(その二)いつまでも遠足気分ではいけません
今学期最後の授業は終了。長ったらしい終業式も先ほど終わった。残るは要綱を見ただけでもつまらなそうな研修会が二日。それが終われば晴れて自由の身だ。ともすれば鼻歌混じりで机整理をしそうになる自分に涼は苦笑した。
同じ『お泊り』でも修学旅行の時とはえらい違いだ。それも当然。自由奔放に動き回る生徒の面倒を見る必要もないし、後先考えずに生徒と盛る教師の存在を誤魔化す必要もないし、ましてや相部屋にされることもない。それに、鬼島天下も――
(だ、か、ら、待てって)
思わず手中の領収書を握り潰す。これは病かそれとも故障か。ヴァイオリンの弓と一緒にメンテナンスしてもらいたいものだ。誰か診断してくれ。
帰り支度をしている涼の手元を恵理が覗き込む。
「渡辺先生はご実家に帰るんですか?」
ない実家にどう帰ればいいのだろう。想像さえしていない恵理にわざわざ訂正してやる必要性を涼は感じなかった。こういう性格だからいまだに「リョウ先生」と呼ばれているのだろう。学校で涼の本名を知ってるのは現時点でだた一人――
「どうしたんですか……わ、渡辺先生」
机に勢いよく突っ伏し、涼は沈黙した。肩を揺する恵理の声も耳に入らない。駄目だ。ありとあらゆる意味で末期だ。
「渡辺先生?」
(いや、そんなはずはない)
涼は起き上がって頭を振った。
ありえない。プラシド=ドミンゴならばまだしも、何故アリアの一つも歌えない六歳下の生徒なんぞに心奪われねばならんのだ。自分はどうやら何かが不足しているようだ。そう、リリコ・スピントとか。テノールにしては太く強靭な美声とか。
つまり圧倒的にプラシド=ドミンゴが不足しているのだ。間違いない。
「修学旅行から帰ってからなんか変ですよ」
「心配には及びません。原因は判明しました」
すっくと立ち上がり、涼は帰り支度を終えた。何も大晦日まで待つことはない。一人上映会をしよう。ドミンゴを補給せねば。
「それでは、良いお年を」
足早に退散。すれ違う音楽科の生徒と挨拶を交わしつつ職員用の玄関へ向かう。頭の中では既に選目に入っていた。『トスカ』もいいが、やはりここは『オテロ』だ。陰鬱を湛えた重厚な美声が際限なく発揮されるのはオテロを演じている時だ。
早くも心躍らせていた涼だが、角を曲がるなりテンションは下落した。
「これは佐久間先生、奇遇ですな。それでは良いお年を」
「あ、はい、良いお年を……って待って下さい、リョウ先生」
仕方なく涼は振り返る。この学校で二番目に逢いたくない人物だ。一か月前、京都での恨みはまだ根強く残っている。
「今度は高級ホテルで二泊三日ですか? 止めませんが協力もしませんよ」
「そのことに関しては、あの、本当に、すみません……」
委縮した佐久間の謝罪にも涼の気は晴れなかった。むしろ苛立ちが募る。思えば佐久間はいつもこうだった。謝りながら涼を彼女に仕立て上げ、謝りながら禁断の恋愛とやらの片棒を担がせ、謝りながら面倒事を押しつけてきた。今までも、これからもきっとそうなのだろう。
「初めに言っておきますが、冬休みは予定が一杯でお二人のために割ける時間はありませんよ」
佐久間が口を開く前に釘を刺す。途端、佐久間の顔が気まずそうに曇るのを涼は見逃さなかった。ほれ見ろ。全く反省していないじゃないか。本当に悪いと思っているのなら二度と頼み事などしないはずだ。
「今度こそ良いお年を」
トドメとばかりに台詞を吐いて、涼は靴を履いた。さすがに佐久間も追ってはこなかった。自分の危機には敏感な男だ。涼の怒気もしっかり感知したのだろう。