくれる。
「俺がこのままでいいって言ったからな」
まあ、なんと心の広いこと。天下の下心を知っていながらも涼は半ば感心した。男に限らず、人間というものは結構単純にできている。相手の気を惹きたいと思ったら大抵の無茶は平気でするものだ。
『私は何としても拒む』
我を通そうとするトゥーランドット。反対する周囲の中で唯一彼女の味方になったのは当の本人であるカラフ王子だった。
『あなたは三つの謎を出し、私はそれを解いた。私は一つだけ謎を出そう。あなたは私の名前を知らない。その名を当てていただこう』
おいおいプラシド=ドミンゴよ、いくら惚れているとはいえ、そこまでやるか。無茶にも程があるだろう。命を賭けた誓いがある以上大義名分はカラフ王子にあるというのに。彼が譲歩する必要も義理もない。
『私の名を夜明けまでに。そしたら私の命を差し上げよう』
優しく包み込むようなテノール。私がトゥーランドットならば、と涼は不意に思った。まず間違いなく惚れている。たとえそれが舞台にいる間の夢だと知っていても。
「先生」
「今いいところなんだ。黙って観てろ」
「明けましておめでとうございます」
涼は思わず天下の顔を見た。ふざけている様子はない。プラシド=ドミンゴの張りのある歌声。『トゥーランドット』で一番の聞かせどころのアリアが涼の耳を通り過ぎた。
「……あ、明けましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします」
折り目正しく一礼。何がどうよろしくなのかは突っ込めなかった。
プラシド=ドミンゴが歌う『誰も寝てはならぬ』。テレビではカラフ王子が高らかに勝利を宣言していた。