(その七)狼を招くなんてもってのほかです
「少しは見習いなさいよ」
冗談ではない。涼はミカンに手を伸ばした。台所の二人は伊達巻に没頭していて、涼のことなど放置状態だ。鼻を鳴らしたところで、天下と目が合う。
反射的に身構える涼に対し、天下は小首を傾げた。そして――
にやりと。琴音の前で見せた好青年の笑顔とはまるで違う、不敵な笑みを浮かべたのであった。皮を剥いていた涼の手が止まった。
おい、ちょっと待て。オーブンの卵に夢中の琴音に涼は内心呼びかける。気付け。そいつは似非優等生だ。獰猛な雑食獣だ。無害な山羊のふりをしているが実は狼で牙を剥いているんだ。
「ちょっと焦げましたね」
「わあ、いい匂い……」
とか平和な会話を交わしつつ、伊達巻作り続行。ほのかに甘い匂いがこちらにまで漂ってくる。天下は手際良く巻き簾で形を整え、輪ゴムで固定した。
「冷まして切れば出来上がりです」
子供のように琴音は目を輝かした。
「涼も見なよ。凄いよ、本物よ!」
「はいはい良かったな」
涼はミカン一切れを口の中に放り込んだ。コタツの上は消費したミカンの皮で山が出来上がっている。ふと手を見れば指先は黄色く変色。
そのことに気を取られていると、傍らに天下。いそいそとエプロンを外してスポーツバッグにしまい込む。バンダナを外した髪はところどころ癖がついてはねていた。
「用が済んだらさっさと帰れ。電車がなくなるぞ」
涼としては精一杯の優しさを込めた台詞。が、琴音は我が耳を疑うとばかりに非難に満ちた視線を投げかけるてくる。
「あなたそれでも人間? 作ってもらって『ハイさようなら』はないでしょう」
打って変わって愛想良く。
「狭いけど我が家だと思ってくつろいでね」
今度は涼が耳を疑う番だった。天下も天下で「すみません」とか口では言いながらコタツの中に根を張る始末。遠慮しろ。
「いや、でも電車が」
「泊まればいいじゃない」
事もなげに言ってから琴音は「あ、でも着替えとかはどうしよう」と今さらなことを口にした。問題にすべき点はそこではなかったが、これ幸いに涼は便乗することにした。
「さすがに、服を貸すわけにはいかないよな。やっぱり」
「でもお兄様のが何着かあったと思うわ」
なんで妹が兄の服を一人暮らしの自宅に置いておくんだ。絶対お前実家から持ってきただろう。何着か失敬してきただろう! とか、そういう突っ込みはさておき。愛しの愛しのお兄様の服をあっさり貸すほど、天下に懐柔された琴音が信じられなかった。伊達巻を作っている間に一体何があった。
「お、おかまいなく」
さすがの天下も琴音の勢いに気圧され気味。良い傾向だ。
「そうだ。借りる側の気持ちも汲んでやれ。無理に押し付けるのはよくない」
「合宿用の着替え一式持ってきてますから。大丈夫です」
涼は積み上げてきたミカン皮の山に突っ伏した。
「……着替え?」
「合宿セットです」
澄ました顔で天下はスポーツバッグを脇に置く。簾を持ってくるにしては大きい荷物だとは思っていたが、まさか。
(最初から泊まり込むつもりだったのか……っ!)
天下の用意周到さに涼は戦慄した。




