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【番外編】恋せよ少年、ほどほどに(前編)

 朝練終了。手早く着替えて道場を後にする。呼び止める同級生には手を軽く振って「お疲れ。放課後な」とあしらい、教室の方へ。SHRの時刻が迫っているからではない。

 足は最短ルートを外れ、中庭に向かった。一階奥の鑑賞室。日差しを遮るカーテンの隙間から窓を覗き込む。天下は小さくガッツポーズを決めた。

 ビンゴ。

 鑑賞室では演奏会が開かれている。



 校舎の最南端に普通科六クラス。最北端に音楽科一クラス。つまり、普通科と音楽科は一番接点の少ない科だった。合同授業でも一緒にはならない。聞けば、修学旅行も別行動を取るらしい。音楽を極めようとするだけあって、集まる生徒も一癖も二癖もありそうな連中だ。黒塗りの高級車で送迎される生徒などというドラマのような光景を、天下は高校生になって初めて見た。

 世界が違う。言われるまでもなく、誰もが感じ取っていた。

 こちらが七百円の教科書片手に授業を受けている間、連中は何十万円もの楽器を片手に非常勤講師のレッスンを受けている。比べる方が間違っていた。芸術科目で音楽を選択しても、その考えは変わらなかった。普通科はあくまでも教養として音楽を学ぶだけだ。

 つまり、天下の入学と同時に鑑賞室にピアノブランドの最高峰と呼ばれるスタンウェイがやってこようと、彼には全く関係のないことだったのだ。一ヶ月前までは。

 天下が演奏会の存在を知ったのは偶然だった。夏の到来を誇示するかのように蒸し暑い六月の下旬。朝練を終えて教室に戻る途中で、不意に足を止めた。いつもは締め切っているはずの鑑賞室のカーテンがほんの少し、開いていたのだ。

 東に位置する特別教室は音楽科の領域だ。中でも鑑賞室はスタンウェイのピアノを始めとする高級な音楽設備が整えられているため、常に鍵がかけられ、教師の許可なく入室することは禁じられていた。防音もばっちり。中庭に面した窓からの日差しを遮るためにカーテンで閉ざされた部屋。年頃の生徒達の間で噂が飛び交うには十分過ぎるほど怪しい部屋だった。

 真偽はどうであれ、天下もその手の噂はいくつか耳にしていた。


 曰わく、絶好の逢い引きスポットで、毎日のように教師達が使用している。

 曰わく、音楽科の連中もまた、そこで盛っている。

 曰わく、作曲家志望の教師が人目を阻んではそこで聴くに耐えない作曲活動に勤しんでいる。


 どれも信憑性に欠けていたし、よくある噂だった。しかし、積極的に調べようとは思わないが、興味がないと言えば嘘になる。これ見よがしに隙間が開いていたら覗いてみたくもなる。

 何の気なしに天下は中を伺った。

 最初に目に付いたのは黒塗りのグランドピアノ。蓋を全開にすると迫力も桁違いだった。人の背丈程もある楽器というのも、鍵盤楽器ぐらいだ。

 その、強大な楽器に挑むかのように向かって座る背広。体の線が細い。女性だ。演奏を終えたところで時間が来たのだろう。立ち上がった背は高かった。少なくとも、自分よりも高い。

 楽譜を閉まってピアノの手入れをし、しっかり鍵を閉めた。その間一度も後ろを振り返ることはなかった。背中を見せたまま、鑑賞室を出て行った。

 顔、見てえな。

 それが最初に思ったことだった。



 天下の願いはすぐに叶えられた。翌日も覗いて見れば、彼女は腹筋をしていたのだ。発声練習の一環だろう。

 おかげで顔を拝むことができた。全体的に色素が薄い。ともすれば儚げな印象を受けるが、真っ直ぐ前を向く目には意思の強さを感じた。眉を寄せながらも黙々と腹筋運動を続ける姿は、試合前のアスリートのようでもあった。心は遥か先を見据えているが、足元を疎かにしない。確実に一歩一歩進もうとしている。

 腹筋を終えるとすぐに発声を始めた。残念ながら防音が施されていた部屋では何を言っているのかはわからなかった。が、背筋を伸ばし、何者かに立ち向かうかのように真っ直ぐ前を見据える横顔には凛とした美しさがあった。

 以来、朝練の後に鑑賞室を覗くのが天下の日課になった。毎日会えるわけではない。だいたい週に一、二回、それも不定期だ。会えた日はラッキー程度のゲン担ぎに近かった。

 しかし、ゆっくりではあったが胸の内では確実に育っていくものがあった。

 蕾が僅かに開きかけたのは夏も過ぎた秋頃だった。

 声を聞きたい。名前を知りたい。

 湧き上がる好奇心は止めようがなかった。

 担当は音楽に間違いない。それも声楽だろう。ピアノ以外の楽器を演奏しているのを見たことがない。

 ある程度情報は持っているのに、未だに名前すらわからなかった。音楽科は外部から講師を雇っている。専任ならともかく、非常勤講師となれば普通科との共通は皆無だ。朝礼や学校行事の際には注意深く音楽科の方を見たが、姿を現さない。

 やはり講師か。天下は肩を落とした。直接訊くしかない。しかし、どの面下げて? 向こうは天下の存在にすら気づいていない。

 音楽科の入学案内も確認したが、それらしき人物は見かけなかった。主だった講師は写真付きで紹介されているのに。

 悶々としたまま日々を過ごし、ついに三学期にまで持ち越した。相変わらず声どころか名前すらわからない。転機が訪れたのは、話しかけるしかない、と天下が腹を括った時だった。

 英語の課題プリントを集める役を押し付けられた。大した量ではない、が四階の教室から二階の職員室まで行くことには変わりない。渡辺民子も面倒な仕事をさせるものだ。手早く回収し、職員室へ急ぐ。次の授業は家庭科──移動教室だ。幸運なことに職員室前で民子を発見。佐久間と何やら談笑していた。

「渡辺先生」

 民子がこちらを向いた。

「はい」

 一瞬、全身が強張った。張りのある声。職員室から無防備に顔を出したのは、あのスタンウェイ先生だった。周囲を見回し、小首を傾げる。

「お呼びになりました?」

 佐久間と民子は顔を見合わせた。

「──あ」

 民子が声を漏らした。

「違いますよ。リョウ先生、彼は私に……」

 皆まで聞く前に、リョウ先生と呼ばれた彼女は頭を下げた。

「失礼しました」

「同じですからね」

 佐久間が苦笑混じりに言う。そこでようやく天下は我に返った。

「あの、渡辺先生……?」

「気にしないで。同じ苗字なの」

 課題プリントを受け取り、民子はリョウ先生を示す。

「声楽の渡辺リョウ先生。普通科の方にはあんまり顔を出さないけど、あなた達と一緒にこの学校に来たの。もうすぐ一年になるわね」

 新任。それは盲点だった。今年のパンフレットに載っているはずがない。作成した時にはいなかったのだ。

 軽く会釈する渡辺リョウを天下はまじまじと眺めた。思えば、ガラス越しで見ていただけだった。生で、ましてや面と向き合うのも初めて。

 ネクタイにスーツ。間近に見ると中性的な雰囲気は強くなった。やはり長身だ。が、天下の方がわずかばかり高い。おそらくこの半年の間に抜いたのだろう。そんな些細なことが嬉しかった。

「渡辺先生、ちょっとよろしいですか?」

 天下が口を開くよりも先に職員室から声。リョウは肩を竦めて「どちらの渡辺ですか」と聞き返した。で、話す間もなく職員室に戻ってしまった。取り残される格好になった天下は思わず職員室を覗き込む。

「鬼島、授業始まるぞ」

 うるせえ。何の権利があって生徒の恋路の邪魔すんだ。

 佐久間に向かって吠えたかったが、残念ながら天下は優等生で通っていた。佐久間に追随するかのようにチャイムが鳴る。後ろ髪を引かれる思いで、天下は職員室を後にした。


 後編に続く、かもしれません。

 ……すみません。予定枚数を遥かに超えてしまい、とりあえず前編のみを公開させていただきます。今日中になんとか後編も完成させます。書かねば。書く時。書けば。書こう!

 宣言通り、来年最初の本編更新と同時に消します。

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