(その六)詮索にも限度があります
いろいろ小難しいことが書かれているが、内容は単純だ。ご子息ご息女の修学旅行参加の承諾。保護者のサインを貰えばいい。形式的な書類だった。
「二年一組では君だけだそうだ」
天下は憮然とした顔で承諾書を一瞥した。
「明日持ってくる、って俺は言った。ンなことをあんたに頼んだのかよ」
口調には呆れの色が濃い。確かにそれだけだったら大したことではない。形式的なものだし立場上推奨するわけにはいかないが、誰かに代筆してもらうことだってできる。担任でも普通科教師でもない涼の出る幕はなかった。
「誰からサインを貰ってくるつもりだ」
「保護者なら誰でもいいんだろ? 適当に」
「電話したってさ、君の家に」
承諾書に片手を置いたままの状態で、天下が硬まった。
「掛けた先は鬼島なのに、君のことを聞いてもわからなかったそうだ」
名前すら知らなかった。始終「どなたですか」の一点張り。嘘をついているようにも聞こえず、しかし間違いなく『鬼島』家なのだ。佐久間が頭を抱えても無理はない。おいそれと本人に訊けることでもなかった。
三者面談の日が思い起こされた。天下のことを一切匂わせずに帰宅した父親。聞こうともしない母。自然であればあるほど違和感は大きくなった。
鬼島天下はどこにいる。
「佐久間先生も驚いたってさ。事情を聴くにも、君はどうも家庭に関しては口を閉ざしがちになる。それとなく聞いてみてほしいと頼まれた」
「それとなく?」
天下は薄く笑った。
「直球じゃねえか」
「あいにく変化球は得意じゃないんだ」
自分ほど説得や交渉事に向いていない人間はいないと涼は思う。変な理屈をこねまわすし熱意がないし、何よりも短気だ。佐久間の人選ミス。同じ渡辺でも英語教師の渡辺民子に頼めばもっと上手くやっただろうに。
「先日、君の自宅前まで行った時も様子がおかしかったな」
天下は顔を上げた。高校生とは思えないほど怜悧な美貌に酷薄な笑みが張り付いていた。
「だから?」
紡ぐ言葉は突き放すかのように冷たい。が、もっともだ。鬼島天下の家庭事情なんぞ渡辺涼には関係がない。仮に天下が修学旅行に行けなくなったとしても涼には何の関わりもない。ただの教師と生徒とは、そういうことだ。
「このままだと皆で楽しく修学旅行じゃなくなる。少なくとも佐久間先生の気は晴れないだろう。どうして君の家に電話したのに、相手は君の存在すら知らないのか。正直に話すか、佐久間先生の掛け間違いで通すか、もしくは――」
涼は天井を仰いだ。
「佐久間先生の納得する言い訳を適当に考えるかのどれかだ。好きに選べばいい」
言ってから、もっと踏み込むべきなのだろうかと考えた。涼自身、詮索されるのは好きじゃない。だから他人の詮索もしない。どんなに疑惑が頭をもたげても、だ。それが自分で決めたスタンスだとはいえ、教師としてはお節介の方がいいのかもしれない。
「実は母親が違うんです」
唐突に天下が言った。
「父には愛人がいまして俺はその子供なんです。だから暮らしている場所も違いますし、三者面談にも母は来ません。父は俺のことを必死に隠して四人家族の平和な暮らしを守っているんです」
恐ろしいほどに淡々とした口調だった。他人のことを話す時でさえ、ここまで平坦にはならないだろう。