(その八)可愛げのある冗談にしましょう
【警告】
今回、教育上不適切な発言がございます。人によりけりですが、苦手な方は戻ることをお勧めいたします。程度で言えば「電車の中で耳にしたら吹き出す」レベルです。間違っても以下のようなことを公共の場で口にしないでください。モテなくなります。
抱く――ああ、そうか。天下があまりにも真面目な顔で言うものだから、涼は自分の発想が飛躍しているのだと解釈した。
「ウチになら肉球クッションがあるけど、今はない。明日でよければ持ってくる」
「先生を、だよ。直接的表現を使うなら『ヤらせてください』」
眉一つ動かさずに平然と天下は言う。
「別の言い方をすれば、情交、密事、セックス、契る、まぐわう、手折る――まあ、どう言葉を繕っても結局は一緒だけどな。要するに『突っ込ませてください』ということです」
涼は果てしない眩暈に襲われた。悪夢だ。早く醒めろ。醒めてくださいお願いします今すぐに。いや、むしろ意識を飛ばして無かったことにしたい。
本能的に危険を察知した身体は天下から大きく離れた。
「落ち着け。とにかく待っ、ちょっ……れ、冷静になろう」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。額に片手を当て、もう片方の手で天下を宥めた。本当に目の前にいる生徒は普通科が誇る優等生か。至極真面目な顔をしておきながら口からは教育上不適切な単語が飛び出てくる。
一概に端整といっても、天下は硬派な顔立ちをしていた。鴉の濡れ羽のような黒髪に映える白皙の肌。少々日に焼けてはいるものの、なめらかな頬を持つ彼は色男である反面、ストイックさを持っていた。交際相手と仕事を秤にかけるとすれば、間違いなく仕事に傾く。そして「冷たい」と非難されて別れる羽目になるようなタイプでもあった。
そんな彼の印象を遙かに裏切る発言。これで冷静になれと言う方に無理がある。
「早まるな。まだ若いんだからやり直しはいくらでも――」
途端、天下が大きく吹き出した。肩を震わせ笑いを洩らす。切れ長の目尻には薄らと涙が浮かんでいた。
「本気にしました?」
涼の頭は一瞬にして沸騰した。怒りのあまり耳鳴りがするなんて初めてだ。握り締めた拳が小刻みに震えた。少しでも本気にした自分の愚かさを露呈されたようで、いたたまれなかった。
「……授業時間はもうとっくに過ぎてる。早く帰れ」
押し殺したつもりでも怒気は漏れていたのだろう。天下は笑みを引っ込めた。
「何だ。怒っているんですか?」
「怒ってない。だから出ていけ」
「先生が言ったんだろ。生徒は対象外だって」
その通りだ。だからこの怒りは天下に対するものではない。彼を責めるのはお門違いだ。わかっている。そんなことは。
「何度も言わせるな。教室に戻りなさい」
半ば強引に天下を追い出して、涼は鑑賞室の鍵を閉めた。息をするのも苦しい。崩れ落ちるように絨毯の上にへたり込んだ。止まらない。手の震えも嗚咽も。
恥ずかしい。情けない。いたたまれない。涼の胸を占めるのはそんなものではなかった。ただただ怖かった。母と同じ轍は踏まないと自ら厳しく律してきたつもりだった。だが、現にこうして揺らいでいる。どうして、何故、流されればどうなるか骨身に染みて理解しているはずなのに。
自分自身が恐ろしかった。身体の中に流れる血は、涼にとって恐怖以外の何物でもなかった。自分を捨てた母と同じ血。つまりそれは。
すなわち、同じ過ちを犯す可能性を秘めていることだった。