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   (その三)切り替えましょう

 学校で一番会いたくなかった奴が現れたのは、涼が佐久間に対する罵詈雑言を一通り胸中で言い終えた頃だった。

「今度は君か」

 言葉の意味を察した鬼島天下は片頬を歪めて笑った。

「また佐久間に何か押しつけられたんですか?」

「その敬語口調、腹が立つからやめてくれないか」

 いつになく機嫌が悪い涼に天下は神妙な顔になる。

「どうかしたのか、先生。授業でも弾き間違いが多いし、終業式の時も上の空だったし、なんつーか……最近変だよな? 何かあったのか」

 原因に心配されたくはなかった。元はと言えば、お前が――激情に任せて口を開きかけ、涼は我に返った。これでは八つあたりだ。

「別に、何も」

 天下の追究が入る前に涼は話題を変えた。

「校門前で待ち伏せして、何のつもりだ」

 天下は意外そうに目を見開いた。

「へえ、先生のことを待ち伏せしてたって思ってくれんのか」

「……どういう意味だ」

「あんた、俺があんたのこと好きだって認めようとしなかったじゃねえか。やれ思春期によくある一時的な迷いだの、大人に対する憧れだの、まともに取りあっちゃくれなかった」

「君が本気かどうかについては疑問を差し挟む余地が多々ある。でも重要なのはその点じゃない。どっちにしても私は応えられない、ということだ」

「でもその様子だと、少しは意識してくれてんだろ?」

 少しどころか、授業に支障をきたす程だ。しかしそれを認めるわけにはいかなかった。特に本人の前では。

「話がそれだけなら私は帰るぞ」

「先生は実家に帰るんですか?」

 帰る実家がない。言い放ってやろうとして、天下も大して変わらない状況にあることを思い出した。

「いーや、友人と二人で過ごす」

「男ですか」

「残念ながら女だ。国立劇場で会っただろ? 琴音とオペラで年越し」

 天下は「そうですか」と小さく呟いた。落胆しているわけでもましてや不満を抱いているわけでもなかった。寂しげだが穏やかな笑み――彼が父親に見せたのと同じものだった。

 俺のことは気にすんな。大丈夫。あんたが悪いわけじゃない。

 軽く突き放すことで赦そうとしている顔だ。罪悪感に囚われることがないように。

 そこまでしてやる義理があるだろうかと、涼は不思議に思った。恨み事は踏みつけられた者にのみ許される特権だ。涼が自分を捨てた母をなじる権利があるように、天下もまた自分を忘れた母とそれに追随する家族を責める権利がある。恨み事の一つぐらいは言ってもいいはずだ。でなければ不公平だ。

 そんな風に考えるのは、涼と母親との距離があまりにも遠いせいか。それとも天下の心が非常に広いせいか。どちらだろう。

(仮に母が目の前にいて、家族と幸せに暮らしていたとしたら――)

 母を赦せるだろうか。故意に自分を切り捨てて得た幸せに浸る母を。

「部活はいつまでだ?」

 不毛な考えを振り払うように涼は訊ねた。

「二十八日までです。新年は四日から」

 それまで鬼島天下は一人で過ごすことになる。今さらだ。もう二年以上、彼は一人で暮らしている。さすがに慣れているだろう。寂しがるなんて、天下らしくもない。

(……阿呆らしい)

 他人の正月を気にしている場合か。そう思うものの、涼はついに「良いお年を」と天下に言うことができなかった。


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