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【番外編】恋せよ少年、ほどほどに(後編)

 名前が判明したのは大きな収穫だった。渡辺涼。男みたいな名前も、キッチリと着込んだスーツも、惚れてしまえばあばたもえくぼだ。むしろ惜しげもなく太ももを晒すクラスの女子よりも、ガードの堅い先生の方がなんというか色気がある。隠されたものを見たい、という欲求がわいてくるのだ。

 普段は音楽科準備室にこもっているらしい。外へ出るのは合唱の授業の時か個人レッスンの時くらい。受け持ちのクラスもないので、職員室にいること自体少ない。運がないから見かけなかったのではなく、会えたことが幸運だったのだ。

 意識して見れば、渡辺涼の軌跡は至る所にあった。合唱部の副顧問。担当の学生がどこぞのコンクールで入賞。掲示板の隅で名前を見つける度に天下の胸は高鳴った。

 そして迎えた四月。天下は入学当初の選択を心から感謝した。

 芸術選択の音楽、担当者に渡辺涼とあったのだ。クラスメイトでも彼女を知っている人はいなかった。皆一様に「渡辺って英語じゃなかったっけ。女だったよな」と首を傾げていた。

「また男かよ。かったりぃ」

 肩を落とす級友にやや呆れつつも天下は何も言わなかった。いずれわかることだし、しばらくは自分の胸の中に留めておきたかったのだ。



 一年次と変わらず授業は鑑賞室にて行われた。面子も同じ。違うのは教師だけだ。

『渡辺涼』とホワイトボードに書き、涼は生徒一同を見回した。

「渡辺です。一年間よろしくお願いします」

 折り目正しく一礼。ホワイトボードに書いたばかりの名前を消した。

「では、発声練習から始めます」

 なんという事務的挨拶。生徒一同呆気にとられる。天下も例外ではなかった。自動販売機にだって彼女よりはまだ愛想がある。授業の進め方とか予定とか、その前にちゃんと自己紹介しろよ、せめて専攻くらい教えてくれ。天下の願いも虚しく、音楽の授業は粛々と進行した。

 

「あれで一年やるのかよ」

 鑑賞室を出るなり、誰からともなく不満が飛び出た。

 決して教えるのが下手なわけではなかった。むしろ新任であることが信じられないくらい要領よく進めていた。とにかく耳がいい。合唱中も一人一人の声を聞き分け、的確な指示を出す。担当している学生がコンクール入賞するのも頷ける。が、いかんせん相手は音楽科ではなく普通科の生徒だ。上達よりも楽しむことを優先する連中なのだ。

 受験に音楽が必要な学生は極一部だ。普通科に至っては皆無と言ってもいい。適当に楽しめばいいんじゃね? などといい加減な態度で臨む生徒にいくら素晴らしいレッスンをしても、温度差が違うのだからどうしようもない。

 唯一の救いは涼が始終淡々としていた点だ。熱意を持ってやった日にはいたたまれないだろう。彼女も自分たちも。

 所詮、涼は音楽科で、自分は普通科なのだ。スタンウェイの価値すらわからない。それで当然だと、劣等感を抱いたことなど一度だってなかった。が、今は釈然としなかった。情熱を持って教えるに値しない生徒。そう思われているようで。



 二回目以降も涼の態度は変わらなかった。冷淡で事務的。しかし妙な威圧感があり、授業中に談笑する生徒はいなかった。慣れれば悪くはない。不満を口にする生徒はやがていなくなった。違和感も不快感も時の経過と共に薄れていくことを天下は知っていた。人はそれを諦めと言う。

「巻き舌を無理に習得する必要はありません」

 普通科の生徒だから。言葉に含まれた意味を邪推し、天下は眉を寄せた。音楽科の生徒ならば、何が何でも習得させただろう。

 涼はホワイトボードに何やら書き込んだ。

『札幌ラーメン』

 飲食禁止の部屋にそぐわない単語。ざわめきが起きる。涼は動じることなく『札幌ラーメン』の下に二重線を引いた。

「毎日毎日繰り返し唱えることが重要です」

 いや、真面目くさった顔で札幌ラーメンを推奨されても。虚を突かれた生徒達の中、天下は首をひねった。既視感。どこかで見たような気がした。

「札幌ラーメン?」

 読み上げた生徒に、涼は一つ頷いた。

「札幌ラーメンです」

 おもむろに何度も何度も札幌ラーメンを唱え続け──確かに巻き舌になっていた。しかし天下の興味は別にあった。

 ホワイトボードの前に立ち、線を引く。その仕草。どこかで。

「あ」

 今朝だ。



 月曜日、朝練終了後に天下は中庭へとすっ飛んだ。鑑賞室を覗き込む。やはりそうだ。

 涼はまた一人演奏会を繰り広げていた。いや、演奏会ではない。最初はそうだったかもしれないが、今は違う。

 教卓の前に立ち、部屋全体を見回す。ピアノを演奏している時も、視線は生徒の席。ホワイトボードに何やら書き込み、消す。ノートを見ながら一つ一つ動作を確認していた。

 授業の練習だったのだ。それも普通科の。涼が鑑賞室で担当する授業はそれしかない。

 案の定、二限目に行われた授業で涼は全く同じ動作をしていた。

「最後のツェー……じゃなくて、ドは少し強めに」

 え、まさか。マジ?

 天下はリコーダーを構えたまま固まった。

 あれだけすました顔して「普通科の凡人に興味はありません」と言わんばかりの厳しい授業しておいて、内心冷や汗? ガッチガチに緊張して。だから表情も強張って事務的対応?

(……マズい)

 勘弁してくれ。天下はもうなんだか堪らなくなった。授業中でなければ机を叩いていたところだ。

 そこまでやる必要はねえだろうが。たかが普通科の音楽だぞ、とは思うものの、同時に嬉しくてわくわくした。ああ可愛いな畜生っ!

 身も蓋もないことを言えば、涼は天下の好みのド真ん中を突いていたのだ。

 努力を惜しまない人間には好感が持てる。隠しているのなら、なおさらいじらしい。人知れず、匂わせず、しかしそれを自分は知っている。自分だけは。

 健気な努力に報いてやろうと授業にも積極的に参加してやった。そのせいもあって一学期の音楽の評価は五だった。

 思えば、渡辺涼は非常に律儀なのだ。だからピアノ一つにも敬意を払う。スタンウェイだろうと中古の安物ピアノだろうと手を洗ってから丁寧に使う。普通科の生徒相手だろうと全力で授業をする。どこまでも真っ直ぐで不器用。だからこそ惹かれるのだ。

 二学期に入っても涼のリハーサルは続いた。それに伴い、授業にも柔らかさが生まれた。皆は「ようやく普通科レベルに妥協した」と解釈したが、天下には余裕が生まれたのだとわかった。涼を慕う生徒も出てきて、確実に良い方へと向かっていた。相変わらず、真っ直ぐ前を見過ぎていて生徒の顔を見ていなかったが、天下としてはそれでも構わなかった。ぴんと張った背中と横顔に惚れたのだ。いつまでも真っ直ぐ前を向いていたらいい。

 そんな穏やかな気持ちで見守っていた。少なくとも天下はそのつもりだった。



 劇的に変わったのはとある金曜の放課後だった。シャーペンが一本ないことに気がついた。最後に使った記憶は――五限目の音楽の授業。おそらく鑑賞室に忘れたのだろう。

 百円のシャーペン。次の音楽は月曜の二限。わざわざ音楽準備室に足を運んで、鍵を開けてもらってシャーペンを取りに行く。面倒ではあったが、天下は準備室へ向かった。あわよくば涼に開けてもらおうと思ってのことだ。

 渡り廊下を歩いている際、ふと鑑賞室の方を見ればいつも通りカーテンが少しだけ空いていた。覗いたのは習慣だ。そして、天下は目を見開いた。

 鑑賞室にいたのは涼ではなかった。世界史の教師の佐久間と矢沢だ。睦まじげに見つめ合っている。鑑賞室の噂は本当だったのか。しかし、次の瞬間にはそんな噂など天下の頭からは消し飛んだ。

 イスに腰掛ける佐久間の膝に座る矢沢。仲がよろしいのは結構なことだが、どうしてよりにもよって鑑賞室でいちゃつくのだ。佐久間の手が、おそらく大して洗っていないであろう手がスタンウェイに伸びた時は、思わず天下は叫び出しそうになった。

 やめろ触るな。それは先生の――

 が、突如涼が乱入。完全に瞳孔が開いた目で二人をど突き倒し、まずはスタンウェイの無事を確認し、手入れを開始した。それが終わると二人を正座させて、その前に仁王立ちになった。その間、天下は一歩も動けなかった。涼の剣幕に気圧されていたのだ。



 そして迎えた月曜、佐久間と涼が付き合っているという話を聞いた時、天下は椅子から転げ落ちそうになった。矢沢は一体どうなったんだ。その前になんで、佐久間なんかと。

 天下にはそれが納得できなかった。汚い手でスタンウェイに触ろうとした男だ。天下含む普通科の生徒にはスタンウェイの価値はわからない。しかし、知識はなくとも敬意は払える。美しいと感じることはできる。尊敬に値する音楽科教師達が大切にしているものだからこそ、天下達もまたあのピアノを重んじた。そんな最低限の礼儀ですら、あの男は踏み躙ったのだ。

 どうして、と思うことは今まで何度もあった。が、これは母の時とは違う。鎮めようと、押し止めようとすればするほど、より一層激しさを増した。

 矢沢の様子を見ていておおよその事情は察したが、それでも熱は燻ったままだった。何よりも気に食わないのは授業中、涼がちらちらと矢沢の方ばかり見ていたことだ。動きもぎこちない。矢沢を意識していることは明白だった。

 ふざけんな。

 嫉妬だとわかっていても抑えようがなかった。一年前からずっとそうだった。涼は天下のことなど見てやしない。真摯な眼に映るのはいつも音楽のことばかり。

 それならまだ許せた。

 だがどうして、ぽっと出のバカップルの方にはあっさり目を向けるんだ。不公平じゃないか。自分はもうずっと前から見ていたというのに。

 ――こっち見ろよ。少しでいい、俺のことを見ろよ。

 母の時は仕方ないと無理やり納得させたが、こればかりは譲れなかった。教師と生徒。音楽科と普通科。歳の差――知ったことか。

 邪魔者のいない放課後に迷わず音楽準備室へ。戦略も何もあったものではない。ただ、こちらに目を向けさせるだけだ。

 天下は意を決して扉をノックした。

 1000ポイント御礼アンケート三位「復活せよ『恋せよ少年、ほどほどに(後編)』」

 番外編を更新するまでの限定公開ですが、こんな若い時期もあったのだな程度の生温かい目で見てくだされば幸いです。

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