(その十五)勢いに乗るのもたまにはいいでしょう
いつからいたのか。学生服のまま、天下は混迷の色を濃くした目で涼を見つめていた。引き結んだ唇がかすかに震えている。開けば溢れだしてしまうのを恐れているかのように、天下はひたすら口を閉ざしていた。触れれば壊れてしまうのではと錯覚するほど、目の前の少年は脆く、危うかった。
「よくわかったな」
「準備室に行ったら矢沢が」
彼女の前で電話したんだった。迂闊だった。雑誌に夢中だったから大丈夫だろうと思っていたがしっかり聞いていたのか。
「首突っ込むなって、言ったじゃねえか」
責める口調は弱々しかった。いつもの覇気がない。涼は周囲に気を配らなかったことを悔やんだ。天下に聞かせるような話ではなかった。
「天下」
鬼島氏が呼ぶ声は無視。天下は二百円をテーブルに置いて背を向けた。出入り口まで来たところで立ち止まり、首だけをこちらに向けた。
「みんなによろしくな」
皮肉ともつかない言葉だが、それを告げる天下はひきつったような、ぎこちない笑みをしていた。子供が親を安心させるようと浮かべる微笑み。涼は胸が苦しくなった。
五百円玉を一枚置いて鬼島氏に一礼した。店を出て、帰宅を急ぐサラリーマンや学生の間をぬうように進む。時折見失いそうになる背中にひやりとしながらもなんとか後をついていく。いつぞやの公園にまで差し掛かったところで涼は声をかけた。
「鬼島」
背中が止まった。
「……やけに積極的ですね」
優等生スイッチが入ってしまったようだ。これ以上干渉するなという警告を理解していながら、涼はあえて踏み込むことにした。
「今日だけだ。もともと私はお節介するのもされるのも好きじゃない」
好き嫌いの問題ではなかった。怖いのだ。相手の領域に上がり込んで傷つけてしまうことも、逆に上がり込まれて自分が傷つくのも。だからこんな「お節介」ができるのは勢いに乗っている時だけだ。止まってしまえば、また動けなくなる。
「だから、言うなら今だぞ。全部聞いてやる。君が嫌だというなら忘れる。でも私から動くのは今だけだ」
「今までの鬱憤を、ですか?」
「言って何かが解決するわけじゃない。けど折り合いはなんとかつけられる。少なくとも、気分は晴れるはずだ」
天下は観念したように肩を竦めた。大木の陰に隠れているベンチに座り、その隣に手を置く。座れということらしい。いつもの涼なら応じなかっただろうが、乗りかかった船だ。鞄を間に置いて座った。
「ガキじゃねえんだ。一人暮らしが寂しいなんて思ったことは一度もない。毎日好き勝手にできるから、むしろ親父には感謝してる。俺の我儘に文句も言わず、すまなそうに毎月金払ってくれてるし、必要な時だけ親父面して現れてくれるし」
不満なんかねえよ、と天下は呟いた。涼から見れば恵まれている方でさえあった。しかし、それはあくまでも今の状況が、だ。
「悪い事だとは言っていない。君自身が納得しているなら、他人の私がとやかく口出しするべきじゃない。世界は広いんだ。そういう家族の形があってもいい。でも、」
そう、どんなに合理的で物質的に恵まれているとしても『でも』が付いてしまう。
「でも変だよな。おかしいよな」
涼の言葉に天下は小さく頷いた。