(その十四)限度は守りましょう
背後で人が座る気配がした。声を忍ばせるべきだろうかと涼は一瞬考え、結局やめた。聞かれても困るのは鬼島氏だ。落ち着かせる意味も込めて涼はティーカップに触れた。ひんやりとした感触は苛立った気持ちを幾分静めた。が、怒りが収まったわけではない。
「記憶を失った奥様に非はない。貴方のせいでもない。誰も悪くはない。では、どうして彼一人が全部負っているんですか。おかしいですよ。昨日あなたがタイミング良くスーパーに現れたのも、天下君から連絡があったからでしょう? 学校の教師に疑いを持たれたから注意しろとか。そんな連絡をどうして高校生にさせるんですか」
最初に一人暮らしをすると言い出したのは天下だ。鬼島氏は一応反対した。反対を押し切って貫いた以上、それは天下自身が選んだことであり、彼が責任を負うべきことである――はずがなかった。
本当に天下の父親でありたいのならば、鬼島氏は何があっても天下一人を追い出すような真似をしてはいけなかった。最後まで向き合うべきだったのだ。天下自身が諦めても、鬼島氏だけは諦めてはならなかった。
陰険だと思いつつも涼は目を細めた。
「鬼島さん、卑怯ですよ。あなたは天下一人を切り捨てて、自分の周りを完璧に囲ってから白々しく『すまない』と形だけ謝ってる。実際は悪いなんて思ってませんよ」
「息子には、申し訳ないことをしていると思ってます」
コーヒーを持ったウェイトレスが両者の傍を通る。「お待たせいたしました」という愛想の良い声を背中で聞き、足音が離れてから涼は口を開いた。
「嘘です」
「本当です。私は彼の父親です」
「あなたの息子だという理由だけで、天下は抱えなくてもいい秘密を抱えて生きています。自分を犠牲にしてまでも、あなた方の生活を壊さないために、必死に何の問題もない優等生を演じているんです。そんな彼に、あなたは今まで何をしましたか?」
「どうにかしようとは思っています。今のままで良いはずがありません」
今が最善ではないことは確かだ。しかし、最善である必要もない。それなりに折り合いをつけて生活を送ることはできる。そして鬼島家は無理に折り合いをつけてしまった。そのひずみが全て天下に押し寄せてきたのだ。
鬼島氏の言っていることは詭弁に過ぎなかった。
「心にもない事を口にしないでください。あなたは本気で奥様の記憶を戻そうとは思っていない。今の生活を捨ててまでどうにかしようとは思っていない。ただ、天下の前では格好がつく程度に努力しているふりをしているだけです。転倒を避けて近くにあったものを踏みつけて『ごめんなさい。でも転ぶところだったんだ』と言い訳してるのと同じです。故意であろうとなかろうと、踏みつけられた側が痛みを負うことに変わりはありません。踏みつけた側の事情なんて関係ないんですよ」
故意ではない。だから仕方ない、で済む域を超えていた。悪意がなくても人は傷つけられる。そこに加害者の意思が関与する余地は僅かでしかない。
今となってはもうわからないが、母も手放したくて涼を手放したのではないのかもしれない。しかし、そうであろうとなかろうと涼が親に捨てられた事実に変わりはなかった。
鬼島氏はもう否定しなかった。
「何事もないかのように平穏無事に過ごしたい。でも天下には恨まれたくはない。それはズルいですよ、鬼島さん。天下に苦渋を飲ませてでも今の生活を守るのなら、彼に恨まれる覚悟を決めるべきです」
閉ざした口の代わりに目は雄弁に物語っていた。たかが教師だというだけで、何故そこまで責めるのか。関係のないことでしょう。
まさにその通りだ。涼は薄く笑った。一体何がしたくて説教じみたことを言ったのだろう。やはり自分は説得には向いていないと再認識する。相手を懐柔し軌道修正させるのではなく、弱い点を衝いて徹底的に叩き潰してしまう。再起不能なまでに。
適当に詫びて席を立ちあがろうとした時に、背後の気配が動いた。
「先生」
低いが通りのいい声。反射的に涼は振り向いて言葉を失った。