(その十一)毒だけで十分な場合もあります
天下は薄く笑った。何かが抜け落ちた笑みだった。
「病院行った時はさすがに驚いた。お袋さ、俺を見て『お見舞いですか?』とか笑顔で聞いてくるんだ。同室の誰かの親類だと思い込んで疑ってもいなかった。最初は、事故のショックで記憶が混乱してんだろ、とか軽く考えてたけど、全然変わんねーんだ。何度会っても俺は余所の子で、自分は四人家族だと思ってる」
「カウンセラーは? 専門医に診せたのか」
「退院する前に二、三回。原因は事故で間違いはないらしい。一種の記憶喪失だってよ。明日戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない。でも、俺のこと以外はいつも通りなんだ。普通に起きて、うるさく勉強のこととかに口を挟んで、入院してる自分のことよりも家族の飯のことを心配して――何も変わってなかった」
そう語る天下の口調は淡々としていた。相反するように目は遠くを見ている。涼はその眼差しに既視感を抱いた。養護施設にいた皆が時折、こんな目をしていた。仕方ない。どうしようもない。遙か遠くを望み見ながらも諦めてしまった眼差しだ。
涼は胸が焦がれるような痛みを覚えた。
「それで、家を出たのか?」
「家に他人が上がり込んでたらマズいだろ。ちょうど受験も終わった頃だったし、お袋が落ち着くまで一人暮らしすることにした。親父は反対したけど、結局は――」
そこで天下のケータイが鳴った。「悪い」と一言断ってから耳に当てる。
「こっちは大丈夫だ。お袋は?」
察するに父親殿だろう。天下は落ちついた様子で通話していた。
「……そうか。悪かった。仕事あるのに」
おいおい。何を謝っている。涼は自分の不快指数が増していくのを感じた。どんな会話が繰り広げられているのかが察せるだけに、その上昇率は半端ない。
「俺は平気だよ」
どこがだ。
「心配すんな」
ちょっと待て。なんで強がっているんだ。
「必要ねえよ。こっちでなんとかする」
(これが、高校生が親とする会話か?)
涼は頭痛に近い憤りを覚えた。冗談じゃない。全然平気でも大丈夫でもないだろうが。
天下からケータイを奪い取り、相手に罵声の一つでも浴びせてやりたかった。が、当人が納得している以上、涼に口出しできることではなかった。自分は、天下の担任でもない。ただの音楽教師だ。
「……わかった」
苦々しい顔で天下は頷くと、通話を切った。
「親父が、あんたと話がしたいとさ」
「私は話すことがない」
涼は素っ気なく言い放つと踵を返した。所詮、自分は天下とは何のかかわりのない教師だ。口止めなどする必要はない。
「悪かったな。余計なお節介をして」
捨て台詞を残して公園を後にする。明日、佐久間には無理だったことを伝えよう。佐久間が引き下がるのならばそれでいい。納得せずに自ら調べ出しても別に構わない。勝手にすればいい。
離れれば離れるほど焼けつくような焦燥感はむしろ激しさを増していた。だが、どうでもよかった。関係ない。鬼島家の事情など。天下など、涼の知ったことではなかった。