(その五)どこであれ、鴨は鴨以外にはなれません
其の疾きことは風のごとく。涼はすぐさま戦術的撤退に努めた。
「間違いです」
『いや、思いっきりあんたじゃねえか』
「おかけになった電話は現在電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないため、かかりません」
『ンな愛想のねえオペレーターがいるか』
愛想をふりまく必要性を感じないのだから当然だ。むしろふりまいたら危険だ。鴨がネギを持って人前で踊るようなものではないか。間違いなくステップを踏むことなく鍋行きだ。そしてご馳走様。鴨さん、さようなら――なんて展開はご免こうむる。
「機械ですから事務的に」
『ずいぶん応用が利くメッセージだな』
電話越しに天下の低い笑い声が聞こえた。プラシド=ドミンゴとは全く違う声音にしかし、涼は抵抗する気力が削がれていくのを感じた。
「どこで番号を入手した。佐久間先生か、百瀬先生か」
『最初にかけてきたのは先生の方ですよ』
記憶を辿る。思い出すのに時間はかからなかった。『カルメン』の時だ。失踪した天下を捜すべくクラスメイトから番号を聞いてかけたのだ。
「消しておけ」
『冗談だろ。あんたの番号だぜ?』
なおさら消せ。今すぐ。こっちが番号を変えてやろうかと涼が密かに画策していたら、天下が言った。
『変えんなよ、番号。そんなに嫌ならもうかけねえから』
見透かされた屈辱よりも、天下の物わかりの良さに情けなくなった。これでは自分が我儘を言っているみたいではないか。
「で、何の用だ」
沈黙。
「鬼島?」
『良いお年を』
次の言葉を待ったが、それきり天下は何も言わなかった。まさか、それだけのために電話してきたのだろうか。ともすれば無下にすることもできず、涼はケータイを持ったまま立ち尽くした。
「涼ぅ……」
背後から情けない声。振り向けば琴音が悲痛な表情でうなだれていた。
「ごめん」
「何が?」
「初めに私は謝ったからね? だから怒らないでね。ねちねち嫌味を言うのもナシ。冷静に。誰だって失敗というものはあるものよ」
『先生? どうしたんですか』
涼は耳からケータイを離した。
「本題に入れ。何がどうしたんだ」
「端的に言えば」
琴音は重箱の空いた一角を重々しく指で示した。
「……伊達巻、忘れちゃった」