(その五)話は簡潔にしましょう
全ての授業が好き、という人間は滅多にいないだろう。
涼の場合、数学はそれなりに好きだったが、科学は正直苦手だった。原子記号は呪文にしか聞こえなかったし、化学式に至っては理解しようとする気力すら湧いてこなかった。授業中もひたすら時間が過ぎることを待っていた。高校生までは。
音大に入ってしまえば科学からは解放された。必修科目でなければ嫌いな講義を取る必要もなくなり、ずいぶんと自由にやってきた。つまり――
大学を卒業し、教師になってから再び同じ気分を味わう羽目になるとは夢にも思っていなかったのだ。
それも、涼が一番好きな科目で。
(……帰りたい)
伴奏をしつつ、涼は心底願った。チャイムは。授業はまだ終わらないのか。
試験で歌うかもしれないと言っておいただけあって、生徒たちは真面目に歌っている。もともと音楽が好きで選択した生徒達だ。授業にも積極的に参加してくれるし、やりやすかった。ただ、一人を除いては。
唯一の例外、鬼島天下は始終鋭い視線をこちらに投げかけている。その威力たるや、蛇を遙かに凌ぐ。肉食獣だ。隙があろうがなかろうが、とにかく獲物を喰らうつもりだ。
致死量に近い殺気を受けつつも、涼は平静を装い授業を続けなければならなかった。これを拷問以外になんと呼ぶ。
チャイムが鳴った瞬間に、涼は安堵のため息を漏らしそうになった。が、すぐさま危機が去っていないことを悟った。皆、足早に鑑賞室を出ていく。当然だ。彼らの教室は向こうの棟、それも三階だ。早く戻らなければ授業に遅刻する。
にもかかわらず、悠然と着席している生徒が約一名。
(あれ? 事態が悪化してないか?)
天下は頬杖をついてじっとこちらを見ている。ただでさえ切れ長の目はさらに細まり、凶眼と化していた。最後の生徒が扉を閉める音が、死刑執行の合図に聞こえた。
「……授業のことで相談、ですか」
底冷えするほどドスの利いた声。丁寧語なのがまた恐ろしい。
「挙句、あんな野郎にホイホイついていきやがって」
「仮にも教師だ。言葉には注意しなさい」
「見境もなく鑑賞室で生徒相手に盛った佐久間先生が、よほどお好きなようで」
嫉妬深い。彼と付き合う女性は苦労するだろう。涼は顔も知らない未来の交際相手に同情した。ため息が出る。
「生徒に告白されました。私は断りましたが懲りもせずにまた告白してきやがりました。今度は私に『諦めろ』とまで言ってきました、って馬鹿正直に言った方が良かったか?」
言葉に棘があるのは自覚していた。しかし躊躇するわけにはいかない。天下の片眉が跳ね上がった。
「そう言われた方がまだマシだったな。少なくとも野郎が邪魔してくることはなくなる」
「だから先生と呼びなさいと何度言っ」
「教師扱いしてほしかったら、教師らしい振る舞いをしやがれ」
吐き捨てるように天下が言い放つ。
「どうせまた頼み事でもしに来たんだろ? 矢沢とのデートでアリバイ作りにでも協力しろだのなんだの、他人を何だと思ってんだ」
涼は少々意外だった。想像以上に天下は聡い。佐久間を嫌うのも子供染みた嫉妬だけではなく、彼の卑怯な点を見抜いていたからだ。いや、卑怯というほど酷くはない。少々ずるいだけだ。大人はそれを『世渡りが上手い』と言う。そんな些細な処世術も許せないところは、いかにも青年らしい潔癖さだが。
前置きをいくらしても無意味であることを涼は悟った。直球でいくしかない。
「半分正解だ。佐久間先生に頼まれごとはされた」
ほれ見ろ、と言わんばかりに天下は鼻を鳴らした。涼はファイルからプリントを取り出した。佐久間から預かったものだ。
「それでも彼は教師だ。そして君の担任でもある」
天下の眼前、机の上にそれを叩きつけた。