(その八)他人の失敗は末代まで語り伝えましょう
「じゃあ問題ナシね」
大アリだ。
「二人とも一体何を考えているんだ。仮にも一人暮らしの女性の家に」
「出たよ化石思考。教師の鑑というか、相変わらずというか……あんたさあ、世の中の男は全部危険だと思ってない?」
呆れの混じった眼差しを注ぐ琴音。涼は口を噤んだ。別に、全人類の半分を警戒しているわけではない。そんなことをしていたら気が滅入る。天下だから危険なんだ。いつの間にか隣に陣取った似非優等生を涼は指差した。
「私は教師、こいつは生徒っ!」
「あんたは客人、私はこの家の主。決定権は私にあるわ」
一切の反論を許さず琴音は背を向けた。足取りも軽く寝室の方へ。予備の布団を出すつもりだ。涼は空いた口が塞がらなかった。
「先生がやり込められているところ、初めて見ました」
「そうか良かったな。じゃあ帰れ。ここは私の憩いの場だ」
「ミカン食べ過ぎです。伊達巻の分は空けておいてくださいよ」
全くかみ合わない会話。一年が終わろうとしているこの時も、天下と涼は大して変わらなかった。
「言っておくが、ここで紅白が観れると思うなよ」
「観ねえよ」
「第九も駄目だからな」
「興味ねえって」
「オペラで年越し。プラシド=ドミンゴ万歳だからな」
「お好きにどうぞ」
横顔からも天下が上機嫌なのはわかった。いきなり呼び出されて伊達巻を作らされて、何故そこまで喜べるのか理解し難い。
「観ないんですか?」
天下に指摘されて涼はレーザーディスクを再生した。琴音お秘蔵のオペラコレクション。全てはピアニストの兄から引き継いだものだ。単調とも言えるアリアを独特の声で歌い上げるマリア=カラス。その声はまさに魔性だ。
「はーい、お待たせ」
別に待っていたわけでもないが。琴音がコタツに入ったのは、マリア=カラス演じるカルメンが衛兵を誘惑しているシーンだった。余裕かつ大胆なアプローチ。艶然と微笑む姿は粗忽な衛兵の十人や二十人くらいならば簡単に虜にできるほど魅惑的だった。
「懐かしいね、カルメン」
琴音は赤ワインを注いだグラスを涼の前に置いた。さらに天下の前にも同じものを置こうとするのを涼は阻止した。未成年飲酒を見過ごすわけにはいかない。
「お二人は大学の同期ですよね?」
「同じ声楽科でおまけに同じソプラノ」
「腐れ縁だよ」
その始まりがこの『カルメン』だ。
「最初は涼がカルメンやるはずだったのに降りたのよ。その代役がめでたく私にまわってきて――」
「感謝の気持ちとしてミネラルウォーターをぶっかけてくれたわけだ」
「まだそれを言うのね」
琴音は不貞腐れたようにワインを一気に飲み干した。
「理由もなく降りられたら屈辱と感じて当然よ」
「何度も言わせるな。私の声音はカルメンに向かなかったんだ。アルトにすればいいものを『ソプラノから出したい』とか意地を張る教授が悪い」
「声音というより、性格が向かなかったんじゃないの?」
琴音は意地悪く七十インチの大画面で歌うカルメンもといマリア=カラスを指差した。お色気でまんまと衛兵を骨抜きにし、脱走を果たした悪女。
十秒ずつ、テレビのカルメンと涼を交互に見た後に天下が呟く。
「……先生が演じる姿が想像できません」
そんなこと、言われなくても自分が一番良くわかっている。だから降りたんじゃないか。涼は赤ワインを二杯立て続けに飲んだ。