(その九)自分の失敗は笑ってごまかしましょう
「もともと私は『トゥーランドット』をやりたかったんだ」
負け惜しみにしかならなかった。自分は途中で投げ出したのだ。違う。投げ出す以前に、手を伸ばそうともしなかった。定期公演の主役。誰もが憧れる晴れ舞台の中心。届く場所にいながら諦めたのだ。
「どーせプラシド=ドミンゴのを観て相手役がしたくなっただけでしょ」
「そんなに凄い人なんですか?」
無知は時に罪となりうる。今の天下がまさにそれだ。
「世界三大テノールの一人。元バリトンの声質を生かした厚みのある歌唱をする。音域も広いからレパートリーも豊富。オールマイティーな歌手だ」
「そんでもって顔もスタイルもいいのよ。オペラ歌手にしては」
琴音が断りもなく上映途中の『カルメン』を消してDVDを挿入。『トゥーランドット』だ。もちろんカラフ王子役はかの三大テノール、プラシド=ドミンゴ。
「だからこの子、昔から面食いで年上趣味だったってわけ」
天下は平然を装っていたが、涼にはわかった。少なからず動揺している。しかしまさか、涼が今まで色恋には目もくれずにひたすら音楽街道まっしぐらだと思っていたのだろうか。失礼な話だ。ブラウン管越しとはいえ、人並みに恋心だって抱く。
聞き逃してしまうほど小さな声で天下が呟いたのが聞こえた。
「……年上趣味」
そこかよ。突っ込もうとして涼は舌が回らないことに気がついた。飲み過ぎたようだ。中和したいところだが、こたつからは離れ難かった。天下と目がかち合う。不安の入り混じった表情はまるで子犬のようで、なんだか可愛らしかった。ふてぶてしい似非優等生の面影などどこにもない。
涼は天下に手を伸ばした。跳ねている髪を直すつもりで撫でる。指の隙間から零れ落ちる艶やかな黒髪。感触が気持ちいい。何度か梳くと天下が大きく目を見開いた。
「せ、先生?」
ああ、瞼が重い。重力には逆らえず、涼は突っ伏した。
「そういえば、意外にお酒弱いのよね」
「これだけ飲めば普通、酔いつぶれると思いますけど」
肩に柔らかくて温かいものがかかった。毛布か何かをかけてくれたらしい。どちらだか知らないが、どうもありがとう。つんと鼻にくる煙草の香りが珠に傷だけど。
「本当はね」
遠巻きに琴音の声。
「周囲に反対されたの」
「どうして? 誰に?」
「あんまり練習にも顔を出さなかったし、二年生のくせに先輩を差し置いて主役でしょう? やっかみよ、要するに。おまけに涼は昔からこういう性格だから」
「わかります。可愛い後輩っていうタイプじゃないですよね」
大きなお世話だ。
「しおらしく涙の一つでも見せればいいのに意地張るし……生徒にもあんまり好かれてないでしょ」
「そうですね」
あっさり言いやがったな。嘘でもいいからそこは否定しておけ。顔を上げる気力もわかなかった。耳元にはトゥーランドットの美しさに心奪われたカラフ王子の情熱的な歌声が響いていたが、それもやがて遠のいていく。
「でも嫌われてもいませんよ。生徒だって馬鹿じゃありませんから、一生懸命やってることぐらいわかります」
末期だと涼は思った。プラシド=ドミンゴの声よりも天下の声が心地よく感じるなんて。