(その十三)突き進むしかありません
担任から天下の父親のケータイ番号を聞き出した。当然佐久間は怪訝な顔をしたが、遙香の件を持ち出せば逆らうことなどできない。それを見越して涼は佐久間に訊いたのだ。
仕事中らしく鬼島氏のケータイは留守番電話に切り替わった。怯むことなく涼はメッセージを残す。自棄に近い勢いが涼にはあった。一度我に返れば立ち止まって、進めなくなる。ならば迷う暇もないくらい突き進めばいい。
鞄を取り、ネクタイを締め直し、学校を後にし、そして涼は駅前の喫茶店にいる。運ばれてきた紅茶には手もつけずに、店内を流れる旋律にひたすら意識を集中させた。二つのヴァイオリンで編み込むように作りだされる厳格なバッハのドッペル・コンチェルト――繊細で、そして荘厳でありながらどこか物悲しかった。
レパートリーを一周して二度目のバッハを聴いている時に、待ち人は現れた。
「お待たせしました」
スーツ姿。会社から直接来たのだろう。さしずめ飲んで帰ってくるだの言い訳して。鬼島氏がウェイトレスに注文を終え、コーヒーが運ばれてくるまで涼は一言も喋らなかった。
「驚かれたことでしょう」
鬼島氏は言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
「息子から説明があったかもしれませんが、家内は記憶を失っておりまして。事故以来ずっとあの調子なのです」
「二年前、ですよね。記憶が戻る兆しもないと伺っておりますが」
「綺麗さっぱり抜け落ちているんです。本人の前ではとても言えませんが、こちらまで四人家族だったのではとふとした瞬間に思ってしまうほど、自然なんです」
沈痛な面持ちで鬼島氏はため息をついた。
「息子が家を出るのも当然です。耐えられないでしょう」
涼の中で悪魔が囁いた。本当にそうか? 逃げ出したのは本当に天下なのだろうか。
鬼島氏は嘘をついてはいない。鬼島美加子は事故で記憶を失った。天下の存在だけを。記憶が戻る気配もないので仕方なく天下は一人暮らしをしている。鬼島氏は細君の記憶が戻ることを願って日々を過ごしている。間違いはないだろう。そう、偽っているわけではないのだ。
ただ、一番重要な部分を隠している。目を逸らしているだけだ。
涼は冷め切った紅茶を一口飲んだ。
「どなたにも喋るつもりはありません。ご心配なく」
「ありがとうございます」
別に、あなたのためではありません。
深々と頭を下げる鬼島氏に言ってやろうかと思ったが、涼は口を閉ざした。鬼島氏のためではないのならば、一体誰のためだろう。佐久間と遙香の時とは全く事情が異なっている。天下のため、とは言い難かった。
仮に秘密を守り続けたとして、それが天下にとって良いことなのかがわからない。
「どうするおつもりですか」
鬼島氏が眉をしかめた。
「これからもずっと奥様の勘違いに家族全員が付き合うんですか?」